「読んで」って、いつも言えなくなってしまう私だけれど
昔むかし、わたしにとっての読み手は妹でした。その頃に書いていたのはルーズリーフ。読み手は妹ただひとり。どこに出すわけでもなく、中学生頃までのわたしはただただ書いていました。
中三の秋、文化祭に行った高校で手に取った文芸部誌。そこに書かれていた小説や短歌の数々にすっかり魅了されたわたしは、当時の偏差値では無理めも無理めだったにも関わらず、その高校を第一志望に。
結果、志望校に入学。はじめて妹以外の読み手、そして身近に書き手を得ました。最初はとにかく気恥ずかしくて。読んでほしい、だけど躊躇してしまう。そんなせめぎ合った「あわあわ感」を、今でも覚えています。
というか、今でも割とあわあわしてしまう。こうしてnoteに日々書いていながらどの口が、かもしれないけれど、わたしの場合、創作作品を誰かに見せるのは今でもハードルが高い。特に「わたし」を知っている人には、基本的に見せられない。
なんかね、やっぱりね、大切だからなんだと思う。稚拙であったとしても、わたしの一部をしぼって書いたものだから。褒められたいわけじゃないけれど、けちょんけちょんに貶されるのは、やっぱりどこか怖い。
ただ、「わたし」を知らない人に読まれる抵抗感は薄らいで、高校時代にはホームページを作って小説を載せていたし、日記として使っていた無料ブログには、今のnoteのような思考の垂れ流しを書き記していました。(このあたり、世代の人でなければわからない話かもしれないですね。どうやらイニシエ扱いされることらしいですし)
noteのようなプラットフォームではないから、読まれることのほうが奇跡で。だけど、そんな奇跡のような瞬間が時折訪れるから、なんだかんだと書き続けてきました。
前に、こんなことがありました。
https://note.com/uokawakana/n/nf41c78db6e3e
読み手であり、また書き手仲間でもあった方が、数年来の時を経てメールをくれたときのことです。もうね、本当にめちゃくちゃ嬉しかった。わたしも「あの頃あの場所で読んだあの作品」が記憶に残り続けているけれど、わたしの書いたものもまた、彼女にとってのそうしたものだったのかもしれない、と思って。
「読んでもらう」ハードルって、本当に高い人にとっては高いです。「読んでほしいんだけど」だなんて、もうかれこれ随分と口にできた試しがありません。でも、やっぱり偶然でも気まぐれででも、読んでもらえたら嬉しい。その喜びって、何ものにも代えがたい感情だと思っています。
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feedback saunaというサービスがあります。noteの下書きを読んでもらい、感想をもらえるものです。
このサービスの企画にお声がけをいただき、微力ながら「読む側」として参加しています。
なぜにわたしなんぞが、という気持ちがなくはないのですが、「どんなものが読めるのかなあ」と楽しみでもあります。
周りに「書いてみたんだけど」と読んでもらえる相手がいなくて、だけどずっと書いている、そんな人もいるでしょう。「読んで」と差し出すのには勇気がいる人もいるでしょう。だけど、読んでみてほしい。そんな想いを抱えている人に、この企画が届いたらいいなと思います。