「midlife」 7
美環は美知子に坂口工業の廃業の件を話した。
唇にまとわりつく生ビールの泡は、いつもなら気持ちをすっきりとさせるキスのようなものなのに今夜はそうはならない。
いくつもあるクライアントの一つ。廃業も珍しくない。
可処分資産があるだけマシな方だ。
だけど気になるのは、あの負け犬の目の奥の何かなのか?
「グッド・ルーザー」という存在を、美環は自分の人生で初めて出会った気がしたのだ。
「で、何とかなりそうなの?」
美知子はブラッディメアリーのグラスに目を落としたまま、あまり感心なさげに聞いている。
美知子はドライだ。感情に寄せられない。美環がどうするかを注意深く見ようとしている。
「地所は父親の個人名義になっているけど処分は理解してもらっている。
問題は西区の準工の土地にどれだけの買い手がつくか」
「で、私を呼んだと」
美知子は醒めた目で美環を見た。
「ビンゴ」
美環はグラスを空けると、ジントニックをオーダーした。
美知子のコネクションなら、いい情報を持っている不動産がいるだろうと踏んでいたのだ。
「遥さん、このお店買い取ったんですよね。
どうしてこのお店が欲しかったんですか?」
美知子は唐突にカウンターにいるオーナーの上村遥に話を振った。
もともと美知子が若い頃からの行きつけだと美環は最近知ったのだが、話の成り行きに耳を立てた。
「じゃあエマさん、その話してください」
遥は笑ってエマに振ったが、エマは表情も変えずトニックを注いでいる。
「私が話すことじゃないけど、この娘がこの店をくださいと私に言った時、若い時の私を見ている気になったってだけよ」
その時、この雰囲気のある女がかつて「遥」のオーナーだったことを美環は初めて知った。
「あなたが元々のオーナーだったんですか?」
「元のオーナーはこの人のお父さん、上村武夫。
今は東京に移ったインテリアデザインの上村アトリエの代表。
私がそれを買い、その娘が大きくなって私から買い取った。
ちょっと面白い話かもね」
普段店でほとんど話すことがないエマを、美知子と遥は面白そうに眺めていた。
「エマさんは、どうしてこのお店を欲しいと思ったのですか?」
坂口の話がいつの間にか「遥」のエピソードになっているのも忘れて、美環は興味が赴くままにエマに聞いていた。
「どうしても欲しかったのよ。
この娘と同じように」
エマは薄い茶色の瞳で美環を見た。
「理由なんてどうでもいい。
私はどうしてもここを手に入れたかった。そのためなら何でもするつもりだった。
あなた、そんな気持ちになったことがある?」
美環は突然匕首を首に突き付けられたような気持ちになった。
「世の中の人間は誰もが何かを欲している。
欲しているふりをしている。
わかる?
欲しいくせにそれを手に入れようとしないなら、それは欲していないのよ。
だからこの国の人間のほとんどは、本気で欲しているものなんかないのよ」
話はこれくらいでいいかしらと言い放つと、エマは別のオーダーの準備に入った。
私には人生を賭けるものもないのかと言葉も出ない美環の横で、美知子は口元に微かな笑みを浮かべてブラッディメアリーを追加した。