「トリプティック」第12話
窓の外には、佐藤の旧いロードスターが停まっている。
巴は白いレース地のキャミソールを選んでいる途中で、ちょっと時間が早いなと慌てて支度した。
「お待たせ」
ドアを開けて乗り込むと、バッグから手鏡を出した。
「ゴメン、今さらだけどメイクするわ」
「構わんけど、俺じゃなくて彼氏ならやらないだろ?」
佐藤は笑ってギアを入れた。
今どきミッション車など見る機会はそうそうなく、というより巴は佐藤の車以外でお目にかかったことすらない。
175センチの佐藤には、ぎりぎりという感じもある小さな車内にDOHCのFR車の心地よいエンジン音が伝わる。
私はバイクに興味はないけど、バイク好きはこういう機械音が好きなんだろうなと思いながら、横にいる相変わらず鈍感な好漢の言葉に「それはないでしょ」と巴は突っ込みたくもなる。
「彼氏だろうと一緒だよ」
「メイクしなくてもいい顔してるよ」
どこまで本気なのか、佐藤はいつも通り掴めない。
「で、輝君は今日はどこに連れてってくれるの?」
巴は会社では「佐藤さん」と呼んではいるが、プライベートでは名前の輝人から略称で呼んでいる。
らしくはないと思う。
人前で自分がどうみられるか気にするタイプではないのに、そんなことにこだわるのは、それはきっと二人の関係が曖昧だからなのだと巴は気付いていない。
あのイリナ・イオネスコの待ち受け画面を見定めた日から、佐藤と巴は会社の同僚という立場以上の関係になった。
佐藤は巴が思ったように、なかなかマニエリスティクな趣味の持ち主で、彼の部屋は巴にとっては垂涎ともいえるような世界観に溢れていた。
そこには巴が見たこともない、生田耕策が猥褻罪で起訴される発端になったバイロス画集や、やはり生田が編纂した今ではプレミアの山本六三の画集、フェリシアン・ロップス、洋書しか出ていないアメリカのエリック・フィッシェル、巴が覚醒した空山基…それにイオネスコや、シンディ・シャーマンなどの写真集などが並び、その毛並みの良さとも言うべき趣味に巴は魅力されてしまった。
そこなのだ。
いつも私は、異性に惹かれるポイントが自分由来だ。
きっとそうではない。
きっと、そういうことではないはずだ…
「ノープランなんだな、これが」
佐藤はメイクに気持ちが入っていない巴を横目に、ハンドルを握る姿にはどことなく楽しげに映る。
「巴、リクエストあるか?」
「今それを聞くかぁ?」
巴はちょっと呆れたが、まあ、輝君らしいかもと思いつつ、何が佐藤らしさかはまるでわかってはいない。
「ちゃんとエスコートしてよ。輝君に任せるわ」
「じゃあ、海に行くわ」
「いいよ。輝君のイメージじゃないけど」
佐藤は知多半島を旧道で南海し、南知多へ行くと言った。
「時間はいくらでもあるからな。それでいいかい?」
悪い訳がなかった。
メイクを終えて、美しい夏の雲を眺めながら、ずっとこの時間が続いて欲しいなと巴は思っていた。
なんだか月並みなラブソングの歌詞みたいに、そんな普通の感情を抱いても悪くはないよね。
こんな私でも。
車からはマシュー・スウィートの「speed of light」が流れている
そうなのか、光の速度で感情が流れていくのか。
私だけなのか、彼も一緒なのか…