「midlife」 3
この世界が変わろうが変わるまいが、この店も私も変わりはしないと、どこかで思い込んでいたのは、ちょっと過信だったのかもしれない。
冷たい小雨が止むと、殊更冷たい風が夜の街を抜けていき、夜中に棲む生き物たちは息を潜めて、なけなしのアルコールを心のどこかに流し込もうと無駄なあがきに精を出す。
私たちは、悦楽の怠惰に己が血を薄めて、ままならぬ日常の虚ろな穴を埋めているに過ぎない。
なのにこの娘は、「この店を、私にください」と、こんな夜中に押し掛けてくるのだ。
「エマさんの返事を聞かせてください」
遥は曖昧という言葉を知らない。
気後れしない芯の強さは、クールで穏やかな上村武夫には似ていない。
「店は当分譲れないわ」
エマの返答は、おそらくお互いにわかりきったことだった。
「理由が、聞きたいのかしら?」
エマの問いに、遥はわずかに悪戯な微笑を浮かべた。
その表情が、いい。
「上村アトリエが東京に拠点を移した機会をとらえて、エマさんが父と会い、この店の権利を譲って欲しいと話されたと聞きました。
この店の常連客として知り合ったことで父がリクルートしたオカダさんは、結婚直前のフィアンセを捨てて、上村アトリエを辞めてまで、元カノのエマさんを追って失踪しました。
その数年後エマさんは、父の元に現れたのです。
どうして、この店だったのですか?
どうして、この店を欲しかったのですか?」
「きっと、あなたと一緒でしょうね」
エマは、まるで他人事のように話しはじめた。
「理由なんてなんとでも言えるけど、本当は、ただ欲しかっただけよ。
私とオカダは、この店で過ごしながら、若くてどうにもならない日々を送った。
若いってことは、それだけで全て間違っているようなものね。
人生という長いタイムスパンの、過ちのお試し期間、赤字決算のモラトリアムの時期って訳。
ついでに言っとくけど、あなたは今、その真っ最中よ。
私がここを譲れないのは、拘りがある訳ではなく、ただ単に、ここで生計を立てていかなくてはいけないだけ。
今さら、人に使われようとは思わないし、私は今まで、人生で人に使われた覚えはないわ」
「確かに、若い頃は間違いをおかしていたようですね」
遥は、隠しもしないエマの左手首のおびただしいリスカの跡を見つめながら言った。
「誰でも若い時は、脛に傷の一つや二つはできるものよ。
それがたまたま手首だったってこと」
「エマさん、当分は譲れないけど、将来は譲れる機会もあるって訳ですか?」
「そうかもね。
もちろん、それが何時かはわからないし、そんな機会はこないかもしれないわよ」
エマの返事を聞くと、遥はおもむろにスマホを取り出し、その場で何かを打ち込みはじめた。
しばらくすると、その画面をエマに示した。
「今からこれをコンビニでプリントアウトしてきますから、私にサインをください。
もし将来、店を手放す機会が来たら、第一交渉権は上村遥に与えるという無期限の契約書です」
アンドロイドの端末にプリインストールされたwordのアプリを使い、その場でエマの覚悟を問う上村遥に、エマは「世も世だな」と内心驚いた。
「あなた、面白いわね。
どうぞいってらっしゃい」
エマは、自分が上村武夫と交渉に臨んだ若き日を、遥の姿に重ねた。
やっぱり、望まない夜にはなったけど、それほど悪くはなかったのかもね。