「トリプティック」第11話
あの夜、静はほとんど喋らなかった。
勿論、恋人の支配下にあるであろう角田も同じ振る舞いになる。
4人で囲む静な晩餐は、巴と佐藤にとってはひたすらに忍耐の砂時計としか言いようのない時間であった。
事前に佐藤を同伴することを伝えなかったのは、拒まれることを恐れたからだ。
そして巴は、佐藤にすら静に無断で同伴することを言わなかった。
佐藤はおそらく、心中を察してくれたであろう。
しかし静は、沈黙という手段でもって巴にお仕置きをした。
それは勝手な推測だが、やはりそうとしか思えなかった。
気分が冴えない、いや、どうにも納まりがつかないわだかまった気持ちを、巴はどう処理していいのかわからなかった。
佐藤を巻き込んだことも、一人で静に会いにいかなかったことも、すべてが後悔でしかないのだ。
それでいて、佐藤に感謝の気持ちを伝えられない。
正直、それどころではないぐらい消沈している。
人生の中で、セクハラで揉めて仕事を辞めざるを得なかったあの時ですら、これほどのダメージを受けはしなかった。
なぜなら、あれは自分の問題ではなかったからだ。
他者からもたらされる明確な理不尽なのだ。
それは「怒り」という感情に転嫁される。
「怒り」に支配された自分は、すでにいつもの自分とは違う人間なのだから、それは悩みの域を越えて別の姿なのだ。
翻って今回のことは、ひたすらに姉と私だけの問題だ。
なんなら姉はきっかけで、私自身の問題かもしれない。
いや違う。
家族の問題…
巴はもう、それ以上は考えたくなくなった。
巴が会社でいくつも担う物件のうちの一つで、役所の担当課から記入不備の申請が返送されてきた。
入社してからこんなミスは初めてで、巴は動揺した。
しかも普通なら事前に連絡がありそうなものを、先方の担当者は性格が悪いのか、素っ気なく書類に三行半を突き付けてきただけだった。
特に大事に至るような案件でもなく、訂正しても期日に遅れる訳ではない。
にもかかわらず慣れない失敗に傷付いた巴は、自分にも他者にも疑心暗鬼に駆られてしまった。
私は、信用されなくなってしまったんじゃないのか…
「巴」
休憩時間に黙って目前のコーヒーに目を落とす巴に、佐藤はさりげなく肩を叩き表に出るように促した。
事務所が入居するビルの階下は屋内駐車場で、喫煙者のため灰皿がある。
あんまり二人でいる所を見られるのはイヤだなと思ったが、巴は佐藤の背後を追った。
屋内の冷気が消え、不快な湿気が肌にまとわりつく。
何だか、いろいろとうんざりしてきた。
「何かあるの?」
巴はぶっきらぼうに佐藤に言った。
「何かあるのは巴だと思うけど、まあ、そんなことを話すつもりは無いんだ。
今度の週末、どっか行かないか?」
唐突だなと思ったが、巴は自然と笑みがこぼれてしまった。
お互い部屋に行くような仲なのに、休日のデイタイムに佐藤から誘われるのはこれが初めてだったのだ。
この男はうまいなと、巴は思った。
言葉より、心に響く術を知っているのか、もしくは天然なのか。
「ねえ、私をナンパしてんの?」
「されて欲しそうな顔をしてたからさ」
佐藤の返しに二人は声を出して笑った。