平凡な幸せは表現者を殺すのか
※このnoteは朝ドラ「半分、青い」のネタバレを含みます
「鈴女ちゃんは、愛しい。カンちゃんはかわいくてたまらない」
映画監督になるために「別れてほしい」ヒロイン鈴女に告げて家を出ていった夫・涼ちゃんは、迎えにきた叔母に声を絞り出すように言った。
「だから、ダメなんだ。映画監督なんて、何万人のうちのひとりしかなれないようなものを目指すのに、幸せな場所にいたらダメなんだ。……いや、僕はダメなんだと思う」(※意訳。記憶で書いています)
叔母に告げたこの言葉を、視聴者はどう捉えただろう。叔母と同じく、「だからといって、映画と家族を天秤にかけて、映画をとるんか!家族を捨てるんか!?」と激昂した人が多いのだろうか。
「父親」として最悪だなあというのは大前提として、わたしは、正直「わからなくはない」と思ってしまった。親としてではなく、ひとりの創作を好む人間として。
アーティストや作家、俳優には「人間性、おかしいんじゃないの?」と感じさせる人がいる。特に、才能があるんだなあと思わせられる「天才」と呼ばれる人たちに多い。
「おかしさ」をオブラートに包めなければ、さすがにこの社会で活動し続けることは難しいのだろうとは思うけれど、「成功していなかったらクズ人間だね」と思われている人は多い。
平凡な幸せで満足している人間からは、きっと大したものは生まれまい。
そう、涼ちゃんは考えているのだろうか。
「伝えるべきことがない。平凡な幸せに染まるのが怖い」
このようなことを言い悶々と悩んでいたのは、マンガ「ソラニン」の種田だ。彼は二十代前半から半ばだったけれど。
種田と比べると、10歳は年上の涼ちゃんの青臭さが際立ちはするけれど、得てして表現者には良くも悪くも「子どもっぽい」人が多いようにも思う。
でも、「そこにいたらダメだから断ち切る」人は、果たして成功できるのだろうか。涼ちゃんのいうように、平凡な幸せが創作力を潰してしまうのだろうか。
わたしは、否、と思う。
才能ある表現者たちが、「一般的に見て」「常識的に見て」ありえない、場合によっては人でなしに思える行動を取るのは、「そうせざるを得ない」からだと思う。
なかには才能を枯渇させないために、あえて破滅的思考を意識している人もいるのかもしれないけれど。
昔、何かで見た対談記事で、シンガーの阿部真央が「アーティストとしての幸せと女の子としての幸せは両立しないよ」と相手に言われ、「えー!」と悲鳴をあげていた。この「幸せ」は恋愛相談の流れで出てきたものだったから、両想いや結婚を指していたのだろうと思う。
阿部真央は作詞も行うシンガーだ。アーティストとしての幸せ(成功?)が良い音楽・詞であるとして、それはプライベートの充実、幸せとは両立しえない、ということなのだろうか。
表現者たちは、通常なら見なくてもいいものを引っぺがし、見つめる習性があると思っている。かさぶたを無理やり剥がし、滴る血を見る。あえて、痛みを負う。
だからこそ、場合によっては、「幸せにはなれない」のかもしれない。だって、見て見ぬ振りをすれば続けられた関係性を、壊しにかかってしまうのだから。また、幸せになることで引っぺがすことを恐れるようになり、表現できなくなる人もいるように思う。
涼ちゃんは、どうなのだろう。
妻子がいる幸せな環境では、自分は表現せずとも生きていけてしまう人間なのかもしれない、とでも思っているのだろうか。そして、それを恐れているのだろうか。
幸せは、表現者を殺さない。ただ、その幸せで「満たされない」人こそが、表現者であり続けるのだとも思う。少なくとも、わたしは常に渇きを抱えていて、それが「書く」意欲につながっていると思っている。衝動……中毒といってもいいのかもしれない。
ああ、そういう意味では、やっぱり表現者は永遠に幸せにはなれないのかな。
マンガ家編でも感じたけれど、「半分、青い」は、「創作する」「表現する」ことに対して、エグいほどリアルなシーンが多い。業を、エゴを、これでもかと差し出してくる。
重くて、苦しい。けれども、表現せざるを得ない。涼ちゃんは甘ったれで、覚悟がない逃げてばかりの人間だけれど、映画が好きな気持ちは本当のものなのだろうな。
ああ、重くて、苦しい。心がヒリヒリしている。
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