見出し画像

デジタル言語学者の人に、聞いてみた【意味論編】

今回のテーマは意味論。前回の引き続き、言語学者の得丸久文(とくまる くもん)さんをお迎えしました。彼は、言葉の意味がどのように構築され、私たちがそれをどのように理解しているのかという「意味のメカニズム」について、深く掘りさげたお話をしてくださいました。ありがたや。
得丸さんの見解では、言葉とその意味は単に辞書に定義されたものだけではなく、私たち一人一人が持つ経験や知識、さらには文化的背景が密接に関わっているものだと言います。
今回は、言葉の背後にある深い仕組みを解き明かし、日常的に使う言葉がどのように私たちの考えや行動に影響を与えているのかを考えるきっかけにしていただければと思います。それでは、どうぞお楽しみください。


今回ご参加いただいのたは 得丸久文(とくまる くもん) さんです!

得丸久文先生から一言
言葉を正しく使うために生み出されたものが概念です。だけど、概念がそういうものであることを、学校でも大学でも職場でも教えてくれません。
概念は、雑音のない静かな環境で、何度も繰り返し考えて考えて考え抜くことによって、言葉を司る細胞(脳室内のBリンパ球)が、成熟して質的な進化を遂げることで生まれます。
ここから先の話も、静かな環境で、繰り返し読んでいただければ幸いです。

得丸久文:
意味のメカニズムって聞いたことありますか?そういう仕事をやった人がいるんですよ。荒川修作といって。去年の春から10月まで、軽井沢のセゾン現代美術館で、荒川修作の『意味のメカニズム』展というのをやってました。

このトイレはね、養老天命反転地ってのが岐阜にあって、そこのオフィスという建物の男子トイレの中なんですよね。これ本当に使えるトイレなんですよ。すごい綺麗でね、これ大きさ違うんですよ。大・中・小ってアサガオの大きさが違っててね。ピンクな感じでとても綺麗にできてて、こんなトイレもあり得るんだなみたいな。

荒川さんってのはねトイレとかね、ビルの非常階段とかね、ああいうところにデザインを凝るんですよね。普通みんな手を抜くとこに凝ってて、すごく面白く作る人なんです。目に見えないところって、大事なんです。

今日は、言葉はどういうふうに意味と結びつくのかっていう話をさせていただきます。


文明は意味のメカニズムを求める

「文明は意味のメカニズムを求める」という話をさせていただこうと思います。

「どういう意味なの?」っていう話になるわけだけど、つまり、文明というのは文字が消えない音節として機能するわけね。今こうやって皆さん知ってる文字があると、読むと頭の中で声が聞こえるんですね。書いてある文字が音になって聞こえてるわけですね。それは本を読んでも手紙を読んでも、あるいはインターネットで何か検索しても文字列がくれば、僕たちの頭の中で音が聞こえるわけですね。

するとどうなったかというと、言語情報が時空間を超えて共有されるようになったということなんです。それが文明の時代です。それだけじゃなくて、時空間を超えた共有だけじゃなくて、そうすると、「俺はここまでやったからあとはお前頼むよ」って次の世代の人に、やり残した仕事をやってもらえるわけですね。だから、人類の知識が世代を超えて連続的に発展する時代が来た。むしろこっちの方が文明が進む原理ですよね。

そういう時代になったときに何が必要かというと、言葉を書きのこした人がこめた「正しい意味を読み解くこと」なんですね。だから、先生が書いた本を見つけたはいいけど、自分勝手に読んで間違った方向に行っちゃったら時間がもったいないし、いわゆる伝言ゲームになるわけですね。そういうことが今、科学で起きているわけです。実際に。

だから、本を通じて知識を受け渡すという時代においては、言葉の意味するものが何かっていうのを、厳しく・厳密に・正しく受け取り、正しく伝えることが求められています。だから意味のメカニズムを解明する必要があるわけです。

宿題:言葉の意味と概念

得丸久文:
皆さんにも宿題として、「言葉の意味とか概念についてちょっと考えてみて」って言ったと思うんですけど、何か考えたことありますか?それから質問とかあれば、今ちょっとその時間を取ってもいいと思ってるんですけど、何かあればどうぞ。

本州:
私は小学校の2年生ぐらいのときまで、青いリンゴがあるっていうのを知らなくて。おうちで青いリンゴが出てきたときに、家の人が「これはリンゴだよ」って言ったのを聞いて、納得できなかった。なのでスーパーに行って、赤いリンゴと青いリンゴが並んで、どっちもリンゴって書いてあるのを見て、「これはリンゴなんだ」っていうのを、リンゴっていう概念を初めてそこでちゃんと頭の中で整理したんですね。

そのときのことを思い返してみると、数学でやった集合。AかつBとか、丸があって図に書いたあれを思い出して。自分の中で概念っていうか、意味っていうのは、「条件を精査していくこと」。やっぱ自分で見て経験をして、うまく調節していくこと。で、自分なりのその条件を確立させていくことっていうのが、人間の意味っていうか、概念なのかなっていうのを、自分の人生を振り返って考えました。

得丸久文:
すばらしい経験であり、もう僕ゾクゾクしました。今鳥肌が立つぐらい素晴らしい答えだと思う。面白かったです。

mii:
今台湾に住んでるんですけど、ちょうど台湾に来たときに着いたのが台北の空港だったんで。台北の空港着いたときに、私が「台湾着いたよ」って言うから、もう息子の中ではそこが台湾になってて。もう今台北からちょっと1時間ぐらい離れた、新竹というところに住んでるんですけど、もうそこは彼らにとっては台湾ではなくなってて。「お母さん早く台湾行こうよ」って言うのは、あの子たちにとっては「台北に行こうよ」みたいな意味なんですけど。概念っていうのがやっぱり、さっき本州さんが言ってたみたいな、経験から分けて、だんだん枝わかれしていくようなものなんだなっていうふうに、私も日々体感してるようなところで

その話とはまた別なんですけど、意味と概念のことを考えたときに、私の中では概念って言葉があって、私のイメージでは言葉があってそこに何か含まれて、今で言ったら頭の中で地図を描くみたいな。概念っていう言葉の意味が、正しくはないかもしれないですけど、私の中の概念は、「名前があるものの周りのモワモワしたもの」が概念っていうイメージがあるなっていうふうに思いました。

得丸久文:
まず最初のね、お子さんの台北の空港を見て、そこを台湾だと思い込んでいるっていうのは面白いですよね。スケールの問題ですよね。そこも台湾ですが、実はもっと広いっていうかわいらしい勘違いですね。あとそれからモワモワという表現は、面白いですね。

Meadow:
10年ぐらい前に、私と私の妹との間で「概念」って言葉が流行ったときがあって。妹がもう何かを言ったら、「概念やな、それは。」って言ったことがあって。何を言ってもそう言うんですけど。

事例としては、言葉にできない、言語化できない。ちっちゃいからっていうのもあると思うんすよ。ちっちゃいから言語化できない。概念という、「難しそうな言葉逃げよう」みたいな感じで。例えば夕日が綺麗とか。心が動くようなシーンを見たときに、「この夕日概念やな」みたいなことを言って、それ以上言語化するのから逃げるみたいな。それがどんどんどんどん「いやこれは言語化できるでしょう」っていうようなことにも広がっていて。

概念っていう訳のわからない単語に逃げる。本来できる作業をしないでおくみたいな感じ。ちっちゃいからってのもあると思うんですけど。っていうのがすごい私の中では概念
について思ったことです。

得丸久文:
2人の間では通じてるわけですよね。当時のあなたと妹さんの間では、2人の間では同じことを思っていて、「もうこれ以上何か言葉に表現できない」「嬉しい」「美味しい」「概念やな」っていうふうに、やり取りしたこと自体は、間違いでも何でもないです。ただもしそれを、一般化して、別の人たちにも通用させようとすると、どこかで衝突が起きるから、整理が必要になります。

本州:
意味っていうか概念って、「言葉にしたい抽象的な何か」があって、後からそこに名前をつけるのか。それとも言葉があって初めてそこに何かが生まれるのか。よく言うじゃないですか、言葉にして初めて概念が生まれるっていうか、初めて何かを知覚できるとか。

言語が先なのか概念が先なのか、卵が先か鶏が先かじゃないんですけど、どっちなのかなっていうのは気になりました。

得丸久文:
すごくいい質問ですよね。実際にそれは両方の説があります。

両方の説があって、井筒俊彦さんっていう、哲学者みたいなイスラム研究者みたいな人がいて、難しいこといろいろ言うんだけど、彼は「分節」っていう言葉を使って、言葉が先にあるっていうんだね。言葉が先にあって、言葉がないと、例えば犬と猫の区別もできないじゃないかみたいなことまで言うんですよ。そういう人もいる。僕はその分節概念が間違っていて、言葉が先だっていうのも間違ってると思っています。言葉があってもなくても犬と猫は別だと僕は思うから。でも井筒さんの説は、慶応大学で教えられたから、そのように考える人、教えている人はいます。

やっぱりまず何かがあって、それに誰かが名前をつけていくところが基本だと思います。

意味の先行研究

得丸久文:
言語学で意味論やってる人は非常に少ないんですよ。正面切って意味論やってる人なんてもう皆無に近い。鈴木孝夫は『ことばと文化』の中で、意味とは「ある音声の連続(イヌならイヌということば)と結びついた、ある特定個人の経験や知識の総体である」と表現しています。

これは僕が今まで読んできた意味論の中でも、最高に素晴らしい。短くて、分かりやすくて要所要所を押さえている、要点を押さえている意味論だと私は思っています。非常に評価してます。

これはどういうふうに理解すればいいかというと、まず第1に、言葉と意味は別々のものですと。つまり、イヌという言葉、ある音声の連続。つまり音韻刺激という音があって。それと、イヌという実態。言葉ではない、犬。大きくても小さくてもイヌというものがいて、それが恣意的に結びついてる。

恣意的にっていうのは、例えば要するに自分の知ってるイヌしか知らないんだよ、みんなね。だから例えばさ、知らないイヌ見たりすると、焦るっていうかね。「これもイヌなんだ」とか言って驚いて、「あーこんなイヌもいるんだ」とか言って、それが新しくイヌのカテゴリに入っていく。音と記憶が、音と存在が結びつく。結びつくのがまず一つね。

それから「特定個人の」っていう、やはり個人個人で意味が違うということが大事なんですね。ラーメンっていうときに、九州の人はとんこつラーメン以外考えられない。ところが東京の人は醤油ラーメンを考えるし、北海道の人は塩ラーメンだったり味噌ラーメンだったりするわけですね。だから、その人がそれまで何を食べてきたかでラーメンの意味が違うわけで。個人個人で違うってことがやっぱり大事ですね。特に経験概念はね。

そこで鈴木先生がすごいのは、「経験や知識の総体」っていうふうに言うところ。だからラーメンって言ったら、みんな自分が食べたラーメンを思い出すけど、「卑弥呼」って言われたときに、邪馬台国の王様っていいますね、邪馬台国にみんな行ったことないでしょ、多分。見たこともないし、会ったこともないし。だけど卑弥呼っていうと邪馬台国っていうふうに思い出せるわけね。これは経験じゃないわけですよ。言葉の知識なんですね。だからそれも意味になりうるっていうことを、鈴木先生は言ってるわけです。

この3つ。言葉と記憶が結びつく。個人個人で違う。そして、経験の記憶も知識の記憶も両方が意味であるという。鈴木先生のは、本当によくできた意味論なんですね。

言葉の意味:別々のものが恣意的に結合

得丸久文:
記号って何かっていうと、脊髄反射回路に入力される音や形。形が記号なんですね。そして、脊髄反射の結果が生まれる、よだれが出るとか、あるいは何か思い出す(だけで終わる)とか、それが意味なんです。

言葉と意味の関係っていうのはまず記号があって、それに対して経験に基づいた行動が反射的に生まれる。それが意味です。行動を伴わないで、経験の記憶が思い出されるだけのときが実は多いのですが。

いろんな記号があるわけです。

もし「津波だ」と聞けば、何かを思い出している余裕はない。「すぐに高いところに逃げる」というのが意味です。だけど、普段の生活では、そういうふうに言葉を使っていない。だから地震や火事のときに困らないように、すぐに行動する訓練をしています。

通常の言葉は、行動と直結しません。例えば、大福餅って聞いたときに、ちょっと大福餅って聞いて、思い出すことを皆さんちょっと言ってみてください。3つずつ。最初に思い出したことを3つね。思い出した順に言ってください。

qbc:
「あんこ」「白」「モチモチ」みたいな。

Meadow:
近所にある「二葉軒」っていう有名な大福のお店。「窒息」「美味しくない」。そんな好きじゃないから。

本州:
「白い」「丸い」「ムニュムニュ」

mii:
「駅の裏のあのお店」みたいな。いつも行くとこ。と、「そこの店にあるイチゴが入った大福」。あと、「子ども食べなかったな」みたいな。

得丸久文:
1つね、だから大事なことはね、今皆さんが思い出したことは、お店だったり、お餅がどんな形とか、色がどんな形とか、子どもが好きか嫌いかとか、いろんなこと思い出すんだけど。多分ひとつずつ思い出すんですよね。いっぺんに関連する記憶を全部思い出すんじゃなくて、記憶を1つずつ思い出していくんですよ。

それが1番目の言葉と意味の繋がり方の話。1対1で対応してるわけですね。1個ずつ思い出すってのは、大福餅っていう言葉に対して、1つの記憶が思い出される。それからまた次の記憶が思い出される。1個1個思い出していくっていうことなんですね。

言葉によって意味は違いうる

得丸久文:
それから次が、個人によって意味は違いうるという。さっき言ったように、東京だと「たぬき」っていうと、天かすそば、天かすうどん。大阪だときつねそばが出るんですね。所変われば品変わる。

その共通性というのは、国や地域や職場や学校や家庭で、同じ釜の飯を食ったり、同じ文化があると共有された記憶があって、何でも記憶に記号になりうるわけね。逆に記憶が共有されてないと、言葉が同じでも違ったものが思い出されますね。それは当たり前のことなのですが、あまり理解されていません。

だからおそらく、世界でおきている言葉と記憶の繋がり、結びつきは、おそらくね、僕半分以上は勘違いだと思うよ。みんな違ったものを思い出したりするわけ。だけど、見えないからね。心の中なんか見えないから、みんながそれに気がついてない。

みんな違ったものを思い出してるわけだけど、それに気がつかない。こういったことも知っておかないといけない。やっぱり世の中勘違いだらけだっていうのが現実なんですね。それで同じ人間でも、同じ人でも、同じ言葉で違ったものを思い出したりすると。そんなだから、意味ってのは人によって違うということが大事なんですね。

意味は個人的経験にもとづく(弊害)

得丸久文:
「あつものに懲りてなますを吹く」っていうことわざがありますけど、一度良くない経験をすると、それに支配されて敬遠してしまうんですね。そういうことってよくあるわけですよね。

それから、やっぱり経験したものしか理解できない。経験してないものは、もうわかんないよね。だから経験ってすごく大事なんですよね。経験の記憶っていうのは、言葉の記憶に優先してしまう。

それから結構大事なことは、知らない言葉があったときに、その意味を想像したり、勝手に解釈しちゃ駄目なんですよ。勝手に解釈とか想像するのはご法度なんですよ。でも結構世の中それ多いんです。勝手な解釈で本を書いたりする人も多いから、安易に真に受けちゃ駄目なんです。分かってない人が書いてることが多いから。

そこら辺はやっぱり、「これは私が知らない言葉だ。」知らないっていうとこで止めて、じゃあ意味を探してみよう。そうしないと、自分が知らないものを知れないですよ。自分が知らないものをたくさん経験する。これが大事です。
正しい意味を求めるコツみたいなものがあって、想像しちゃいけないんですよ。そしてそれを自分が知っているかどうかを正しく判断する必要がある。自分が知らないと判断したら、「この言葉の意味は何だろう?」っていうふうに周りを見回して、同じ経験をしてみたり、もっとたくさん読んでみたり、そういうことをしなくちゃいけない、これがとても大事なことなんです。

言葉の意味は語り手が決める

得丸久文:
『鏡の国のアリス』って読んだことある人いますか?ルイスキャロルには、『不思議の国のアリス』っていうのがあって、その続編に『鏡の国のアリス』ってあるんです。この中にハンプティ・ダンプティって、卵のおばけというか、卵なんですけど。その彼とアリスの会話がこれです。

「言葉のご主人」っていうのは、やっぱり使い手なんですね。言葉を使う人がご主人なんですね。言葉をもらう人、あるいは読み取る人はまだご主人じゃないんですね。だから言葉自身も主人じゃなくて、やっぱり言葉を使う「私」がいて、その人が何かに名前をつけている。だから「言葉ってのは、私が決めた通りの意味を持つんだ」っていうふうに言うわけ。

僕は最初はね、この表現を批判的に受け取って、ハンプティ・ダンプティってずいぶんわがままだな、間違ってんじゃないかって思いました。でも最近は、やっぱりそうじゃなくて、ハンプティ・ダンプティが正しいと思うようになりました。

言葉っていうのは、語り手が意味を決めるんですよ。やっぱり言葉と意味の関係っていうのは、自分がその言葉の意味を思っていて、言葉を使うわけですよね。その通りにならない、聞いた相手は違ったことを思うから焦るわけだけども。常に自分が主人であって、言葉に正しい意味を持たせて、言葉を使うということを意識しなくちゃいけない。あるいは、聞き手や読み手が、正しい記憶を思い出すような表現を選ばなければならない。そして、読む人は、そういうふうにして使われた言葉だっていうことを意識して、意味を読み取らなくちゃいけないということなんですね。

経験と知識の総体

得丸久文:
それから3番目の経験と知識の総体ということですね。経験の記憶、五感。見る、聞く、それから触る、食べる、臭うですね。その記憶。で、これは、心理学ではエピソード記憶っていうんですね。タルヴィングさんという人が心理学で使ってます。エピソード記憶、まぁ経験記憶ですよね。具象概念、具象的な記憶っていうふうに言ってもいいんですけど。一言で経験の記憶といってよいと思います。

これに対して、知識記憶。それは言葉でできた記憶。心理学では意味記憶という。意味記憶という言い方は、僕はあんまり好きじゃないし、正しい言い方だと思わない。具象的記憶と抽象的な記憶の2種類ともいえる。鈴木先生が「知識の記憶」といわれたのは、鋭いと思います。

だけどね、経験と知識は無関係じゃないと思うんですよ。知識っていうのも、経験の裏付けがあって生まれるんです。邪馬台国ってのは、大和(やまと)ですよ。大和っていう国が日本にあったわけで、それが中国では漢字で「邪馬台国」として記録されたんじゃないかと思うんです。全て現実経験とか実在があって、知識っていうものが生まれると思うんですね。

経験の裏付けがない、うわっつらな言葉だけの結合を、丸暗記とか受験の知識という言葉が当てはまると思うんです。もちろんそれが無意味だというわけじゃなくて、知ってるだけでもいい場合もありますから。

科学の言葉:実験観察発見の裏付けと検証

得丸久文:
科学用語ですね。実験・観察・発見の裏付けがあって、科学用語も生まれるわけです。10年前、2014年にSTAP細胞という言葉が話題になりました。あのときはもう毎日毎日朝から晩までテレビがそう言ったもんだから、みんな3日ぐらいすると、「STAP細胞ってさ、白い割烹着の女性研究者だよね」みたいな感じで、毎日毎日見せられてましたからね。記憶に焼き付くわけですね。

多くの人にとって、「STAP細胞=白い割烹着を着たリケジョ」。ちょっとかわいいリケジョが、STAP細胞という言葉と結びつくわけですね。大学の図書館に行けば雑誌Natureに論文が掲載されてましたから、大学の図書館に行って記事全文をコピーできたわけです。それを読めば、STAP細胞って何かって本当はわかるんだけど、そういうことをやってる人には1人も出会わなかった。僕はやったんだけどね。暇だったらやったんだけど。ほとんど誰一人としてやってない。

実験結果を得て、その実験結果に基づいて、STAPという名前をつけたわけですね。それがSTAP細胞の由来なわけです。実験で使ったのはBリンパ球なのに、それとは別の名前をつけること自体正しいのかとか、Bリンパ球ってのは刺激を受けると活性化するわけだから、その現象じゃないかとか、そういう疑問や批判も可能なんだけど、みんなNatureをちゃんと読んでないから、そういう批判できなくて、あるのか・ないのか、「STAP細胞ありますか」「あるんです」とか「ないんです」とか、そういう、あるかないかの議論しかできなかったっていうのが、当時のSTAP細胞の騒動ですね。

科学者が現象を命名する瞬間

得丸久文:
科学者が現象を命名する瞬間があるわけですね。科学の言葉っていうのは、ある特定の科学者個人が行った実験や観察によって、これまで誰も発見したことがない未知の現象が発見されて、その現象には名前が必要だから名前をつける。エントロピーにしても、STAP細胞にしても、そういうプロセスを経て、言葉は生まれてるわけです。

STAP細胞があるかないかじゃなくて、彼らがやった実験は本当に正しいのかっていうことを、Natureの論文に基づいて吟味する、検証すると、そのときSTAP細胞はそう呼ぶべきかどうかっていう答えも出るわけですね。

そうしないと、言葉ってのは正しく継承できない。で、伝言ゲームになっちゃう。伝言ゲームっていうのは、本当に普通の伝言ゲーム見てても、意味不明な言葉のやり取りになってるけど、時間の無駄ですね。科学者が可哀想ですね。伝言ゲームに関わってしまったら。今そういう科学多いんですよ。だからそれをやっぱり避けなくちゃいけないわけですね。

内部言語のネットワーク記憶

得丸久文:
脳の中でどういうふうに言葉が記憶されているのかっていう、僕の仮説があるんですけど。

例えば「リンゴ」っていう音が聞こえる。そうすると脳脊髄接触ニューロンの脳室壁に作られた、抗原端末。タンパク質ですね。抗原タンパクが賦活(活性化)される、刺激される。すると、Bリンパ球の抗体。リンゴという言葉と特異的に結合する、抗体。特異的に結合というのは、鍵と鍵穴の関係でもってきちっと関係する。の抗体を持つBリンパ球が刺激されて、今度は大脳皮質にあるリンゴ・リンゴを食べた記憶、これも賦活されたりするわけですね。

名前を思い出したり、あるいは「リンゴっていうのは果物だよ」とか、「英語だとAppleだよ」とか、「ジャムにもなるし、ジュースにもなるよ」とか、あるいは「赤もあれば緑もあるよ」とか、そういったいろんな知識も、リンゴっていうものをいろいろ考えてると思いつくわけですね。

写真の人はビートルズのリンゴスターなんだよね。リンゴって聞いてビートルズのリンゴ・スターをいきなり思い出す人が一体どれぐらいいるでしょう。結構へそまがりだと思うけど、普通は果物を思い出すと思うんだけど、ビートルズを思い出す人がいてもおかしくはない。

意味のメカニズム:荒井修作

得丸久文:
だからある言葉があって、それがあっち行ったりこっち行ったり、いろんなネットワークでこっちへ飛んだり遊んだりするっていうのが絵になってて、荒川修作さんが描いた絵ですけど。

初めてレオナルドを超えた芸術家ってふうに僕は読んでますけど、もう超天才で、20歳過ぎで、20代でアメリカに行って、生涯アメリカにいたんですけど。そこで言葉を覚えるときにどうやって意味が生まれるのかっていうことで、意味のメカニズムという研究をやったんですね。

記憶が生まれるに当たっては光とか影とか、あるいは体が不安定であることが重要で、みんなそういうことを知らないで生きてるから、「俺がちょっとやってやろう」っていうのをやった人です。

1個のレモンの意味

得丸久文:
これは1970年の意味のメカニズムっていう処女作なんですけど、『1個のレモンにおけるあいまいな地帯のネットワーク提示について スケッチNo.2』と言って。

「レモン」、それから「名前のないレモン」ですね。「レモンの別の翻訳」とかね、「静かなレモン、もし可能であれば」とか。「レモンの音」とか、「レモンの誤解」とかね、なんかいろいろ描いてる。「レモンのモデル」とか「これはレモン」とかね。

そういうのがネットワークしてて、それぞれが全部DNAの二重らせん構造の中に入ってるなんてことが書いてあるんだけど。僕たちの脳の中で記憶はそういうふうに保存されてるんじゃないか。

概念とは何か(論理層第2進化)

得丸久文:
やっと本題に入ったってとこです。今までのは、ある意味で準備運動なんですね。言葉が時空を超えるためには、意味をどうやって正しく伝えるのかっていう必要性があって、それが概念というものじゃないかと思うんですね。

概念とは何か。例えば、ラーメンの定義ってなかなか皆さん考えないけど、出汁があって、濃い醤油とかいろんなタレを出汁で割るんですね。そこに油、香味油を乗せて、中華麺を入れて、上に具材を入れる。これがラーメンの定義らしいですね。そうすると、焼きそばは全然駄目ですね。冷やし中華も定義に合わないし、ちゃんぽんも出汁とタレがないからラーメンに入らない。でもつけ麺になると、麺が丼ぶりの中に入ってるか横にあるかの違いだけなんで、つけ麺はラーメンでいいかなとかね。そういうふうに考えるわけですね。

ラーメンの概念っていうのは、やっぱり自分がこれまでに食べた全てのラーメンをまとめて、さっき集合っていうふうに言葉が出ましたけど、食べたラーメンの集合なんですね。全てのラーメンがラーメンの概念の意味なんですね。

言葉の意味はやっぱり1対1で結びつくんですよ。一般的には僕たちは会話の中で、いろいろ考えるんだけど、1対1で思い出していくんですね。それに対して、概念の意味は1対全。1対全の関係で。つまり、言葉と意味を結びつけるロジックがね、「1対1」から「1対全」に進化している。これが概念だと思います。

発達心理学の研究成果

得丸久文:
概念の研究をやってる人は、意味論が少ない以上に少なくて、私が知る限りは、スイスの発達心理学者、ジャン・ピアジェ。それから。ソ連邦の心理学者、レフ・ヴィゴツキー。この2人しかいなくて。その後の心理学者で、概念論をやった人はまだ見てないです。(余談ですが、僕は2013年7月にジュネーブでピアジェのお墓参りをして、2018年10月にモスクワでヴィゴツキーのお墓参りをしました。)

ヴィゴツキーっていうのは、『思考と言語』の第6章で、「子供における科学的概念の発達の研究」を書いています。子供がひたすら考え抜くことで、徐々に科学的概念を使いこなせるようになるプロセスを、分析しています。

それからピアジェは、集合とか群の計算、A and BとかA or Bとか言って計算することを論じています。『知能の心理学』という本の中で群の足し算や掛け算をやっているのですが、おそらく彼は概念が数学的な群を構成していれば、概念操作が正しい概念を生み出すということを考えていたんじゃないかと思っています。

ヴィゴツキー:言葉の意味は発達する

得丸久文:
ヴィゴツキーってのは、『思考と言語』の中にこういう言葉を残してるんですね。(スライドの1文目)初歩的から高次、そして真の概念になるというようなことを言ってるわけです。

それから次の文。これ何が言いたいかっていうと、概念を覚えるのではなくて、使っているうちに身に着く。概念を使うために、「自分自身が変わる」っていうことなんです。子供心に、今まではラーメンつったら昨日食べたものがラーメンだったんだけど、今大人になった彼は、ラーメンっていうときにそれは、およそ地球上に存在する全てのラーメンを想定しながら議論していくんだけど。そのためには、やっぱり何か頭の中で物を考えるコツがあるというか、自分の中で何か変わってるんですね。

概念を使うためのコツを自分が身につける。自分が変わるわけです。ラーメンを概念として使うためには、定義しなくちゃいけない。そしてその定義を、トマトラーメンが満たすかどうかを確認しなくちゃいけないとか。そんなことを考えるようになるわけです。そういうふうに自分の考え方や思考手順が変わるんですね。

そうやって成長をする。それが成長しないまま概念を使うと、正しく使えないわけで。概念を使える自分になる。そういう知的な進化を遂げるということが、言葉が発達するっていうヴィゴツキーの研究の中で明らかになっていくわけです。

科学概念を正しく受容するには

得丸久文:
それから、ピアジェの場合は「群生体」という言葉を使ってます。群そのものじゃないけど、ちょっと違うんだけど、群みたいなものっていう意味で使ってるんでしょうけど。
群として扱う。

概念は群である。群であることを確認すると、概念が正しいことを確認できる。

ピアジェ:概念が群である5つの条件

得丸久文:
合成性というのは、例外や重複がなくて2つに分けることができる。可逆性ってのは、二分したものを復元できる。連合性ってのは、ある概念を異なるやり方で分解する。そうすると、異なるものを比較することができる。同一性というのは、2つのものが同じであることを吟味・確認する。同質性はある要素が集合に含まれるかどうかを判断する。

こういうことをやって、群が概念であるということが確認できれば、群というのは演算に閉じてますから、概念操作をやった結果も概念になる。概念操作が、有意な、意味ある計算になる。そういうことになるわけです。

概念は学際統合:不可視の分析を可能にする

得丸久文:
今、概念は、個々の科学分野の中で閉じているんです。閉じてるっていうか、狭い中に閉じ込められてるんですね。それは間違っていると思います。そのために、例えば分子生物学と化学と物理学の結果を合わせて分析する必要が出たときに、なかなかできてないんです、今。学際統合ってまだできてないんですよね。

だから学際統合をやるために、専門分野の概念の、一般性を確認してあげれば、別の分野と合わせて分析できるようになる。そうすると、目に見えない現象だって分析できちゃうと。つまり、個別分野の科学で生まれた概念であっても、その概念が群としての必要条件を満足していることを確かめると、分野の異なる2つ以上の概念をかけ算したり、足し算したりして処理ができ、目に見えない現象同士の相互現象、この現象とこの現象が同時におきた場合、どのような結果が生まれるかといういうことを分析できるようになるのです。

結論:概念は文明人の必需品

得丸久文:
結論に来るわけですけども。概念とは何か、やっぱり文明人として生きる上での必需品。文明人って何かっていうと、自分の会ったことのない人の本を読んで、そこに書いてあることから学ぶ。そして自分が会ったこともない人を自分の弟子として、自分は今書き残しているわけですね。そういうために概念が必要なんですね。

7万年前に音節を獲得した人類は、5000年前に文字と正書法を生み出した。言語情報は消えなくなって、時空を超えて共有され、連続的に発展するようになって文明を生み出した。文明の片隅に低雑音環境である僧院や学園が作られ、学僧たちは科学や哲学を論じ、概念を生み出したわけですね。当時彼らは本屋もなかったし、インターネットもなかったから、とりあえず静かな環境で議論してた。今僕たちはそれを全部ただで読めるわけですけど、その正しい概念を見分け、概念を正しく用いることが、文明社会を生きる上で重要ですね。

伝言ゲームをやったってね、何の役にも立たないんでね。いかに伝言ゲームじゃないことをやって、少しでも人類の役に立つかっていうことを、考えなきゃいけない時代なんですね。
それから、複雑化した現代社会を分析し理解するに当たっても、概念なしには不可能だと思います。だから概念は文明人、現代人の必需品であると思うわけです。

加速する知能新可児適応するのは大変

得丸久文:
300万年前に直立2足歩行して、母音が出るまでに290万年ぐらいかかってるわけです。母音ができてから、文字が生まれるまでに約6万年かかってるわけですね。でもだいぶ速くなってるわけです。文字が生まれて、インターネットが生まれるまでには4900年ぐらいなんですね。さらに速くなってるわけですね。文法は使えるけど、まだ概念は正しく使えない人が多い。

でも次回は、ビットの話になるわけです。ビットってどうやって生まれたの?誰が作ったの?どこで誰が開発したの?とか、そういうことが実は明らかになってないんです。でもおかげで僕たちはネット社会を生きてて、ユビキタス社会を生きている。そのときにどう使うかっていうと、前方誤り訂正という、もう死んじゃった科学者のやり残したこと、死んじゃった科学者が間違ったことを正して、僕たちは文明を毎日進めなくちゃいけない。そういうニーズがあるわけですね。

宿題は、ネット情報の信頼性を高めるにはどうすればいいか。検索エンジンを使うときの工夫。騙された経験。そしてネット情報の信頼性を高める部分で何やってますかって話ですね。どうもご清聴ありがとうございました。

質問タイム!

得丸久文:
何か質問ある方お願いいたします。

「意味」と「概念」は別物?

本州:
私は「意味」と「概念」っていう言葉を同じものだと認識して、今まで生きてきたんですけれども、さっき、言葉の意味は1対1。概念の意味は1対全っておっしゃってたと思うんですけど、ということは、「意味」と「概念」は別物と考えた方がいいですか?

得丸久文:
これはもう言葉の使い方なんですけども、実際には多くの人が「意味」と「概念」は同じように使ってます。だけど「概念」の意味は「意味の集合」。「意味の集合」を意味とするのが「概念」であるというふうに、1対全の論理で考えたほうがいい。「意味の集合意味とするのが概念である」としたが、科学的な概念を理解したり、あるいは昔の人が書いた本を読んだり、将来に向かって自分が本を書き残すときに、言葉を使う人が、概念の必要条件、つまり群の条件を満たしていることを確かめながら使う。つまり、言葉の集合に含まれていることを明確にする。上位概念は何で下位概念は何かをはっきりさせる。意味や定義をはっきりさせながら言葉を使った方が、誤解なく理解できるし、誤解なく伝えられる。

人類のひとりとして、人のものを読むにあたっても、人に書き残すにも、そう考えると間違えにくくなる。だから言葉を使うときには、それぐらい気をつけて概念は使わなければならないと、僕は提案してるわけです。

「初歩的な一般化」と「高次な一般化」って何?

本州:
もう1つ質問なんですけど、ヴィゴツキーの言葉の意味は発達するっていう点で、初歩的な一般化、高次なタイプの一般化で真の概念にたどり着くっていうのがあったんですけど、「初歩的な一般化」と「高次なタイプで一般化」っていうのは、何が違うんでしょうか?

得丸久文:
ヴィゴツキーは、ある意味、アナログな発想の人で、「初歩的な一般化」と「高次なタイプな一般化」の定義や説明をしていません。それらが違っていることは理解していたようですが、違いを詳細に説明してはいません。非常に若くして亡くなられた方であり、主著の『思考と言語』も亡くなった後に出版された本です。

『思考と言語』は今でも売ってるし、図書館にもあるんで読んでもらうのが一番良いと思います。結構厚いし時間もかかるんだけど、自分で読むのが一番いいと思うんです。ちょっとまずは図書館で、第6章だけ読んでもいいと思いますけど、読んでみて、ヴィゴツキーが漠然と思っていたことに思いを馳せ、可能であれば彼がやりのこした仕事を引き継いでいただくのが良いと思います。

本州:
はい、わかりました読みます。ありがとうございます。

「知らないものを勝手に想像してしまう」のは人間の特質?

mii:
概念を人に説明するのは難しいけど、先生がお話の中で「論文とかその過去の文明とかで出たものを勝手に解釈しない」っていうのを、「相手が使った意味っていうのを勝手に解釈しない」っていうことだったかなと思うので。意味っていうのは、相手の概念の中にあるものを表出した意味みたいなものを、それを正しく受け取るみたいなことだから、それで1対1のことを言ってたんかなっていうふうに自分としては思って。

なので私の中にこういう概念があって、相手の方にも概念があって、相手が概念の中から出した意味っていうのを、私がどういう意味かっていうのを受け取るみたいな。概念世界と概念世界の中の1対1なのかな?っていう感じを私は勝手に想像したなって、今。自分の想像できる範囲で勝手に解釈した。それも自分が今勝手に解釈したなっていうふうな、自覚した瞬間だったなっていう。

得丸久文:
そうですね。お互いのもっている概念がどう同じで、どう違うのかという対比ってのは大切だと思います。でもそれはなかなか大変だから、最初にその概念を使い始めた人が、ちゃんとした概念として使ってるかどうかっていうのを、後の世代の人が自分で確かめにいってあげるとよいと思います。ピアジェのように群を意識して。

mii:
なるほど。もう一つ気になったのが、人間の特質として、「知らないものを何か近いもので代替してしまう」っていうのがあるかなと思うんですけど。そういう癖があるから、それをもう取り外すのは難しいって思うから、もう本当に意識するしかないっていうレベルの話かなっていうふうに思って。自分はもう本当に「知った気にならない」っていうことを意識するまではできるかなっていうふうに思って。

得丸久文:
みんなそう。やっぱりね、あなたが言ったようにそういう癖があるわけね。自分なりに想像して作っていくっていう。でもそれってある程度必要なんだよ。料理なんか特にそうだけど、レシピ見て味がわかったらすごいよね。できる人もいる。

でも、それがやっぱり間違うことがあるから。見ると聞くは大違いとかね。やってみると違うみたいな。やってみないとわからないっていう。YMW。(Y)やって(M)みないと(W)わからない。

mii:
分かりました。ありがとうございます。面白かったです。

「語り手の解釈」と「受け取り手の解釈」の食い違いは、どう折り合いをつけるべき?

Meadow:
私文学部なんですけど、アメリカ文学をやってるんですけど、さっきアリスの話があって、すごい面白くて。「言葉の意味は語り手が決める」っていうところで、確かにそれはそうだなと思ったんですけど。
文学って、語り手が書いたときに、「明確にこれを語りたいから、こう書いた」ってのはあると思うんですよ。でも、それを受け取り手に発信したときに、受け取り手は受け取り手の感性でキャッチするじゃないですか。

そうなるともう、結構解釈の度合いが大きくなると思うし、本当に語り手が言いたかったことと、受け取り手が勝手に受けちゃった間に、ギャップがすごい生まれてしまうっていうのは、どう折り合いをつけたらいいのかなってすごい思ったんですけど。

得丸久文:
ちょっと質問の答えになってるかわかんないけど、意味論は実に難しい。だからみんなそれをやらない。しかし意味論は大事です。

僕らは基本的にアニマルだから。その辺の猫や犬と同じ哺乳類ですから。猿と同じだから。ただ、たまたま7万年前にデジタル化して、たくさんの言葉を持つようになった。5000年前に文字を作った。そういう中で、もうめちゃくちゃ複雑なことやってるわけですよ。

言葉の仕組みを理解して、みんな自分たちの力で、間違えないように、すくすくと正しく言葉を学ぶことがのぞましいです。そして人類の文明の、今現代を生きている以上、文明の中でまだみんながやってないこと、一番進んだ人に学んで、その人もできてないことをやっていくのが、人間としては一番面白いわけだから。そういう面白い人生、意味のある人生ね。そういうとこへね、自分たちを持っていく。それで仲間を増やしていくっていう。そういうことが求められているわけで。

だからこういうね、無名人インタビューなんかすごく面白いと思うから。いいことやってると思うんですよね。だから皆さんがこうやって聞いてきてくれることはすごい楽しいし、質問も良いし。こういう楽しみが一番いいよね。これが人間の楽しみですよ、やっぱり。

Meadow:
ありがとうございます。

生徒の感想

miiさん:安心して考えたことを表せた

意味と概念について、本で読んで考えたりしたことはあるのですが、言葉にしてアウトプットする機会が無かったので、みんなで概念についてのエピソードやそれぞれのもつ概念の概念を持ち寄って話して楽しかったです。また、どんな質問や感想を出しても得丸先生が受け止めてくださるので、安心して考えたことを表せたことも良かったです。
講義の部分では「意味が分からない時、勝手に解釈想像してはいけない」という所が心に残りました。私は分からないことを分からないまま曖昧に置いておきたくなくて、自分の解釈・想像で補おうとしてしまうので、自分の中にある人間の性について気付かされました。そして、得丸先生の講義内容を勝手に解釈しながら聞いている自分を改めてメタ認知するという所が、聞いた話を即体感していて、それも面白かったです。

Meadow :「鏡の国のアリス」のエピソードが印象に残りました。

講義初参加でしたがとても楽しかったです!ありがとうございました。
まだ学部の2年生の頃、大学の講義で村上春樹が「作家は小説を世に出す時、それをどう受け取るかを読者に委ねなければならない」というようなことを言ったと教わったのですが、それは一般大衆としての読者の話であって、研究対象として小説を据えると話はまた別なのではないかと思いました(好き勝手受け取るのではなく、書いてあることへの最大限の歩み寄りが求められるということです)。
得丸先生の講義の中では特に「鏡の国のアリス」のエピソードが印象に残りました。私は普段文学研究をしているためか「受け取り手には受け取り手の自由がある」という余白に少し甘えすぎていたのかもしれません。学問の基本は「あなたの正体はなんですか」と問い続けることだと痛感した高校時代を思い出す時が来たようです。改めて「学んで問う」のが学問の本質だと実感しました。

本州:『概念を理解する』

得丸先生、本日もとっても面白い講義をありがとうございました!
インタビュー、そして特別講義、合わせて今回が4回目になりました。毎回とっても楽しくて、次の講義も面白いこと間違いなしですが、私は今日の講義がその中でも特に好きです!アドレナリンが湧き出てくるのを感じましたし、鈴木孝夫さんの意味の定義、「ある音声の連続と結びついた、ある特定個人の経験や知識の総体」(『ことばと文化』より)を聞いた時には、頭の中のギアがひとつ上がったような、ゾーンに入ったかのような感覚になりました。

講義中「『概念を理解する』『一般性を理解する』ことって、一筋縄ではいかないし、本当に難しいことだな・・・」と唸っていましたが、私たちはみんなこれを子どもの頃にやっていたんですよね。すごい。見たもの・聞いたもの・触ったもの・嗅いだもの・味わったもの、そして実際に五官では感じなかった知識や知恵などを、ああでもない、こうでもないと吟味していたあの頃を、忘れてしまいがちなのかもしれません。そして、面倒くさいからと意味を勝手に解釈したり、勘違いをほったらかしにしてしまったり、そのくせ「ちゃんと分かっている」「主張を理解できた」「心が通じ合っている」「完璧に意思疎通できた」と思うことさえある・・・。でも実際は、この世の中は勘違いであふれている。

今こそ、「青リンゴはリンゴじゃない!」と主張し、スーパーで確かめた少女(=過去の私)を、心に住まわせるときなのだと思いました。分からないことをほったらかしにしようとすると、「スーパーに行ってリンゴを確かめてきなさい!」と喝を入れてくれるはずです。

講義後に:得丸先生から

概念とは何かを考えるときの参考にしてください。

(1) どういうものが概念でありうるか(ひろく世界を観察して、どういうものが概念として紹介されているか、使われているかを調査する。「ラーメンの概念を打ち破る」などの実際の用法も含めて吟味する) それぞれを提唱している学者の人物評価も同時に行う

(2) それぞれの概念の論理構造、つまり言葉記号と意味の関係を明確にする。論理化する。このときに、1対1(個別記憶)なのか、1対全(=集合)もはっきりとさせる。

(3) 言葉の生理メカニズム(どの細胞のどの分子がネットワークしているか。どこに記憶は蓄積されるか)を仮説化する。そして概念の生理メカニズムも仮説化する。

(4) どれを概念として採択すれば、人類の知能発展に役立つかを吟味し、評価し、最適なものを概念とする。

qbcのひとこと

意味論、実は身近なテーマで、理解は難しいものの、でも楽しいお話でしたね。

【編集:本州】

#無名人インタビュー #インタビュー #キリスト教 #言語 #言語学 #ノーベル賞 #人類学 #人類滅亡 #チョムスキー #デジタル言語学 #近代の超克 #西欧近代の誤謬

「に、聞いてみた」マガジンで過去インタビューも読めますよ!


いいなと思ったら応援しよう!

無名人インタビュー@12/1文学フリマR-04 (西3・4ホール)
いただいたサポートは無名人インタビューの活動に使用します!!