それは、たとえば恋のお相手のように
誰にでもできるかもしれないけれど、その人にしかできないものは、やっぱりある。そう思った一日でした。
はじめて、きちんと自分の写真を撮ってもらいました。ふだんは母親だということもあって「撮る側」ばかり。メインで撮ってもらう側に立つことは、恐らく結婚式以来だったのではないかな。
もともと写真映りはあまりよくありません。自然に写ること自体苦手なのだけれど、ご縁をいただいたことで飛び込んでみたのでした。
カメラは専門外だから詳しいことはわからないのだけれど、仕上がってきた写真を見て感じたことは、「唯一無二のもの」だということ。
「こういうの、よく見るよね」というものではない、「この人だから撮れるんだろうな」という写真が、たくさん並んでいました。ちょっとナルシストになれるくらい(笑)……いや、本当に実物より数倍増しに良いと同伴者にも言われたくらいのものなのですよ。
「わたしにしか書けないものなんてない」といわれることがあります。実際にその通りでしょう。日本語の表現は使い古されているわけですし、新しい表現なんて簡単に生み出せやしません。
手を替え品を替え、創意工夫をしながら書いている、それが現実なのだと思っています。極論、「誰が書いても同じもの」ともいえるでしょう。……主観バリバリで書くものではない限り。
それでも、やっぱり、「わたしだから滲み出るもの」もどこかにあるのだろうな、あったらいいな。そうあらためて思いました。
それは文章の場合、目に見えてはっきりわかるものばかりではないでしょう。ほんの小さなシミのようなものかもしれません。「なんとなく」という程度の違いであることの方が多いのではないかな。
ライターの仕事の場合は、その「何か」がコミュニケーションから滲み出る「わたしそのもの」かもしれない。
それでも、「この人のもの、いいよね」と誰かに思ってもらえることは、とてもありがたいと思う。「この人に書いてほしいよね」「この人のものを読みたいよね」と思ってもらえるようになりたいなあという想いは、やっぱりどこかで常に抱いていたいです。
どうしようもなく滲み出るものが、その人を「そのほか」と区切るのだと感じています。それが、結果としてその人の個性やブランドになっていくのだろうなあ、と。
「こういうものを作りたい」「こういうものを表現したい」「こういう風に考えています」「こういう風に人と付き合いたい」
こういった「思い主導」で動いて生み出されたものや人には、命が宿るのだと思う。命が宿るから、「あ、いいな」と誰かに素直に思ってもらえるのだろうな、なんて、今更かつ当たり前のことを思っています。
それは、わたしが「誰でもいいから恋人がほしい」とは決して願わなかったことと似ています。
似ている性格の人や、もっと好みの顔立ちの人がいるのにも関わらず、なぜだかその相手を好きになる。ほかの誰かでもいいはずだけれど、その人だからこそいいと感じる、そんな恋をしてきたように。(おかげで遠回りをしてばかりでもあったのだけれど)
文章なんてライターなら誰でもある程度書けるし、写真だってカメラマンなら誰でもある程度撮れる。(カメラマンの事情はわからないけれど、たぶん)
けれども、「この人だからこそ」書ける文章はあるし、「この人だからこそ」撮れる写真はある。それは、主張するしないに関わらず、きっとどこかに潜んでいる。隠したくともわずかに滲み出てしまう何かがある、そんな風に書いていきたいなあ、と思う。
悩みに悩んだ結果、予定より多く購入した、わたしの写真。どれもこれも、「このカメラマンさんだから撮れた写真」ばかりです。
追記。
カメラマンさんは葉さん(@CashmereBear)。ご本人の許可を得られたのでご紹介させていただきます。都内近郊の方は、ぜひ。(アイコンに何を使うのか決めかねているわたしです)