04:帰り道、逢魔が時。(鮪の章)
そのひとは突然現れた。
気配もなく、前触れもなく、文字通り、突然だ。
まるで、空(くう)をカッターでスパッと切って、そこから這い出たように見えた。
森下海斗(もりしたかいと)はギョッとして、目を見開いたまま立ち尽くした。
そして、その人の顔がハッキリ見えた時、思わず声をかけてしまった。
「母さん!」
駅前広場の片隅にある地域指定の喫煙スペース。
そのスペースは白線で円がひかれており、その中央にスタンド型の灰皿が置かれている。
午後六時の夕暮れ時。ホッとひと息をつく場所だ。
会社帰りのサラリーマンたちだけでなく、パート帰りの年配女性の姿も多い。
そのひとも煙草をくゆらせて、ふぅーを煙を吐いていた。
そして、声をかけた海斗を自然に、当然のように振り返った。
「あ……」
その顔をまじまじと見て海斗は確信した。
見間違いなんかじゃない。他人の空似でもない。
(やっぱり、母さんだ!)
そのひとは首だけ海斗の方を向き、軽く手を挙げた後も煙草を吸い続けている。
(間違いようがない! 母さん本人だ!)
海斗は思い切って、そのひとに歩み寄った。
……出来るだけ自然に、何気なく……を装って。
「母さんも今帰り?」
大勢の人が行き交う、ざわついた駅前広場で、当たり前のように……ごくごく当たり前に声をかけた。
海斗はスーツ姿だった。勤務している海山商社からの帰り道。
彼は懐かしい想い、駆け寄りたい気持ちを抑え、彼女に近づいた。
「今日は珍しく早いんだね。母さんと一緒に夕飯食べようと思ってさ。ほら」
彼は白いレジ袋を掲げて見せた。レジ袋には「マグロのどんちゃん」と書いてある。
本当は妹の分だったが、咄嗟に嘘を付いた。
「マグロ? もしかして、マグロの漬け丼? あんたはホントに気が利く息子だねぇ」
その「母」はあっさりと返事をした。今朝別れたばかりの感覚だ。
「マグロ大好きだろ、母さん。どんちゃんの漬け丼、お気に入りだしさ」
「そう! ココのはなかなかイケるのよ」
母は、顔をほころばせながら海斗を見上げた。
母の笑顔は、仕事の疲れを吹き飛ばしてくれる無邪気なものだ。
「母さんも相変わらず、煙草好きだねぇ。家に帰ってから吸えばいいものを。別に俺は嫌がってないじゃん」
「まぁ、このひと時が好きなのかもね。煙草って、実は『後ろめたさの美学』なんだよね〜」
「やっぱ、母さんって変わってんなぁ。昔っから変な人だと思ってたけどさ」
海斗は気持ちよさそうに笑った。
「そ、そう? 母さん、そんなに変わってるかな?」
「オレが小学生の時に、PTA役員が回ってきたことあったじゃん」
「ああ、あったねー。あれ、嫌だったんだよぉ〜。女同士の集団でごちゃごちゃすんの嫌ぁい!」
「面倒臭いからって、めちゃくちゃにするために、PTA役員で劇団作ろうって言い出すか?」
「何かモメてたからモメついでに劇団にするとおもろいな〜と思ってさ。でも、モメ事おさまったじゃない」
「そうそう! 一番イジメられてるトシヒデのお母さんを主演にして、文化祭でお芝居して大成功だったもんな!」
「トシヒデくんのお母さん、その後、性格まで明るくなっちゃってさ。ほら、やっぱいいじゃん!」
「もう! 母さんの行動は読めないよ。まわりを巻き込みすぎ!」
海斗は腹を抱えて思い出し笑いした。
母はそんな海斗を眩しそうに見上げた。
「海斗……ココで食べてかない?」
母が指差す駅前広場のベンチを見やって、海斗は驚きの声を上げた。
「ええっ、恥ずかしいよ〜! 家に帰って食べればいいじゃないか!」
最初からそのつもりで声をかけた。
「いいじゃない。親子水入らずで、ベンチに並んでマグロの漬け丼……乙だねぇ〜!」
「何が乙だね〜だよ。母さん、やっぱり変わってるよ」
しょうがなく、海斗はベンチに腰かけた。
蓋を開けると「マグロの漬け丼」はまだ美味しそうなご飯のぬくもりが残っていた。
ご飯の上に並べられたマグロの赤身の上に、海苔と白ごまが散らしてある。どかっと、わさびが乗っかっている。母は思わず、喉を鳴らした。
「海斗、マグロの良し悪しって何だか知ってる?」
海斗は箸を止め、首をひねった。
「う〜ん、鮮度じゃないの? あ、でもほとんど冷凍ものか」
母はここぞとばかり、得意気に話し始めた。
「冷凍ものでも、その鮮度を保つためには最初が肝心なの。まず、釣り上げたらすぐに特別な桶に頭を下にして入れるわけ。この桶には海水氷が入っているのよ。氷締めにして、血抜きをする。氷締めとか血抜きをしないと、身が傷んだり、血の臭いがして食べられたもんじゃなくなるの。まだあるわよ。その次に、別の大きな容器に、また海水氷を入れて、今度は魚を横にして入れる。これで全然違うの。漁師さんは大変な技術と迅速な処置が必要とされているのだよ」
「へー、血抜きかぁ。知らなかった」
海斗に感心され、母は鼻高々で箸を振り回す。人目もはばからず……。
「外国ではおいしい刺身がなかなか食べられないし、今までほとんど人気がなかったのはね、この『血抜き』の技術を知らなかったからなのよ。マグロなんて捨てられてたんだから。まぁ、江戸時代の後半まで「猫またぎ」なんて言われて日本人も食べてなかったけどね。でもさー、日本の水産業の技術ってすごいと思わない? 世界一じゃん!」
だんだん呆れてきた海斗が母の熱弁に水を差す。
「わかった、わかった。わかったから早く食べなよ、母さん。ったく……子供みたいなとこあんだから……」
二人はモリモリと食べ始めた。マグロの漬け加減がちょうどいい。海斗の好みの漬け込み方だ。わさびがほどよく鼻をつんとついてくる。
これは、最後に熱いお茶をかけて「マグロの漬け茶漬け」にしても美味いだろうなと海斗は思った。
「今度さ、オレがマグロの漬け丼を作ってやるよ。なかなかうまいんだぜ」
丼から顔を上げ、母は意外そうな顔を海斗に向けた。
「あんた、作れるの?」
「まず、醤油大さじ2、だし汁大さじ1、みりん小さじ2、ごま油小さじ1/2、わさびも小さじ1/2。これに好みで白ごま大さじ1とかおろしたニンニクも入れてもいいんだ」
「それが漬けダレ?」
海斗は、漬け丼をかき込む箸を止めた母にニッと笑った。
「そう! それで、マグロは5ミリ程度の厚さに切って、その漬けダレに数時間つけ込む。あんまり漬けすぎると塩辛くなるから要注意だよ」
「うん、うん」
母は得意げに喋る息子の横顔を微笑ましく見つめた。
「器にご飯を盛って、漬けたマグロを乗せて、小口切りにしたネギかあさつき、白ごまを少々ちらして……わさびの量はお好みで。これで、二人分の『マグロの漬け丼』の出来上がり!」
母の口からふと素朴な疑問が口をついで出た。
「お父さんの分は?」
すると海斗はハッと目を見開き、母に向き直り、悲しそうにつぶやいた。
「何言ってんの、母さん? 父さんは死んだじゃない……」
母の記憶に寂しい雨が染みこんできた。じわじわじわじわ……。
「……うん」
「母さん、どうしたの? ボケるにはまだ早いよ」
「……ホントにそうだね」
途端にわざと明るく、冗談めかして海斗がいたずらっ子のような顔になった。
「母さんにはマグロをがんがん食べて、せいぜい長生きしてもらわないとね」
マグロの栄養価の高さは海斗に言われなくても母は知っていただろう。
マグロは部位によって、含まれる栄養が違う。
漬け丼で食べた赤身にはたんぱく質と鉄。特に良質なたんぱく質は豊富で、必須アミノ酸のメチオニン(食品中に不足しやすいアミノ酸で、脂肪肝を防ぐ効果がある)を多く含んでいる。また、必須微量元素のセレン(脂肪の酸化を防ぐ一方で、ビタミンEと一緒に過酸化脂質を分解する働きがある)も含まれている。マグロの赤身はトロなどの部位に比べると安価なワリに優れものの栄養素がたっぷりだ。
その時、突然思い出したように母がつぶやいた。
「あー、水族館に行きたいねぇ!」
「母さん、水族館大好きだもんなぁ。みんなでよく行ったよね。母さんたらオレらよりも大はしゃぎだったじゃない?」
「あんたも喜んでたじゃない」
「そりゃ、子供だもん。大喜びだよ。でも、母さんの方が俺らよりはしゃいでた! それは間違いない!」
「そ、そうかな。大水槽が海の中みたいでキレイだったなぁ〜。エイがさ、大迫力なのっ!」
「分かった、分かった。また、一緒に行こうよ。大きな水族館に……」
「ホント? 親と一緒なんて恥ずかしくない?」
「思春期のガキじゃないんだから恥ずかしくないよ」
「やったー! 約束ね。絶対だよ!」
「小学生かよ……」
(本当にこの人は昔から子供みたいなところが多かった)
息子である海斗から見ても微笑ましかったり、ハラハラしたり……。
また、水族館に行こう……二人で一緒に。いや、妹にも話してみようか……。
いや、妹の朋美に会わせたい。顔を見せてやりたい。
海斗は意を決して立ち上がった。
「さぁ、母さん。帰るよ。さすがにこの季節にベンチで夕飯って寒すぎるからね。帰ったら風呂だ、風呂!」
ベンチから立ち上がり、歩き始めた海斗を母は呼び止めた。
「ごめん、海斗。一本だけ吸っていい?」
「食後の一服? いいよ、一本だけ待ってるから……」
母は立ち上がりながら海斗の姿に目を止めた。
「そういえばさ、今日の就活……どうだったの?」
「え? 就活?」
「スーツ姿……なかなか板に付いてきたじゃない。早く決まるといいけどね」
ああ、そうか……。
このひとは、自分の就職が決まる前の母なんだ!
五年ほど過去の母さんなんだ!
「ホントだね……」
どっちとも取れる曖昧な言葉を海斗はボンヤリと返した。
母は「指定喫煙スペース」のサークルにスタスタと進んだ。
その時……。
海斗は咄嗟に母に声をかけた。
予感がした。
また逢えなくなる。声をかけなければ……!
「母さん……これ……」
海斗は自分のバッグに付いていたキーホルダーを外し、母の手に握らせた。
小さな小さな木の魚……。皮のホルダーには「onagawa」という焼き印がされている。
「これ……なぁに?」
海斗は母を愛しい目で見つめた。
「母さん……また、一緒に行こうね……水族館に……約束だよ」
「か……海斗?」
そこには今までいた母の姿はなかった。消えていた。影も形もない。
あたりを見回してもどこにも母はいなかった。
一瞬のうちに、イリュージョンのように消えてしまった。イリュージョンで使う大きな布や箱さえもなかった。
全く別の世界から入り込んで……また、出ていったように……母の姿は跡形もない。駅前広場の喧噪は元のままだ。
海斗は夢を見ていたような気がした。
記憶が薄れないうちに、噛みしめるように考えた。
分からないことだらけだ。
でも……考えても仕方のないことだ。
母親に会った。
マグロ丼を食べていた。
子供みたいに笑っていた。
昔話をした。
海斗が小学生の頃の話。水族館の話……。
——彼女はまだ……生きていた。
母のそばにいたかった。
母とともに生きたかった。
逢魔が時……また、ココにくれば逢えるだろうか。
そして、また一緒に水族館に行くことができるだろうか。
今度はいつ逢えるだろうか。
過去に、生きる……生きている母に……。
(鮪の章 ◆ 終)
表紙イラスト:布施月子(日本画アーティスト)