「ペンキ屋はbarにいる」5
30代の前半ひょんなきっかけで、実家に近い覚王山のジャズバー「Love potion」に通うようになっていた僕は、その店が名古屋では最も有名なジャズドラマーの一人であるU氏がオーナーであることを随分後で知った。
名古屋のジャズシーンを知らなかったのもあるが、たまに店で聞けるU氏とミュージシャン仲間の会話は、それは面白いものだった。
その頃、カウンターに10席の小さな店を任されていたLUNAは、ジャズボーカリストになるためU氏についてレッスンを受けるため、店でバイトしていた。
雑食性の音楽趣味が彼女とは合い、サブカルチャーの背景も近いところから彼女と意気投合した僕は、当時、自身初となる中篇小説の原稿を彼女に読んでもらうようになっていった。
そんな日々が続いて、300枚からなる小説が脱稿した夜、僕は興奮してLuna に電話し、店で落ち合おうと言ってLove potionに向かった。
店に着くと常連が幾人かいた。
Lunaは店を引退しシンガーに専念するタイミングで、その日は偶然、彼女の後釜のアルバイトの娘が初めてカウンターに立った日だった。
原稿の束を渡されたLunaは、こんなもの渡されてもと言いながら嬉しそうだった。
お互い、形は違えど表現者としてリスペクトし合う仲だけにゆるされる交感なのだ。
カウンターを引き継ぐ新しい女の娘は、小説を書いたという初めて出会った客に目を丸くしていた。
ささやかな祝杯を店であげ、その時初めて、やりきった感に僕は浸った。
その日から新人の咲子ちゃんが店に立った。
僕は多分、週に一回程度通っていたと思う。
誰もこない開店時間に入り、誰かが来ると入れ替わり店を経つのは昔から一緒だった。
「岡田さんは変わってます」
そんなある日、僕は咲子ちゃんからそう言われた。
「どうしてそう思うの?」
「だって、普通の人は小説なんて書かないですよ。
私の回りにそんな人いないですよ」
そう言われて初めて、自分はおかしなヤツなんだなと気が付く有り様だった。
僕は当時、確か19か20の少年を新たに雇い入れていた。
ケンジは在日2世で、他のペンキ屋から偶然応援に来ていた時に出逢い、僕を気に入ってくれて転職してきたのだ。
ケンジはコンプレックスの塊だった。
両親の離婚を契機に、韓国から5歳の時に日本に来た彼は、日本語ができないことで激しい苛めにあったと僕に語った。
高校を中退し、職につくも長続きせず、気張って買ったアメ車のローンでどん詰まり女の部屋に転がりこんでいたが、双子の弟がペンキ屋としてちゃんと働いていることで更なる劣等感にさいなまれ、母親とケンカばかりしては後悔を繰り返す日々だった。
ケンジは確かに不器用だった。
気持ちに余裕がないので焦りがひどく、余計に悪循環に陥るタイプだった。
しかし、おそらく彼は、それまでの人生でそんな自分の話をきちんと聞いて勇気付けてくれる大人に会ったことはなかったのだ。
僕と出逢うまでは。
「人には器量の有る無しがある。
お前は不器用だし、人が3年で一人前になってもお前はもっとかかるだろう。
でも絶対に一人前の職人になれる。
何も心配いらない。だから焦るな。俺を信じてもいい」
あの時僕は、心の底からケンジの負の連鎖を断ち切ってやりたい一心だったのだ。
ある日、栄の広小路のど真中で貸衣装店のビルの工事をしていた。
現場の担当の僕の伯父は職人としては一流だが人間として最低な男で、仕事のできない者、気に入らないこと、その日の機嫌で職人に当たる堅物だった。
皆から嫌われていたが、自分の立場上、先輩を立てずにはいられない部分がある。
しかし、その日は、それが災いを為してしまった。
その日、自身の機嫌を人を攻撃することでしか調整できないやばい状態の伯父は、ケンジに無茶な当たりを繰り返した。
理不尽な仕業にケンジは怒りを爆発させ、現場から飛び出してしまったのだ。
繁華街の街中で僕は走ってケンジにすがり、行くなと絶叫した。号泣していた。
このまま行かしたらケンジは終わってしまう。頼むから行かないでくれと泣きながら説得した。
怒りにため本当に震えていたケンジは、多分僕を思ってか何とか自分に折り合いをつけようと必死になっていたのが僕にも伝わっていた。
「親方すいません。今日は帰らしてください」
辞めるなと約束させてケンジを帰らすと、現場に戻りヘルメットを床に叩きつけ、伯父を置いて地下鉄で5区もある池下まで歩いて帰った。
人生の中で職場放棄したのは、あとにも先にもこの1回だけだ。
僕は意気消沈してそのまま家に帰る気にはなれなかった。ちょっと気後れしながら、仕方なしにLove potionに入った。
あの日、自分はどんな気持ちでカウンターに座っていたのだろうか。
怒りより、自分がケンジを守ってやれなかったことへの後悔と、無力さに打ちのめされていたに違いない。
様々な感情が、言葉にならない心の痛みとなっていた。
そんな自分に、咲子ちゃんが話かけてきた。
きっと僕は、苦み走った苦悶の表情を隠せてなどいなかったのだろう。
「岡田さん、今日は何かあったのですか?」
僕は正直困ったが、そんな顔してる自分も情けなくて、その日の出来事をポツポツと話した。
「自分が守ってやれなくて…あいつは本当に純粋で…純粋だから、自分をコントロールできないから…」
ケンジを想う僕に、カウンターの向こうから発せられたのは、想像もしてない言葉だった。
「岡田さんは自分を純粋だと思いますか?」
僕はびっくりして彼女の顔を見上げた。
それまでの人生で、そんなストレートな問いかけをうけたことは記憶になかった。
ハンマーで頭を殴られたような気がした。
「僕は多分、純粋なんかじゃない。…でも、純粋であろうとは、思っている。」
彼女は優しい表情で答えた。
「岡田さんはきっと純粋です。
純粋じゃない人は、そんな風には答えられません」
咲子ちゃんの一言で少しだけ気持ちが和らいだが、その後の現実は厳しかった。
その出来事が理由ではなく、ケンジはしばらくして辞めてしまった。
彼は、自分に打ち勝つ術を持ってなかったのだ。
僕が伸ばした手を握り返す勇気を、ケンジは持てなかった。いや、僕がケンジの手を掴みきれなかったに違いない。
黒いスーツ姿のケンジが、申し訳なさそうに退職を伝えに来た。
風俗嬢のスカウトをするとケンジは言った。
「女を沈める」というケンジの言葉を前に、僕は無力だった。
僕は本当に、無力だったのだ。
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