「midlife」 1
それは素直に望ましいのではなく、感染症を恐れて繁華街から客が流れきたこの辺りの賑わいは、過払い金返還を促す弁護士事務所のように不誠実に思える。
勿論、そんなことはおくびにも出さず、忙しい店内のあちらこちらに、酒と会話が飽和するがままに委ねる。
それは、私の範疇ではない。
ずっと昔を思い出す。
若かったあの頃、私の男と、この店で過ごした夜は幾つもあった。
私たちは客で、店はいつも賑わっていた。
あの頃の歳の倍を生き延びて、このカウンターに自分がいる。
不思議だ。
いや、不思議でも何でもないのかもしれない。
私は何も望まなかったし、私の男は私のすべてを望んだ。
私はその時、この世界に見出だされたのかもしれない。
少なくとも、生き延びる理由には事欠かなくなったに違いない…
カウンターの端に、見馴れぬ若い女が独り佇んでいる。
女はじっとエマを目で追いながら、タリスカーのロックを飲んでいる。
よくあるいつものことのようには、その夜は感じることができなかった。
その顔には、思い出せない馴染み深い何かがある。
その佇まいには、どこかで見覚えたはずのアトモスフィアがある。
私は、何かを知っているように感じる。
「エマさん、貴女の好きなお酒をストレートで」
女は突然、エマの名を呼んだが、それはごく普通の日常のように、何の気負いもなかった。
「ストレートでってことは、私の嗜む酒を知ってのことかしら?」
エマは敢えて、見知らぬ客に名前を呼ばれたことには触れない。
お互い、上着の上から体をまさぐるような間合いで、素知らぬ体を装う。
「ええ」
女は無駄な言葉を発しない。
エマはラフロイグをショットグラスに注ぐと、チェーサーと共にカウンターに誂えた。
女は、黙ったまま、それを口にする。
随分と長い時間が流れて、店を閉める頃になった。
最後まで粘った客たちは精算を済ますと、めいめい店を後にする。
女は、その最後にいた。
「エマさん、私が奢るので、一杯やりませんか」
女はチェックのために立ち上がっていたようだったにもかかわらず、レジの前の椅子に座り込んだ。
「あなたとは飲む理由はなくてよ」
エマはいつもの調子で流すつもりだった。
「いや、私にはあるんです。
今夜は、お話があります」
エマは黙って女を見た。
「子供の頃、店の休みのの日には、このカウンターの中で、父が私にグレープフルーツを絞ってジュースを作ってくれました。子供の私は、それが苦手でしたが、父に気兼ねして言えませんでした。
父はたぶん、ライムの代わりにジンにそれを加え、私と乾杯するのです。
私は、父と同じくらい、この店が好きでした」
ああ、そうなのだ…
「私は、遥です」
バー「遥」のオーナーだった、上村アトリエの上村武夫の一人娘、そしてこの店の名前の由来となった少女。
どうりで歳もとる訳だなと、エマは思った。
「あなたは何を飲む?」
エマは、やはり望みはしない夜になりそうだと心の中で独り言ちた。