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「仏教は科学」に騙されない。(『仏教は科学なのか 私が仏教徒ではない理由』) #345

世の中には「アンサー本」と呼べるような本がある。『土偶を読む』に対する『土偶を読むを読む』や、『進化思考』に対する『進化思考批判集』等々。これらの本は専門家が話題書のファクトチェックをするという体裁であることが多く、非専門家によるキャッチーな主張や表現に「ちょっと待てぃ!!」とつぶさにツッコミが入る相席食堂スタイルが面白さの一つだ。

今回取り上げる『仏教は科学なのか 私が仏教徒ではない理由』も同様のフォーマットを含み、『なぜ今、仏教なのか』というロバート・ライトによるベストセラー本を仮想敵として、認知科学を専門とする科学者であるエヴァン・トンプソンがツッコミを入れていく。そして、その批判対象のラスボスは「仏教モダニズム」であるというのが本書の主張だ。


「仏教モダニズム」誕生の歴史

本書における一番のキーワードは「仏教モダニズム」だ。以下の引用文で定義されているように、仏教からエキゾチックでオリエンタルな雰囲気を排して、科学的な真理と整合性のある教えだけを抽出しようとする思想を指している。坐禅をマインドフルネスと呼び変えるような流れを支える考え方と言えば分かりやすいだろう。

仏教モダニズムは、近代の超国家的な仏教の形態であり、伝統的なアジア仏教の形而上学的な要素や儀礼的な要素を軽視し、個人的な瞑想経験や科学的な合理性を重視するものだ。

33ページ

仏教モダニズムの起源は、ヨーロッパ諸国によるアジアの植民地支配が進む19世紀頃に遡ると言う。ヨーロッパからやってきたキリスト教宣教師は「科学を発展させたのはキリスト教のおかげなのだ」と主張した。これに対して、仏教の知識人が用いた反論こそが「仏教の方が科学的である」というものだった。この主張が欧米に輸入されてマインドフルネスなどの科学的な味付けがなされ、今では日本などのアジアに逆輸入されているようだ。


「仏教は科学である」への批判

では、著者はなぜ仏教モダニズムを批判しているのだろうか? その理由は仏教モダニズムが仏教や科学に対する誤解に基づいているからだ。ここでは私なりに誤解を「仏教は他の宗教より科学的で優れている」と「無我説や悟り、マインドフルネスは科学的事実である」の二つにまとめてみた。

誤解①:仏教は他の宗教より科学的で優れている

一つ目は「仏教は他の宗教より科学的に正しいため、最も優れた宗教である」という誤解だ。本書ではこの考え方を仏教例外主義と呼んでいる。たとえば、『仏教生物学』『なぜ仏教は真実なのか?』と名付けられた書籍は受け入れられているが、『イスラーム生物学』や『なぜヒンドゥー教は真実なのか?』の場合に違和感があるのはなぜなのかという例から仏教例外主義の広まりを指摘する。

現代は仏教が他の宗教に比べて科学と親和的な印象が広まっているかもしれないが、著者は仏教側が科学側からの指摘に歩み寄らないことへのもどかしさを綴っている。たとえば、著者がダライ・ラマと対話した際、彼が実証主義的で実在論的というステレオタイプな科学に固執し、現象学的で構成主義的な科学を受け入れなかったことへの不満と困惑を吐露している。

「心と生命の対話」の中で、私は他の哲学者や科学者と共にダライ・ラマに対して科学をめぐる認識論的な諸問題を提起したことがあるが、彼は総じてそれらの問題に難色を示した。ダライ・ラマは〔仏教と科学の〕対話という目的のために、スタンダードな科学のイメージを受け入れることの方を明らかに好んでいた。すなわち、実証主義的(感覚的経験に依拠しており、形而上学を避ける科学)で、実在論的(世界に関する真の理論を与える科学)なイメージである。

73ページ

これは仏教側の人々は科学者ではなく、「科学とは何か」について厳密な理解をしているわけではないことに起因すると思われる。仏教側が仏教の教えが論理的であることを示すために科学という単語をメタファーとして使っているならば、「仏教は科学だ」は方便である。つまり、厳密には異なるが、伝わりやすい表現を使っているに過ぎない。このような事例から仏教にも宗教的な側面は少なからず存在するとし、仏教=科学という等式は成り立たないことを示している。

誤解②:無我説や悟り、マインドフルネスは科学的事実である

二つ目は「仏教は科学的事実を述べている」という誤解だ。この主張が誤りであることを「第三章 仏教は無我説か?―急ぐべからず」「第四章 マインドフルネスへの熱狂」「第五章 悟りのレトリック」の各章で批判している。特に最新の認知科学や脳科学を引用しながら仏教の教えが科学的であるとする主張に対し、無我や悟りは仏教的世界観でのみ通用する専門用語である(概念依存性があると書かれている)と反論する。

また、これらの章では、「『記述的』と『規範的』とを明確に区別すべきである」という主張が繰り返される。「記述的」とは「~である」と言えるような事実を指しており、「規範的」とは「~すべき」のような価値観や倫理観についてである。この区別をした場合、科学が扱うのは「記述的」な内容に限るべきだが、仏教は「記述的」な教えだけでなく「規範的」な教えも含んでいるため、「仏教は科学である」という主張は誤りであるというのが著者の主張だ。

この「仏教は科学である」という主張は記述的側面と規範的側面を混同しているという反論を具体的に説明するために、ロバート・ライトによる『なぜ今、仏教なのか』を取り上げた第二章全体を割いて批評している。たとえば、原題の『Why Buddhism is True』における「正しい」という言葉が、この世界を正確に言い表しているという点で科学的に正しいという記述的な意味と、人生を幸福に生きるために道徳的に正しいという規範的な意味を区別していないことを指摘する。

ちなみに、以下の動画では本書の原著出版をきっかけにライト(左)とトンプソン(右)が対談をしており、本書に負けず劣らずの白熱した議論が交わされている。2時間以上かつ英語ではあるが、エキシビションマッチとしてオススメだ。


「仏教徒ではなく仏教の善き友として」

批判の内容をまとめると、「①仏教は他の宗教より科学的で優れている」という仏教例外主義によって宗教間の優劣をつけることを止め、「②無我説や悟り、マインドフルネスは科学的事実である」という主張が仏教を現代人に伝えるための方便であると理解すべきということだった。そして、①と②の主張を合わせて仏教モダニズムと呼んでいた。

ここまでの仏教モダニズムへの批判を踏まえ、これらの誤解に対処する態度として著者が提案しているのがコスモポリタリズムである。コスモポリタリズムとは、「あらゆる人々がひとつの共同体に所属するということ、そしてその共同体はそれぞれに異なる生き方をもつ人々を包み込むことができるし、またそうすべきだという思想」(17ページ)としている。

実は著者がこの結論に至るまでには試行錯誤があり、本書でなされるのは著者自身の「罪の告白」でもあるのも面白い。というのも、著者自身も認知科学における自己の捉え方と仏教における無我を同一視しながら、仏教は科学的であるという言説を支持していたと告白し、間違いだったと認めている。それほどに「仏教は科学である」という主張は、仏教の良さを伝えるために使いたくなる魅力があるのだ。

これと同じ主張を、かつて私たち(ヴァレラ、ロッシュ、トンプソン)は『身体化された心』で述べていたが、今考えてみればそれは問題のある主張だった。

149ページ

最後の節のタイトルである「仏教徒ではなく仏教の善き友として」は、「仏教は科学だ」と言いたくなる誘惑に逆らおうとする覚悟がうかがえる。「仏教徒」を自認すると、仏教を批判することは自己批判にもつながり、仏教を客観視しづらくなる。だからこそ、「善き友」や「コスモポリタリズム」という外側の立場から仏教と関わる道を選んだようだ。本書の原題が「Why I Am Not a Buddhist」と名付けられているのは、仏教が嫌いだからではなく、むしろ好きだからこその誠実な決断であるということが明かされて本書は締めくくられる。

仏教哲学者たちは、ヨーロッパ中心主義でもアメリカ中心主義でもない、実現可能で生きたコスモポリタニズムを創造しようとする努力に対して、多大な貢献をすることができる。私は仏教徒ではない。しかし、仏教の善き友でありたいと願っている。仏教の最大の味方になるのは、実現可能で生きたコスモポリタニズムであると思う。

250ページ


反論への反論を私なりに

以上が本書の内容だが、ここで少し個人的な補足を書いておく。「仏教は科学である」という表現が正確ではないという批判本を読むと、「だったら、仏教を学ばなくていいや」と逆の立場に大きく揺れ戻ってしまう恐れがあるからだ。そこで、本書の主張に反論ポイントをいくつか提示することで、バランスを取ろうと試みてみる。

反論①:他の宗教にも科学的な要素はあるとしても、どちらがより科学的か比較できるのでは?

本書は仏教例外主義を批判する際に「ユダヤ教やキリスト教、イスラム教にも科学的な側面はある」という反論を度々している。しかし、仏教例外主義が注目しているのは、科学的か否かの二者択一の判断ではなく、どちらが「より」科学と矛盾のない教えとして受け入れやすいかだと思う。

科学的であるかないかの二択で議論するだけでなく、「この宗教には科学的事実と矛盾しない教えが〇〇%ある」のように数値化して比較するなど、各宗教の科学度のような指標をつくって議論を始めることもできるのではないか。もちろんこの比較をもって宗教に優劣をつけることはできないが。

反論②:著者が提唱するエナクティブ・アプローチのポジショントークでは?

『なぜ今、仏教なのか』を批判する際に、進化心理学は「人間の心を理解するための正しい科学的アプローチではない」と言い、仏教が科学的であるという主張を否定するために進化心理学自体の科学性を否定している。では、どのような科学分野を参照すればいいのかという疑問に対し、著者は自身が提唱するエナクティブ・アプローチを推している。

著者自身がライフワークとして仏教と科学の折り合いをつけるベストなアイデアとしてエナクティブ・アプローチを生み出したことは確かだが、このアプローチこそが唯一の方法であるかのような論の進め方は恣意的ではないだろうか。進化心理学が適切ではないとしても、他の科学分野とエナクティブ・アプローチの比較がなされていく余地がある。

反論③:コスモポリタニズムは最適な規範なのか?

科学に記述的側面を委ねた後に規範的な側面として参照するものとしてコスモポリタニズムが提唱されるが、このコスモポリタニズムが何を意味するのかが曖昧ではないか。また、「仏教は科学的で他の宗教より優れている」という仏教例外主義や仏教モダニズムから脱することと、そこからコスモポリタニズムを新たな規範として採用することには論理の飛躍があるのではないか。

本書でも触れられているように、約2500年前に様々なインド哲学と切磋琢磨してきたのが仏教であり、それから仏教モダニズムに至るまで規範的な側面を磨いてきた現代仏教をそのまま採用しても良いのではないかという疑問は残る。また、コスモポリタニズムにならずとも、仏教以外の宗教を選んでみたり、ユダヤ教徒が信じる仏教のJewBuのように複数の宗教を組み合わせたりすることもできる。おそらく科学者としての立場から記述的な側面を重視するあまり、規範的な側面を考える際に特定の宗教を選びたくないというバイアスが働き、コスモポリタニズムを消去法的に選んでいるのかもしれない。


以上、3つの反論ポイントを挙げてみたが、仏教例外主義や仏教モダニズムの「仏教は科学であり、他の宗教より優れている」という主張が過剰にもてはやされている現状に警鐘を鳴らし、仏教と科学の関係性を今一度冷静に考え直すべきという本書の主張には賛成できる。「仏教は科学である」という単純化されすぎた表現に待ったを掛ける貴重な一冊であることは間違いない。

また、仏教が記述的な側面と規範的な側面を区別していないと指摘するだけでなく、記述的な側面は認知科学に頼り、規範的な側面はコスモポリタニズムに頼るという代案を提示している点も評価できるだろう。単なる非難に終わることなく、批判として読み応えのある内容に仕上がっている理由はここにある。

監訳者解説に「科学・哲学・宗教を横断する思考」というタイトルがついているように、科学と宗教の境界を明確にしようと試みる哲学という点でも参考になる。私個人としても科学と哲学と宗教の関係性を考えているので、本書を何度も読み返しながら自分の思想を深めていきたい。


仏教は科学ではない、だからこそ。

ウィリアム・ジェームズが進化論とキリスト教が衝突する時代に科学と宗教の折衷を目指したプラグマティズムを生み出したように、著者は認知科学と仏教が衝突する時代に科学と宗教の対話を試みてエナクティブ・アプローチを生み出し、本書を著した。日本語版序文でも言及されているように、西田幾多郎や西谷啓治などの日本人哲学者も仏教を現代社会に接続しようとしてきており、科学の時代の仏教(宗教)論は東西問わず長い歴史があるようだ。

「仏教は科学である」という主張は必要悪だったのかもしれない。「仏教はキリスト教よりも劣っている」とか「仏教は科学よりも劣っている」という先入観を打破するためには、「仏教は科学」という方便は便利だったのだろう。私自身も「仏教は科学」という説明から仏教に興味を持った一人であるし、宗教という言葉に忌避感のある現代人には科学的な側面を強調する方が聞いてもらいやすいというのは確かだ。

ただし、本書を読んで「仏教は科学である」というのが過言であると知ったとしても、仏教の価値が下がることはない。なぜなら、仏教が面白いのはむしろ、仏教が科学ではないからだ。仏教を学びたくなるのは、科学が教えてくれない超自然的な現象の解釈や価値判断の指標を授けてくれるからだ。さらには、記述的側面と規範的側面がシームレスに接続された論理の美しさに仏教の魅力があるとも思う。仏教は科学ではないからこそ、科学全盛の時代に存在意義がある。

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