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「神の不在ではない。信仰の不在なのだ」
2年前の今日、SNSに投稿した記事過去ログが上がってきました。
日本では宗教の話題はタブーみたいな空気があって、これを書いた時もちょっと勇気が必要だった記憶があります。
旧統一教会の報道など、タイムリーな内容だと思いnoteに転載します。
…今日は、SNSではどちらかというと触れにくい、「信仰」についてお話します。
最近の自身の投稿や、親しい人との会話から、僕の考えを整理しておきたくなったのです。
僕は幼い頃、亡くなった祖母の遺言のため、家族揃って創価学会に入ることになりました。
創価学会は、日蓮正宗を信仰し、学び、世の中に広めるために活動する団体です。
宗教団体ではありますが(日本最大の)、新興宗教ではありません。
今に至るまで、僕は学会活動とは完全に距離をとっていますし、お世辞にも信心しているとは言い難い態度です。
しかし、日蓮正宗そのものは、善きものと感じ入っています。
僕が中学の頃、学会の人から、無理やり試験を受けさせられたことがあります。
釈迦から始まり、日蓮に至る仏教哲学を紐解く学びを「教学」と呼びます。
創価学会は、教学により日蓮正宗への理解を促すために、そのような試験を行うのです。
猛反発しながらも、試験のために集められた同世代の知らない学生たちと共に、近所の青年学会員が教えてくれる講習にいやいや参加しました。
教学の、本当の初歩を一夜漬けで教えてくれたその講習で、訳もわからず入信させられた自分は、初めて、大乗仏教の仏教哲学の奥深さを知り、深く感銘しました。
その体験があったから、僕は自分をブッディスト(仏教徒)だと、はっきりコミットできます。
ただ、僕は、日蓮正宗の排他性、他の宗派を徹底的に否定する価値観を拒否します。
政党への投票を促す学会活動も、論外です。
しかしながら、教学を知る機会となったのも、僕が拒否している、その学会なのです。
僕には、多くの日本人が、「無宗教」と言って、初詣に行き、七五三を経て、クリスマスを祝い、チャペルの付いた式場で結婚式を行い、亡くなる時には実家の宗派で戒名を貰って、経を上げられ墓に入る人生のサイクルが、なんとも奇妙な感じに思えてしまいます。
無宗教、全然いいですけど、消極的選択です。
積極的選択で、無宗教ならいいのになって思わなくもないですが、僕とて、祖母の信心のおこぼれをもらったようなもの。
その偶然には、とても感謝してます。
そして、いかなる宗教であれ、信仰とは人を善くするものだと信じています。
不安を煽り、人を貶めるものを、僕は信仰とは認めません。
信仰をしていてよこしまな人格であるなら、理由は二つしかありません。
その人がその信仰を理解していないか、その信仰がまがいものか。
僕の友人、知人には、信仰を大切にしながら、心から尊敬できる人が少なからずいます。
どんな宗教であれ、善き信心は、善き人を成すと、信じています。
もちろん、信仰していなくても、善き人は、それこそ信仰している人より多く存在しているかもしれません。
それでもなお、誰にでも、信仰というものを、人生の中でとらえる機会があったらいいなと思います。
僕は25年ほど前に、友人の誘いで、キリスト教のある宗派のレッスンを受けました。
レッスンを最後まで受けて、ブッディストてあることを含め、様々な理由で入信することはありませんでしたが、レッスンを通して、自分の内心と向き合う行為は、それは困難で厳しい体験でした。
そのなかで、「光はすべて善である」という言葉を聞きました。
その言葉は、25年以上経った今でも、僕の心に深い余韻を残しています。
このような体験こそが、信仰の持つダイナミズムなのです。
神の存在は、肯定や否定するものではありません。
その人が、信仰によって神を信じるのであれば、その人には神は存在するのです。
恋愛と同じで、あなたが、相手を信じ抜けるかどうか。
その相手と、信じようとするあなたの目に曇りがなければ、きっと善き信仰となり、善き人になるのだと、僕はそう信じていたいです。
まとまりのない文章になってしまいましたが、信仰というものを自分なりに整理したかったので、悪文で申し訳ありません。
長文おつきあいいただき、どうもありがとうございました。