「トリプティック」第22話
人は自分が辛かった過去を本能的に閉じることで延命を図る。
それが意図的でないことこそ、事態が決して遣り過ごせなかったことを証明してしまう。
無かったことにはできないが、無かったように記憶はしらばくれる。
それで助かるなら、その防衛本能は善であるはずだ…
小学生の高学年になると、家族で出かけたがらない母の凪沙と姉の静を置いて、父の文夫は巴を連れて出かけるようになった。
それは最初は本屋からだった。
既に時代は書店がネット販売によって市場から駆逐され始めていて、TSUTAYAなどの大型チェーンにとって代わり出していた。
代わり映えのしない書棚に見切りをつけていた文夫は、まだマシともいえるらくだ書店に巴と一緒に足を運んだ。
近所のTSUTAYAやゲオぐらいしか本屋を知らなかった巴にとって、見たこともない書籍が並ぶその空間は、大人になった気分を誘発するにあまりある場所だ。
大人になった今では大した品揃えもなかったとわかる美術書のコーナーだが、それでもチェーン店にはそもそも存在すらしないので、巴の心はときめいた。
いつも図画工作の教科書のゴッホやムンクの図版を食い入るように眺めていた少女にとって、初めて外の世界に踏み入れたような気持ちになったのだ。
帰りに星ヶ丘のランファンに寄って、普段口にすることのないスイーツを食べる時、決まって文夫は「二人だけの秘密だからな」と悪戯な笑顔で巴に言うのだ。
父と可愛い秘密を二人占めできる優越感は、選ばれし者のインセンティブに存分に浸ることができた。
凪沙に文句を言われないよう年に数回だけ叶ったの親子の逢引は、巴にとって何よりも待ち遠しいイベントになった。
巴が中学に上がると、文夫は矢場町のPARCOBOOKSに書店を変えた。
蔵書は気持ち少なくなったが、よりセレクトされた書籍は巴の気持ちを上げた。
文夫は、娘の成長に合わして段階を踏んでいたに違いない。
その頃から文夫は自分の蔵書を薦めるようになった。
「ちょっと大人の本だから、お母さんには内緒だよ」
夫の感性そのものを煩わしく思っている凪沙に知れたらまた諍いになると、既に巴も理解していた。
文夫はまず澁澤龍彦というビギナーカードを切ってきた。
「毒薬の手帖」のページをめくると、古今東西の毒薬にまつわる、少し大人な話も含んだエピソードが洒脱な文章で開陳されていく。
読んだこともない異世界に、巴はなすがままに惑乱されていった。
そして文夫は、巴と美術館に行くようにもなった。
この頃から二人は恋人のように外で待ち合わせるようになった。
母の凪沙は、夫と娘の仲を良くは思っておらず、それは姉の静との差別と、おそらく自身でも気付いていない嫉妬の感情から来ていたのであろう。
罪悪感は、さらに巴に優越感を植え付け、父娘の共謀は秘密を分かち合うことで継続されていった。
豊田美術館のアートショップで父に買ってもらったラファエル前派の画集に、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの「嫉妬に燃えるキルケ」を見た巴は、嫉妬に駈られて海に毒を流すキルケに凪沙が重なった。
私はきっと間違っている…
はっきりとしないその自認を、巴は心の奥に閉じ込めた。