「Lady, steady go !」
未環は母の香苗と共に、香苗の実家の戸口に立った。
叔母の早苗の遺品整理のためだった。
数年振りに訪れる、元「バーバー一之瀬」は、昔と同じままに時間がそこだけ止まってしまったかのような、懐かしくも色褪せた店構えを通りにぶら下げたままに眠っている。
床屋の跡取りもない祖父が80で現役を退いてから、店はそのままに祖父が独りで住まい、祖父が失くなった13年前からは叔母が代わって独りで家守りを継いでいた。
70年、それは決して短い時ではないのに、「バーバー一之瀬」は応時のままの姿で、光を射抜くような時代の速さにあがらっているかのようだった。
未環は少しナーバスになっていた。
叔母の早苗のリンパ腫が判明した時には既に転移は手の施しようもない状態で、それでも余命半年の告知を2年生き延びた。
この家で終末緩和ケアを受けることを望んでいた早苗は、希望に合う治療機関とつながることが叶わず病院で最後を迎えた。
それでも、最後の時まで気持ちを乱す姿を見せることはなかった。
本当は辛かったに違いない。
妹の香苗の瀬戸家以外、身寄りがいなくなった叔母の心中を思うと、その孤独が未環には想像を絶するものに思えた。
初めて病院に面会に行った時、未環は早苗から思わぬことを頼まれた。
「私のインスタグラムのアカウントを引き継いで欲しい。
私が死んだらその旨を告知して欲しいの。
フォローして下さっているみなさんへのご挨拶を、私にはできないから未環にお願いしたい
それが終わったらアカウントを閉めるかどうか、それは未環におまかせするわ」
早苗がインスタグラムをしていることにも驚いたが、自分がそのような役を担うことに困惑するしかなかった。
「そんなこと言わないで、まだまだ大丈夫だから」などと言える訳などないのだ。
叔母の胸中がどんなものかもわからない。
果たして自分がそんな役を引き受けるに相応しいのか、それもこれも一切合切が自分にとっては重責過ぎるのに、断れる理由もどこにもなかった。
「どうして私なのって思ってるでしょ?
こんなお願いするのは申し訳ないんだけど、未環以外にお願いできるような人はいないの」
早苗は一度結婚していたが2年ほどの生活の後に離婚して、以来還暦を越えた今に至るまでずっと独りで暮らしてきた。
二人の間に子供はいなかった。
独りの私生活のことは知らないが、香苗からもパートナーの存在は聞いたこともなく、本人の言葉は確かにそうなのかもしれない。
母の香苗はSNSなど全くできないのもあるだろう。
「わかった。後は心配しないで」
病室を出た後、未環は早苗のインスタグラムを検索した。
そこには、日々の食事が美しい写真で上げられていた。
どれもシンプルでほとんどが一汁一菜で、早苗の人柄を表すようなやさしい一言が添えられていた。
私は、叔母さんのことを何も知らないのだと未環は唇を噛み締めた。
300人以上のフォロワーの数を見た時、おそらく交流関係も本当にわずかだったであろう早苗の宴に、たくさんの見知らぬ人が惹かれたことを未環は知ったのだ。
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