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【短編】行かれた情緒



 ある考え方。
 が流行した。
 自分が相手のことをよく知っていて、相手も自分のことを十分に理解している状態にある、それが一番幸せだと。
 ネットメディアで誰かが言いだして、それに多数が賛同した。家族でも恋人でも友達でも相手のことを十全に知っていることが幸福。
 相手を知っているとは?
 そもそも幸福の定義は?
 そんな瑣末をすっとばしてこの考え方は流行った。
 誰もが、誰かを過不足なく知っていたいと求めた。
 で、そういう時代にあって、彼こそ最高に幸福な人間はいないだろう。
 彼には共感能力が欠如していた。
 彼。
 彼は他人をおもんぱかれない。
 彼には友達もいないし、血縁者との交流もない。
 他者への同調偏重の時代にあってこの軽やかさ。

 で、何故私が、彼のことを幸せだと断言しちゃえるのかと言えば、私が、すでに死んだ人間で、彼のことを見守る霊的存在だったからだ。ひねもす彼を眺めていて、彼のことをそれこそ「よく知って」いる。

 人づきあいのない彼は人非人として扱われることもあったが、彼にも美点はあった。例えば、他人の悪い点を容赦なく指摘した。
 たまたま彼のことに好意をもった、同僚の女性からこう言われる。
「部長ってぜんぜん私のことを分かってくれないよね」
「いやあなたの説明が悪い」

 私たち霊体の役割はなんなのか。ただ生きている人たちを見つめているだけか。死んだ時から年は取らなくなり、生きている人からは見えず、しかし死んだ人間同士はお互いが見える。
 私は生前の恋人と出会えた。
 彼女と再会した時、お互いの見守っている同士を結婚させないかと提案した。彼女は同意した。
 霊体になった私たちに強い力はなかったが、二週間も願い続けていれば、見守り相手が願った場所に行ってくれるくらいの力はあった。
 それを利用したがダメだった。
 彼は、女性から冷たい人と思われた。
 昔の恋人はまた結婚できなかったねと言った。
 私は答えた。
「すまない」
「彼はあなたに似てる」

 彼に似ている私が吸い寄せられたのか、私が彼のそばにいるから彼が似たのか。
 彼にはもうひとつ美点があった。気前がいい。人によく物を譲り金を配った。
 他人だけではなく自分にも関心がない。
 ここから導きだされるひとつの仮説は、他人の心のありさまを想像する能力の源泉は、自分の心への関心なのではないかと。
 気前のいい彼は、いつか、大人物になるかもしれない。
 なるわけない。

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