脱完璧主義の読書論(『読んでいない本について堂々と語る方法』) #329
『読んでいない本について堂々と語る方法』という本を読んだ。いや、本書を知った後では「読んだ」などと軽々しく言えなくなるのだが、とりあえず一般的な意味において読んだことにして話をする。
本書はキャッチーなタイトルだが、決して「知ったかぶりがバレないように振る舞う方法」のような小手先のテクニックを羅列した本ではなく、「本を語る」という日常生活にありふれた行為をユーモラスに論じた一冊である。本にまつわる行動を「読む」と「語る」という二つに分けてそれぞれを考察することで、読んでいない本を語るやましさがなくなるという構成になっている。
「読んだ」と「読んでいない」の境界は?
著者はそもそも「読んだ」とはどのような状況を指しているのだろうかと疑うところから始める。多くの場合は「読んだ」=通読したを意味するだろうが、通読にも流し読みから一言一句読むまで幅広い。「論語読みの論語知らず」ということわざがあるように、読んでいても役立てていなければ「読んだ」と言えないかもしれない。「読んだ」という完了のハードルがどこまでも高く設定できるならば、それに合わせて「読んでいない」に当てはまる本も増えていく。
そこで、本書は「読んでいない」には様々な段階があるとして、第一章で「ぜんぜん読んだことのない本」「ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本」「人から聞いたことがある本」「読んだことはあるが忘れてしまった本」のそれぞれについて論じていく。ちなみに、本書で引用される本には〈未〉〈流〉〈聞〉〈忘〉と付されているのも面白い。〈完〉や〈了〉といった記号が無いということは、どうやら著者が自信を持って「読んだ」と言える本は一冊もないようだ。
本書が読んでいない本を語っても良いとする根拠の一つは、一冊の本について詳しく知っていることよりも、その本が他の本とどのような関係があるのかを知っている方が良いというものである。つまり、その本の内容ではなく、その本がどのような文脈で語られるのかを知る方が重要というのだ。これを「共有図書館」という言葉で端的に表現している。少し長いが本書の主張の核となるのでそのまま引用する。
このように、「読んだ」という状況の定義の難しさから問題提起し、とある本について語るには熟読する必要はないと主張していく。一見すると詭弁のように思えるが、「読んでいない」という言葉はグラデーションであるという主張は説得力がある。そして、「読んだ」という状態に達するのが困難である以上、ほとんどの本が「読んでいない」本に該当することになる。よって、本について語るということは、必然的に「読んでいない」本について語らざるをえない。
本を「語る」とは?
では、本書のもう一つのテーマである「語る」についても見ていこう。ここでキーワードになるのが「内なる書物」だ。〈遮蔽幕としての書物〉という言葉でも説明されているが、本を読みながら記憶するのは自分の興味がある部分であり、本を語る時にも印象的な部分を選びとることになる。つまり、本を語るという行為には、語る人の主観・解釈が反映される。
また、その本を「読んだ」と主張する他人も同様に「内なる書物」を参照しながら話を聞くため、両者は同じ本について話をしているようで別々の「内なる書物」について話していることになる。読書会をしたことがある人ならば、同じ本を読んでいても異なる部分に注目することを経験したはずだ。
この「内なる書物」を巡る議論は、全ての生物は見ている世界が違うというユクスキュルの環世界やロラン・バルトのテクスト論にも通ずるように感じる。本というのは客観的に存在するように思えるが、人が読み始めた時点で「物質的な書物」と「内なる書物」に分裂していくのだ。
そして、「内なる書物」が集まった「内なる図書館」はその人のアイデンティティーそのものとなっていく。本は情報収集の手段としてだけでなく、自己イメージの確立や自己表現としての役割も果たしてくれるようだ。
以上のように「本を読む」「本を語る」という二つの行為について論じた上で、「あなたが『読んでいない』と後ろめたく思う本についても、自分の価値観を表明するきっかけとして堂々と使えばいい」と勇気づけてくれている。
感想
多読or熟読でもう悩まない
読書好きなら誰もが迫られるのは、多読か熟読か:それが問題だ。個人的にはショーペンハウアーの『読書について』やロルフ・ドベリの『Think clearly』などを参考に、古典を熟読すればいいと考えている。その理由は多くはすでに古典で言及されているから。もう一つの理由は、古典でさえも一生をかけても読み尽くせないほどあるからだ。
多読とは無限の書物への挑戦でもある。一生をかけてもこの世の全ての本を読めないという現実、人生の儚さを思い知らされる。毎週一冊を読んでも約4000冊、毎日一冊を読んでも約30000冊しか読むことはできない。だから、本書でも指摘されているように、読んでいない本について話さなければならないのは当然である。それでも、せめて手に取る本は堂々と語りたいと熟読しようとする。
しかし、多読か熟読かという論争も本書の前では無意味なのかもしれない。たくさん本を読んでいるとか、古典を読んだことがあるとかで人と張り合うことも、どちらも無数の「読んでいない」本の前ではどんぐりの背比べだ。それに多読にせよ熟読にせよ「読んだことはあるが忘れてしまった本」として「読んでいない」本になっていくのだから。
本でアイデンティティーを探る、伝える
その人が語る本にその人のアイデンティティーが表れる。この話は、Facebookの「いいね!」からその人の性格をプロファイリングできるという研究結果を思い起こさせる。
この研究結果を援用すれば、好きな本を列挙すれば自分の性格や価値観を伝えられると言えるだろう。『花束みたいな恋をした』でも、主人公の二人が意気投合するきっかけは好きな本の多くが一緒だからというものだった。
本を読むことで自分は何が好きなのかが見えてくる。そして、好きな本を伝えることで自分のことを伝えやすくもなる。自己紹介で好きな本リストを共有するというのは面白そうだ。10冊あれば仕事仲間、70冊あれば友人、300冊あれば配偶者選びに役立つかもしれない。
「にわか」でもいいじゃない
「読んでいない本は語ってはいけない」という風潮はサブカルチャーにも及んでいる。アニメや映画などの動画コンテンツの倍速視聴を批判する言説もその一つだ。しかし、本書が「読んだ」の定義が難しいと述べているならば、コンテンツを「観た」というのも定義が難しいのではないか。
もっと自由に本について語り合えばいいじゃないか。読みたい本を好きなように読めばいい。そんな「にわか読書」を肯定してくれるような本だった。そして、この寛容な姿勢は全てのコンテンツに対しても当てはまるもので、「にわか鑑賞」も歓迎すればいいのかもしれない。
私は読書好きで感想を書くのも好きである。でも、「専門分野でもない本について語ってもいいのだろうか」と不安になることもあった。この不安を「気にする必要はない」と喝破してくれているのが本書だ。私の「内なる図書館」に保管しておきたい。