誰の為のトラウマか

ドラマ『Nのために』の中で、過去のトラウマを抱えていた杉下に管理人の野原のおじいちゃんが

「苦労はね、忘れるのが一番。」

そう言いながら、温かな眼差しで杉下の頭を優しく撫でるシーンがある。

もう苦しまなくてもいいのだという安堵で杉下は涙を流す。


トラウマは、乗り越えられるか否かという論点で語られる事が多いけれど、杉下の様に過去に後ろ髪を引かれて生きてきた私は、「そもそも私にはトラウマを乗り越えようという意思があるのか」という大きな事実に気付き始めてしまった。

いつか殺されてしまうのではないかとハラハラしながら五感を研ぎ澄ませ寝たふりをしていた事も、母親のお腹を蹴る父親を泣きながら必死で止めようとした事も、これらのトラウマはいつだって私の生きる理由だった。

朝ベッドから起き上がる事が出来ない理由にもなったけれど、最終的にはいつだって私を突き動かすものだった。手放しで幸せになりたいと思わせてくれた。

毎日毎日考えた。あの時の事を頭の中で再生しては苦しんでいた。救って欲しいと思った。許したかったし許して欲しかったし、許す許さないでは無い別の次元へ行ってしまいたかった。

苦しい思いをしていたのに、過去のトラウマは愛おしかったのだ。

なぜならそれは私の知らないところで私のアイデンティティに成り果ててしまっていたから。もう手遅れだった。

認めたくは無い。けれどきっと私には可哀想な私が必要だった。だってそんな私を作り上げなければ、誰も私を可哀想だと思ってくれないじゃない。だってそうしなければ、小さい頃の私は成仏されないじゃない。

だから頭の中で何度も小さな私を召喚しては痛めつけた。あの時の記憶を何度も何度も何度も、もう十分だというほどに思い出しては、記憶の暴力で殴りつけた。

もうここまでくれば私は被害者面をしている加害者で、これらの記憶全ては私が私を生かし続ける為のトラウマだった。

過去に苦しんだ可哀想な女の子は誰が押し付けたわけでも無い役だった。

それを自ら買って出て苦しむ。理論が破綻していた。

誰の為のトラウマなんだろうか。

「苦労はね、忘れるのが一番。」

忘れたとしても私は消えない。

過去の辛かった事を全て忘れて、例えば思い描く手放しの幸せを手にしたとしても、私は消えないのだ。

例え私が可哀想な女の子の役を降りたとしても、誰も私の事を責めなければ、その時はその時で私に見合った幸せが向こうからやってくる。

人生は始めからそういう風に出来ていた。

私がこの役を降りる決意すら出来れば。

世界の仕組みなどそれ程のものだったのだ。

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