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「拘束か高揚か」
一昨年から公私共に忙しい日々が続き、このアカウントで2本の小説連載を進めていたのが滞るようになりました。
マガジンにまとめたnote連載1作目の「せつなときずな」は1年で56話を連載したのに、現在連載している心理小説ともいうべき連載「トリプティック」は2年で29話、自身初のエンタメ小説(?)「Lady, steady !」は1年で22話で、ひどい時には1ヶ月以上のインターバルという不定期にも程がある体たらくで誠に残念なありさまです。
※連載が終わったらnoteにてマガジンにまとめます(連載中にマガジンに上げると順序が逆になり冒頭が終わりからになるため)
別のサイトにて全文はこちらから
【トリプティック】
【Lady, steady go !】
https://www.alphapolis.co.jp/novel/289756757/409715392
#アルファポリス
昨年末から正月休みを利用して少しでも進めようと考えていましたが、だらしない自分にしては珍しくそれを実行できています。
二本の連載を一日でダブルヘッダーするという力業を3回しましたが、明日もう1回それをします。
そしてまたしばらく休載になるのか(苦笑)
久しぶりに執筆に向き合って思うのは、創作という行為がもたらす甚大なエネルギーの消費と、自分のフィールドに還ってきたような高揚感のアンビバレントな感覚でした。
ただ、高揚感があったとしても、何のためにこんな難儀なことを、それも読者がほとんどいないのにやっているのかと我ながら理解できない部分が強い。
宮台真司的にいえば「終わりなき日常を生きろ」というのが人生だとすれば、それすなわち現実社会という拘束の中でのサバイバルに近い訳で、クリエイティブという横文字のインチキ感同様な「創作行為による高揚」は、個人の人生における非常出口みたいなものかもしれません。
しかもドアを開けたら壁なんですよ。
「社会」ではなくて「自分」という。
だって結局、何かを創るなんてことは自意識と妄想の垂れ流しに過ぎなくて、そこに投げ銭が集まる時に「アーティスト」と呼ばれる職業に格上げされるのだから。
そんなことを自認しながら書いている自分の文章には、どこかドライな焦燥感が滲み出てしまうものだなと感じます。
一体何を書いているのか自分でもよくわかりませんが、できたら連載読んでねって下世話な気持ちがちょっとだけね。
全くアピールにもならないのが自分らしいけど(笑)