それは「ネタ」か、それとも「ヒト」か
ものを書く人間には、「あ、これはネタになるな」と思うことが多々あるだろう。自分の失敗談をはじめ、「こういう人がいた」「こんな会話を聞いた」など、アンテナを張り巡らしている人は少なくないだろうと思う。
これは創作でも同じだ。「こんな変わった仕事があるんだ」「こんな変わった人がいるんだ」という出会いは、発想力や執筆モチベーションの原動力になる。こうした気持ちは、当たり前のものでもある。
しかし、その対象とされる人たちに対する敬意を忘れてはならない。相手は「人」であり、「ネタ」ではない。そのことを、書き手はもちろん、表現にかかわる人間は肝に命じておかねばならないと思っている。
昨日、ヒュージャックマン主演の「グレイテスト・ショーマン」を観た。実在の人物を下地にしたミュージカル映画だ。この中で、主人公が出演を打診する歌手に、「ネタにしないで」といわれるシーンが出てきた。
報酬を弾むから、と申し出る主人公に対し、「報酬は寄付をしてください」と返す歌手。それに対し、「いいね。ネタになる」と言った主人公へのセリフだった。「ネタになる」から慈善活動をしているわけではない、と言いたかったのだろう。
主人公は、「ユニークな人たち」、つまりマイノリティの人たちを募って、興行を行っていた。そのきっかけも、「珍しいものを見れば人は喜ぶ」という思いで、つまるところ「金になる」気持ちも大きかったのだろうと思う。結果的には、隠れて生きねばならなかった「ユニークな人たち」に居場所を作ることに繋がり、家族やホームを作れたため、彼ら彼女らをただ「利用する」ことにはならずに済んだのだけれど、これは危ないことでもあったな、と思う。
その対象になる人たちへ、思いを寄せられるか。理解できない前提で、理解しようと歩み寄れるか。喜びや苦しみに、人として向き合おうとできるか。想像力を働かせることができるか。
こうしたことを抜くと、たちまち相手をただの「ネタ」にしてしまう危険性があることを、覚えておきたい。
わたしはわたしの人生しか生きられないから、創作をするとき、登場人物の中に「わたしが経験したことがない人生を歩んでいる人」を出す。それは、時として不幸な経験をしている人であったり、病や障がいを抱えている人であったり、「マイノリティ」と呼ばれる人たちであることもある。
そのこと自体は何らおかしいことではないのだけれど、そうした人物が出てくるとき、わたしはその登場人物の抱える特性を、「ネタ」として扱わない書き手でありたい。同じ立場にいる人たちのことを想像して、その上でその人物に寄り添って(時に憑依して)書きたいと思う。
記事においても同様だ。「これは話題になるんじゃないか」という「ネタ視点」でしか人や物事を捉えられない人間にはなりたくない。そんな思考回路で、誰かや何かに近づくような、ハイエナにはなりたくない。
すべての人が傷つかないものを書くことは不可能だ。だけど、せめて人や物事を、きちんと人や物事として見つめられる姿勢は、書き手として保っていなければいけないな、と思っている。
「グレイテスト・ショーマン」の感想らしいものではないのだけれど、これもまた、映画を観て感じたひとつの感情体験だ。おまけに述べておくと、ストーリーも歌も最高なので、ぜひ観てほしいなあと思う。