【海士町】海士町は私にとっては自信を育んでくれたところ。人
教科書通りにことが運ぶことはないんだが、さりとて教科書を知らないと標準を知らなくて、標準を知らないと時間がかかってしまって、かといって標準ばかりに頼っていると、いざ教科書にのっていない難問にぶちあたったときに立往生するという問題を、仮にqbcの独り舞台と呼ぼう。
qbcの独り舞台におちいると、人は悩む。どうしたらいいのかー。ってなる。そうして、誰かにその悩み、問題、課題、を話したくなる。話すと、いくばくか楽になる。楽になると、またその問題に向きなおって、さらに深い思考に進む。これは良いパターンだろう。
ただqbcの独り舞台問題の良くないパターンとして、問題についてきりきり考えているうち、考えるのに疲れて、別の教科書をさがして、買って、それで良しとして自分で考えなくなることだろう。げに人間のなまけぐせ、おそろしい。そもそも人間は、学ばなくても生きていくのが最高っていうふうにできているのだろうか。
難しい問題だ。
と思う2024年6月23日23時57分に書く無名人インタビュー800回目のまえがきでした!!!!!
【まえがき:qbc・栗林康弘(作家・無名人インタビュー主宰)】
今回ご参加いただいたのは 石橋直子 さんです!
年齢:30代後半
性別:女性
職業:教師で吟士
現在:結局、育児のフェーズに入っても、私は好きなことを手放せずにギュウギュウに詰め込んじゃってるんです
ナカザワアヤミ:
石橋さんは今何をされてる方ですか。
石橋直子:
基本的には島根県で高校の国語の教員をしているんですけど、今は育児休業中なので主として育児をしています。
ナカザワアヤミ:
ありがとうございます。
石橋さんが最近楽しいのはどんなことですか。
石橋直子:
育児も楽しくやってるんですけど、幼少期から詩吟をやっていて、詩吟で遠征をすることがあって、お稽古行くときもあれば大会で行くときもあるんですけれども、遠出するのがちょっと息抜きというか、楽しみになってますね。
ナカザワアヤミ:
今、育児休業中ということなんですけど詩吟の活動は継続されてるんですか。
石橋直子:
そうですね。教員なのでちょっと長めに育児休業を取ることができて。取らなくてもいいんですけど。今まもなく2歳になる子どもの育児をしながらやってるんですが、1歳になるちょっと前ぐらいに、詩吟を復活しまして。
仕事ほどがっつりやってるわけじゃないですし、お稽古も私が教えてる教場があったりとか、ちょっといろいろ復帰したいなって思うところがあったりして、オンラインも使いつつやってますね。
ナカザワアヤミ:
最近行った場所で印象に残っている場所とかありますか。
石橋直子:
詩吟だけしてるので、あんまり場所を見てはなかったりするんですけど、最近ちょっと面白いというか、島根県全部の道の駅で、道の駅のカードが売り出され始めて、まだ全然集まってないんですけど、ちょっとだけ手を出して、2枚集めたっていうのは楽しかったですね。
ナカザワアヤミ:
なるほど。遠出するときは、どういった気持ちですか。
石橋直子:
日常と違って遠くに行くっていう、そのことが楽しかったりして。お稽古とか目指すべき場所はあるんですけど、目的地そのものにすごく楽しみなものがあるっていうよりは、ちょっと列車でぼんやりしたりとか、運転を長距離するとか。
島根県って長いので、街の中を運転するよりもずっとまっすぐな道を二、三時間運転し続けるんですけど、ああいうのがちょっとぼんやりできていいですね。
ナカザワアヤミ:
どのくらいの頻度でそういった時間が取れるんですか。
石橋直子:
月に一、二回って感じです。
ナカザワアヤミ:
今の生活の中心になっているのはどういったことですか。
石橋直子:
うーん、育児って言うのもはばかられる感じですけど、子どもと遊んでる時間が中心ですね。今日もずっと滑り台を上るのを見守ってました。
もうすぐ2歳でチョロチョロしてる時期なんですけど、障子を破るのにハマってしまって。それで破られた障子を障子紙で貼り替えてもまた破られちゃうので、日めくりカレンダーで貼り直すとか。本棚から全部引っ張り出されちゃった本をしまうとか、何かそういうことが生活の大部分な気がします。
ナカザワアヤミ:
それに対してご自身ではどう思いますか。
石橋直子:
もうイタチごっこだなとか、時々余裕がないとイライラしちゃうのでよくないなって思ったりしてます。
ナカザワアヤミ:
子育てと言うのもはばかられるんですが、っていう枕詞があったんですけど、どうしてですか。
石橋直子:
育児ってほど育ててる実感もなく、遊んでるのか、追いかけてるのか、振り回されてるのかわかんない時間みたいな感じで。
子育てとか育児って言うのが私の日常とはちょっとしっくりこないというか、本当に振り回されるとか一緒に遊ぶとか、そういうのがハマるかなっていう気持ちで。人に伝えるときは育児とか子育てって言った方が伝わるので、そういう表現になるんですけど、これは果たして育児と呼べるものなんだろうかって思ってます。
ナカザワアヤミ:
なるほど。逆にご自身で能動的にやっているもの、活動とか趣味とかそういったことについては、いかがですか。
石橋直子:
大きく三つあって。結局、育児のフェーズに入っても、私は好きなことを手放せずにギュウギュウに詰め込んじゃってるんですけど。
さっきも少し触れた詩吟っていうのを幼少期からやっていて、それが一つと。
もう一つが元々私は本が好きで、職業は国語の教員なんですけど、文章を書くのが好きだったりして小説めいたものを書いてみたりとか、昔書いたものをあげたりとか。この3月からnoteを始めたんですけど、ちょっと過去作品を見返して直してみたりとか。文章を書くことが二つ目です。
で、もう1個は、今一番能動的にやってるって言ったらもしかしたらこれかもしれないんですけど、私、浦島伝説が好きなんですよ。浦島伝説の中でも、島根県の隠岐の方にちょっと変な話が残っていて、もともと調べてたんですけど、育休中を利用して本腰入れてやっていて。その三つを育児してない時間というか、子どもが寝てからを中心にすごいやってるなって感じですね。
ナカザワアヤミ:
それぞれ具体的にどんなことをやってるんですか。
石橋直子:
詩吟からお話しすると、私は準師範として指導もしてるんですけど、月1回は島根県の隠岐郡の海士町に対面稽古に行って、もう1回オンラインでお稽古をしていて、月2回程度お稽古をしています。
海士町は後鳥羽院が配流された場所なので、後鳥羽院の和歌を詩吟で楽しみたいっていうニーズがシニア層を中心にありまして。もちろん代表的なものは、流派の教本とかにも載ってるんですけど、載ってないものでもたくさん、配流になった後に生まれた歌があるので、そういったご当地和歌を歌いたいっていうニーズとか、それを島のいろんな行事で披露したいとか。
行事に合うようにミュージカルみたいに、ナレーションを入れて詩吟入れてナレーションを入れてっていう台本を書き下ろしてお稽古するんですね。2年前かな、後鳥羽院遷幸800年祭っていうのがあったんですけど。
そのころからいろんな行事があるときに私の会の人たちが出演するので、その都度ナレーションを書いたり、島内の毎年ある産業文化祭とか、そういう披露の場に向けて発表ができるように舞台を考えたりしてきました。
それを教える、お稽古するっていうのが中心ですね。それ以外に私自身が先生、私の先生に当たる人から指導を受けたり、大会に出て経験積んだりっていうことをしてます。まず詩吟ははそんな感じですね。
ナカザワアヤミ:
なるほど。
石橋直子:
そのまま続けて、文章の話とかしちゃって大丈夫ですか。なんか結構変なことを話してるような気もするんですけど
ナカザワアヤミ:
全然大丈夫です。お願いします。
石橋直子:
こちらは、昔書いたものを見直してnoteでアップするっていうのをやってみたいなと思ってたのでやってるんですけど、私が産休育休中とか、育児中に結構本を読むのが難しいというか、落ち着いて読めなくなったので、読み上げ機能とかも結構使うようになったんですね。Audibleとか音声コンテンツを使うようになったんですね。元々は耳から聞くってちょっと自分は抵抗というか、紙の本を持ちたいな、みたいに思ってたんですけど、使ってみたら思ったより良くって。
朗読も好きだったので、書いたものを朗読して、朗読コンテンツをYouTubeで作ってnoteにもリンク貼って、みたいなことやってます。本当にただの趣味なんですけど、もしかしたらこういう発信の方が読んでもらえるというか、届く層が増えるかもっていう淡い期待を持ってやっています。
ナカザワアヤミ:
今おっしゃってたのは育休に入ってからやり始めたんですか。
石橋直子:
そうですね。
今年が育休最後の年になるので、何かやっておきたいなと。また現場に戻ったら多分新しいことをプラスでやる余力がなさそうというか、もう一度現場に体を合わせるので手一杯になるかなとか、育児もしながら復帰してどうなのかなって思って、やりたいことはやりつくそうと思って始めてしまいました。
ナカザワアヤミ:
なるほど。もう一つ、浦島太郎も気になるんですけどお聞きできますか。
石橋直子:
これ聞いていただいてちょっと嬉しいですね。
あの、隠岐は有人離島、人が住んでる離島が4島あって、海士町は他の二島と合わせて三島まとめて島前っていうエリアになっているんですね。もう一つ、少し離れたところに最大の島、隠岐の島町というのがあって。その隠岐の島の北の方に浦島太郎っぽいけどラストが全然違う変な伝承が残っているんです。
主人公は源太夫さんっていう、浦島太郎にあたる人で、源太夫さんが助けた亀に連れられて、竜宮に行く。で、行くんだけど、望郷の念、帰りたいなっていう気持ちになって、浦島太郎と同じ展開で帰ってくるんですけど、玉手箱は出てこなくって、代わりに乙姫様は、おつきの 侍女に見送りをさせるんですよ。源太夫さんは乙姫と恋仲で別れを惜しみながら地上に戻るんですけれど、そのときに侍女と過ちを犯してしまうんですね。
ナカザワアヤミ:
ええ…。
石橋直子:
それで、乙姫はカンカンに怒って、侍女を竜宮から追放してしまったんです。侍女は竜宮に帰れないまま、姿も侍女じゃなくって別の姿に変えられてしまうんです。それがモタって言って、モタは隠岐の方言で、サメ、フカザメを表すらしいんですけど。モタに変えられてしまう。
モタがたくさんいる岩屋があるんですね。侍女たちは戻るところがないので、そのモタが岩屋と呼ばれているところで過ごしていたところ、漁師の恰好の漁場になってどんどん吊り上げられて、命を落としてしまう。
それを見た源太夫は自分の過ちを悔いて悔いて出家をしてお坊さん、法師になって、岩屋を見下ろすように手を合わせているうちに、真っ赤な石になりました、っていう伝承なんです。
ナカザワアヤミ:
うんうん。
石橋直子:
サメがいっぱいいる岩屋を見下ろすように真っ赤な石がそびえていて、その大きい赤い石の起源譚というか、こういう成り立ちでこの石はあるんですっていう伝承になってるんですね。これが白島の赤法印っていう伝承です。ただ、これは語る人によって、主人公の名前は浦島太郎だって聞いたよって言ってる人とか、浦島太郎が主人公で、侍女が姿を変えられたのは、メチだって語り継いでる人たちがいて。
モタはさっきお話したようにサメなんですけど、メチはアシカなんですよ。
ニホンアシカは最後の確認が取れたのが昭和で、もうほぼ絶滅状態だと思うんですけど、隠岐の島町の方にもいたらしくって。侍女はアシカになったんだっていうストーリーで語ってる話もあって、両方ともすごく興味深いし、前半が浦島なのになんでこんな結末なんだろうっていうそのストーリーそのものも面白いんです。
マニアックな話をすると、浦島って丹後国風土記に載っていて、で、続日本紀とかにも載るんですよ。日本書紀とか続日本紀とかは、古代の伝説がもうそのまま文字にされちゃっていて。
ナカザワアヤミ:
結構古いんですね。
石橋直子:
そうなんですよ、そうやって中央が編纂してるものに残されてたからだと思うんですけど、浦島伝説って地方によって変な話っていうのがないんですよ。
日本昔話を各地で収集したそのレファレンス資料みたいなのがあるんですけれど、浦島って大体玉手箱を開けて、年老いてしまうとか乙姫と別れちゃうとか、それが定番のストーリーなんですよね。
明治期には国定教科書にも載ってたので、変なストーリーというか、定番を外れた話がほとんどないと、少なくとも私は理解しているので、なんでこの話だけこんなちがうものになってるんだろうって思って、それをひたすら調べてます。
ナカザワアヤミ:
調べるっていうのは具体的にどうするんですか。
石橋直子:
フィールドワークというか、行ってお話を聞いたこともあります。子どもが生まれてからは1回しか行けてないんですけど、お話を聞くっていう活動と、あと、結構本気で論文書いたりとかしてて。それを私は発信したいなと思っていて。
地域の学会ですけど、山陰民俗学会っていう学会でちょっと発表したり。あと、県立大学で、市民研究員っていって研究したい地域の大人が関われる場所があるので、そういうところに持ち込めるようにいろいろ調べてまとめたりしているんです。
例えばこの話はいつ頃からだったら成立しうるんだろうか、源太夫っていう名前は日本史上いつから登場しているのかとか、中央で生まれるのと離島で生まれるのって多分タイムラグがある可能性があるので、隠岐とか離島で源太夫っていう名前が生まれるのはどの時代ぐらいからなんだろうかとか。
あと、源太夫は最後に出家したって語られてるんですけど、出家について言えば、人を弔うために出家をするっていうのは、時代でいうといつ頃からなんだろとか。自分が極楽往生したいから出家するのではなくって、誰かのために出家をするっていうのはいつごろからの概念なんだろうかとか、そういうことを調べています。
ナカザワアヤミ:
なんでこの研究をしてるんですか。その一番大きなきっかけはなんなんでしょう。
石橋直子:
なんなんでしょうね。私、元々、浦島伝説がよくわからないけど好きだったんですよ。それで、そもそも大学の卒論が浦島だったんですよね。
そのときは能の謡曲浦島っていうのを題材にしたんです。
浦島と乙姫がハッピーエンドになるエピソードがあるんですね。御伽草子ぐらいの時代から、浦島と乙姫は夫婦になって、玉手箱開けちゃうんだけど、結ばれるっていう結末があったとされていて。ハッピーエンドバージョンの浦島太郎ってなんで生まれて、逆になんで廃れたんだろうか、みたいなことを知りたいと思ったんですよね。
ナカザワアヤミ:
なるほどなるほど。
石橋直子:
元々人が語るものっていうのにすごい興味があるんですけど、人が語るものって、文字に書かれたものを追うよりその追いにくいというか、民衆が語ったものっていうのは、実際のところが見えにくいっていう部分があって。
能は芸事なので、流行り廃りが追いやすいんです。歴史的に、毎年、能楽諸家が流派ごとに公定謡本というのを幕府に提出していたとされているのです。今年はこれをやりますよ、という演目一覧のようなものですね。実際の演能記録を見ても、この公定謡本は演能実態を反映していたようです。なので、その曲の中に入っているかどうかで、民衆に受けたかどうかがある程度追えるのかなと思って。
この謡曲浦島が披露されていた年代から、その謡本から脱落するまでの年代を探るみたいな研究を大学時代にやってたんです。
それで、ある程度は、人より浦島に詳しいと自分で思っていたんですけど、隠岐で全然知らないのが出てきたので、これは私がやらなきゃと思って。やらなきゃっていうか、もうやりたい気持ちですね。
本当になんか好きなんですよね。なんで人がそれを語ったのかな、みたいなことにすごく興味があるんです。
ナカザワアヤミ:
なるほど、面白いですね。
ちょっと話変わるんですけど、ご自身では自分はどんな性格だなと思ってますか。
石橋直子:
私は、本当に軽い言葉ですけど、すごいオタク気質だなと思いますね。ハマったものは掘り尽くしたいみたいな、そういう感じですね。
自分が迫れるんだったら、迫りたい。さっきの詩吟にしても、やったからにはここまで頑張りたいとか。よく言えば手が抜けないみたいな感じになるんですけど、何事もはまったらすごい沼にどんどん行っちゃうタイプだと思います。
過去:正直なところ自分の感覚は信用できないので、たくさんの人を見た中でこの人って選んでもらった教員採用試験の方が、自信はないけどもしかしたら適性があるってことなのかもしれないし、やってみようと思って飛び込みました。
ナカザワアヤミ:
過去の話に遡っていきたいんですけど、石橋さんはどんな子どもでしたか。
石橋直子:
本が好きで、運動がすごく苦手で。
幼少期から過集中というか、ものすごい何かを見てるときに周りが見えないタイプの子どもだったと思います。思います、というか、親がそんなエピソードを言うので、そうなのかなと思ってます。
ナカザワアヤミ:
なるほど。生まれ育ったところはどんな場所でしたか。
石橋直子:
親が転勤族だったので、ちょこちょこ引っ越しがあったりはしたんですけど、基本的には島根県のちょっと田舎の、のどかなところで育ってました。
ナカザワアヤミ:
小学校や中学校の学校生活はどんな過ごし方でしたか。
石橋直子:
小学校4年生ぐらいまでは、ちょっと山あいの方で生活をしていて。学校が終わったら、近所のお兄さんお姉さんが遊んでくれるので、その中で、川の方を見に行ったりとか、自転車や一輪車の乗り方を教えてもらったりとか、田舎の子どものコミュニティって感じの中で育ってました。
その後引っ越して、小学5年生のときに転校するんですけど、転校後は友達もいたけど、ちょっとうまくいかないこともあって。
やっぱり思春期というか、小5から中学で環境が変わったっていうのでちょっとなじみにくかった部分もあって、何となく、そこまでと生活が変わったなっていう感覚を抱きながら、うまくいかないことも感じながら過ごしてたので、小5から中学時代はちょっと鬱々としていました。
ナカザワアヤミ:
環境は結構変わったんですか。
石橋直子:
そうですね。山あいよりは、開けた場所で、クラスの生徒数も1.5倍ぐらいに増えて、クラス数も1クラスしかなかったようなちっちゃい学校から、学年4~5クラスに、規模が変わって、雰囲気は結構変わりましたね。
ナカザワアヤミ:
鬱々とした、っておっしゃったんですけど、その期間はいつぐらいまで続いたんですか。
石橋直子:
やっぱり小学校5、6年生が一番変化もあり、変化にもついていけなかったし、友達関係もうまくいってると言えなくって。中学に上がったらまたちょっと規模が大きくなった分、新しく友達ができたりとかして、関係がリセットされて過ごしやすくなった部分もありましたけど、当時、中学校が結構荒れてて、あんまり心理的安全性がない時代でしたね。
なのでそこまでの5年間、ちょっと心がざわざわした期間がありましたね。
ナカザワアヤミ:
高校生からは変わったんですか。
石橋直子:
そうですね。高校は市外の高校に行って、県内でちょっと頑張ってる進学校だったので、中学とは雰囲気が変わって。
ナカザワアヤミ:
どうしてその高校に行こうと思ったんですか。
石橋直子:
実はそこまで深く考えてないというか、当時の考え方として勉強で勝負するならここだよ、みたいな感じのところがいくつかあって、そういう尺度で、あんまりそれで迷うとかはなくて、そこに受かるかどうかみたいな感じでした。
ナカザワアヤミ:
勉強はしたかったですか。
石橋直子:
そうですね。うん。勉強は好きでしたね。
ナカザワアヤミ:
うんうん。何が好きでしたか。
石橋直子:
国語と理科が好きでした。全体的に、新しいことを知ったりとか考えたりとかっていうのは好きだったので。中学のときは結構まんべんなく好きだったかな。得意不得意はもちろん多少はあるんですけど。
ナカザワアヤミ:
そこから高校の教員になられるっていうことだったんですけど、大学に進学されたんですかね。
石橋直子:
進学しました。文学部に行きました。
ナカザワアヤミ:
将来はそのころから決めていたんですか。
石橋直子:
いや、高校のときは、全然今と違う感じの進路を考えていて。
移動図書館やりたいなとか、元々海外協力隊みたいなこととかに興味があって。
学びたいけど学べないところに本を届けたりとか、学びたいけど学べないところに学びの場を作るみたいな。学びの場っていうか、本の面白さとかを届けるようなことがしたいなと思っていました。
ナカザワアヤミ:
なんでそう思ったんですか。
石橋直子:
ちゃんと覚えてないんですよね。
ただ、それを面談で言った記憶はあって。移動図書館がしたいんです、っていうのを私は言って。で、特に否定されることもなく、そういう気持ちはそのまま大事にしていいんじゃないって言われながら。逆に言えばすごい大きいきっかけがあってどうこうとか、それで親を説得したとかもないので、ちゃんと覚えてないんですよね。
途上国とかで学びの支援をしながら本も車に積んで、いろんなところに行けるというか、場所を構えずにこっちから会いに行けるような図書館がしたかったのかなと。
今ふと思い出したんですけど、幼少期に住んでたところの2軒隣が児童図書館だったんですよ。その児童図書館に当時もう使われなくなっていたバスが1台置いてあって。普通の路線バスでした。そのバスの中にも本があって、バスの中で、本が読めたんですね。すごい古いバスだったんですけど、動かないバスなので運転席もいじれるし、本も読める。それが楽しかったからそういう発想になったのかなと思いました。本が詰め込まれたバスが幼少期の居場所だったなっていうのを今思い出しました。
ナカザワアヤミ:
なるほど。そこから今のお仕事を選んだっていうのはどういった経緯だったんですか。
石橋直子:
もともと就活もしていて、まだ当時免許更新制とかもなかったと思うので、教員免許もとりあえず取っておこうっていう時代でもあったんですよね。
で、教員免許を取るために教育実習にも行くし、教育実習でお世話になった以上は、教員採用試験まで受けるのが礼儀だみたいな文化というか、そういうのがあって、採用試験も受けたんです。
当時、もちろん受けるからには受かるつもりで頑張ってやるんですけど、なかなか一発合格で教員になるっていう未来があまり思い描けない状態で。倍率とかも含めて。難しいんだろうなと思っていて、出版とかマスコミとかも興味があったのでそういうところと、学習塾、予備校と教員採用試験と大きく3本ぐらいで就活をしていました。
最後、民間の内定が1個2個みたいな感じだったんですね。そしたら、難しかろうと思ってた教員採用試験に受かったんですよ。
もちろんすごい対策もしたし、嬉しかったけど務まるのかな、みたいな不安があって。
就活に向けて自己分析はしたけれども、最後に選ぼうというときに、自分の適性って何なんだろうみたいなことをとっても考えてしまって。わからないなと思って。
すごく悩んだんですけど、面接試験のときに元担任の先生に相談に行ったりとか、教育実習先の先生方にお世話になったりとか、合格を掴み取るまでにお世話になった人の数や、あと当時は教員採用試験の方が倍率がやっぱり高かったっていうのもあって。
正直なところ自分の感覚は信用できないので、たくさんの人を見た中でこの人って選んでもらった教員採用試験の方が、自信はないけどもしかしたら適性があるってことなのかもしれないし、やってみようと思って飛び込みました。
ナカザワアヤミ:
実際になってみてどうでしたか。
石橋直子:
仕事そのものはいろんな出会いもありますし、いろんな生徒の姿も見られるし楽しいけど、思い描いてなかったこともすごくいっぱいあったりとかして、大変だなと思うこともあり、10年ぐらいやってようやく馴染んできた感じですね。
それでもやっぱり回らないときとか、何でもっとうまく仕事できないんだろうって思うことは産休で休む直前でもありましたし、やっぱり想定外のことがいっぱいあるんですけど、今はしっくりきてます。最初は、そうか教員ってこれもやるんだ、みたいな、そんなことの連続でした。
ナカザワアヤミ:
ありがとうございます。これまで、ご家族だったり、他の人との関係性だったりそういったところはいかがでしたか。
石橋直子:
なんだろうな、関係性で言うと、結構苦しいときとか。うまくいかないときとか、教員の仕事だけに限らず、就職してからいろいろあるときに、比較的うちは相談というか、話をする場があったかなっていう気はしてます。
父が教員なんですよ。
時々、意見がぶつかることもあるんですけど。でも、父も同じ道を歩いているからこそぶつかるし、よく理解できる部分もあるというか。父親が学級崩壊の時代に生徒に殴られて帰ってきたとかも私は見てたので、この仕事しんどいなって子ども心ながら思ってたのに同じ道に進んじゃったんですけど。
当時とはまたしんどさの質というか学校の現場のあり方も全然違うという前提はありつつ、なんとなくぼやきも聞いてもらったり、ちょっと休憩しに実家帰ったりとか。そこまで鬱々としてた社会人生活じゃないんですけど、やっぱりちょっと疲れたなっていうときは、帰ってましたね。特に何か大きな変化もなく、ずっとそういう感じでした。
実家には大学進学から一度も住まいとして戻ったことはなくて、勤務校の近くの教員住宅にずっと住んでいたんですけど、あんまり関係性は変わらず、時々帰ってお互い様子を見るみたいな感じでしたね。
未来:語られたものとか、誰かがちょっと心が動いて紡いだ物語みたいなものを、しゃかりきに楽しんで、何らかの形で届けようとする、みたいなことを5年後10年後もやっているんだろうなと思うし、やってたらいいなって思いますね。
ナカザワアヤミ:
そしたら最後に、未来、今後の話をお聞きしたいなと思うんですけど、石橋さんは将来5年後10年後を想像して未来についてはどういったイメージをお持ちですか。
石橋直子:
未来ですか。自分はあんまり、成長した方がいいかもしれないんですけど、人間としてはあんま変わらないのかなと。
ずっとこんな感じでやってきて、さっきの浦島の話にしても、詩吟の話にしても、好きなことはちょっとしんどいなってとこまでやり込んでしまうタイプなので。多分そこは変わらず詰め込んじゃうんだろうなと思うんですけど。
5年後10年後も多分そういう生活を重ねながら、語られたものとか、語り継がれたものへの関心っていうのがとても強い方だと思うので、それを自分が楽しむために何をやり込むかっていうのを考えてるんだろうなと思いますし、形が多少変容しても、詩吟とか、浦島の話を聞き取りに行くとかいうことも多分続けてると思うので、そういう、自分がやってることを通して、人が語ったものが、手を加えてっていうのかな、私が間に入ることで、ちょっとだけ発信に結びついたりすると嬉しいなっていうのを思っていて。
後鳥羽院の和歌を、ステージとか舞台あるところで詩吟として、歌として届けるとか、放っておいたら多分誰にもあんまり知られない変な浦島伝承を私が声を大にして突然語るとか。ちょっとそういうことばっかりやっちゃってるんですけど、ターゲットが多少変わっても、多分根底にある、語られたものとか、誰かがちょっと心が動いて紡いだ物語みたいなものを、しゃかりきに楽しんで、何らかの形で届けようとする、みたいなことを5年後10年後もやっているんだろうなと思うし、やってたらいいなって思いますね。
ナカザワアヤミ:
そういった形で残していきたいっていう原動力になっているのはどんな気持ちですか。
石橋直子:
なんですかね、語りは、ある面では、すごく面白い、躍動的なわくわくする気持ちがあるんですけど、実際人に聞きに行くときとかって、ちょっとノスタルジックな感じというか、なんていうか、郷愁、故郷みたいな。昔こたつで祖父母の語りを聞いたような感じ。そういうものも求めている気がしますね。そういう語りの持つ安らぎというか、包み込む力とか、ああいうもの。
原動力と安らぎって、対極っぽいんですけど、でもそれを求める気持ちは大きいのかなって思います。
ナカザワアヤミ:
ご自身で、わくわくとかノスタルジックを感じて語りを届けた先に、届いた人にはどう感じてほしいですか。
石橋直子:
届いた人には、届いた人に委ねるしかないかなっていう気がしているんですけど、その分あなたの感じ方で面白がってくださいというか。
なんですかね、私は語り部として語ってるわけではないので。私を介したとき、私が田舎で聞いたりとか地方でお話を伺ったりとか、あと後鳥羽院の和歌を書籍で読んだりとかしたときに感じたものとはちょっと違う形になってるかなと思うんです。
エンタメ感というか、国語の授業で古典を面白くプレゼンするみたいな感じと通じるところもあるのかなと思うんですけど、やっぱり私は伝わりやすくして発信しようっていう思いがあるので、それも含めて面白がってもらえたら嬉しいですし、受け止め方は発信したら相手に委ねて。でも、何らかの形で心が動いたら、何それ面白いとか、すごい変だねとか、そういう感じでもいいんですけど、何かちょっと届いたらいいなって感じですね。
ナカザワアヤミ:
うんうん。語られたものを残す面白さとか、それこそオタク気質ってご自身でもおっしゃってたんですけどそういうものの原点はどこだったんですかね。
石橋直子:
結構母もなんですけど、祖父や叔父も寝る前のお話を何も見ずに話をするタイプの人だったんですよ、読み聞かせじゃなくて。
お侍さんがたぬきを退治する話とか、ちょっと怖い怪談めいた話とか、自分が幼少期にあった幽霊っぽい話とか、親戚の誰それが亡くなる直前にこんな怖いことがあってとか、そういうのも含めて、語りっていうのが幼少期から身近にあったかなとは今思いました。もし何か原体験っぽいことがあるとしたら、そういうところかもしれないなと思います。それ以上に何か思い浮かぶものがあんまりなくて。あとは詩吟でシニア層が幼少期から周りに多くいる環境があって。
ちょっとこじつけかもしれないですけど、シニア層というか、おじいちゃんおばあちゃんの話を聞くのが好きな子どもだったんですよねずっと。
ナカザワアヤミ:
なるほど。ちょっと想像しづらいかもしれないんですが、そういう面白さに出会う機会がない家庭に生まれてたとしたら、今どうなっていたと思いますか。
石橋直子:
それがない自分って想像しにくいんですけど、もしもオタク気質だけは変わらず残ってたら、全然別のものにはまってたかもしれないですね。別の追っかけとかしてるかも。
私が今地域の高齢者の話を聞くために、遠出するっていうのが、全然違う遠出になってる可能性ありますよね。今ぱっと浮かばないですけど。
そこに動かされてなかったら、文章も書いてないかもしれないし、もしかしたら国語の教員じゃないかもしれない。もしかしたらっていうか、多分それがなかったら国語の教員じゃないんじゃないかなと思うので。結構丸ごと違いすぎて想像しにくいですね。
ナカザワアヤミ:
何かのオタクになっていたかもしれない。
石橋直子:
そうですね、そんな気がします。今は詩吟と文学と浦島とっていうのが本当に生活の中でメインなので、そこからお話したんですけど、何かにつけてオタク気質なので、そこだけは物語とか関係なく残っちゃうかなみたいな気がするんですよね。
ナカザワアヤミ:
なるほど。ぜひ論文ができたら読んでみたいなって思いました。
石橋直子:
嬉しいです。
ナカザワアヤミ:
ありがとうございます。石橋さんの方で最後にいい残したことをとか、何か付け足しでも話してなかったことでも、感想でも何でもいいんですけど、あればお願いします。
石橋直子:
そうですね。海士町の話の文脈で、私は人事異動で海士町に行ったことで、詩吟人生が変わったなと思っていて。それに対して、感謝の気持ちもあって。
海士のシニア層の人が愛好会立ち上げようよって言ってくださったんですね。
たまたま最初はワークショップをやってほしい、みたいな話だったのでワークショップ二回やって、それで終わりというか、自分の中では次のこととか考えてなかったんですが、参加者の方に愛好会やりましょうって言ってもらって。
人事異動でいなくなるかもしれない身なのに声をかけてくださって。当時、私の会の会員さんは平均年齢71歳だったんですよ。お元気な方は多いんですけどシニア層じゃないですか。だけど、私が異動した後、若い人の力を借りながらでも、オンラインだったら何とかならんか、とかそういうことに前のめりなメンバーなんです。
https://note.com/naoko_i_tale/n/n00044bddbb7d
私が所属してる流派って実は、私が持ってるところ以外、島根県に教場がないんですよ。伝統芸能は担い手不足というか、どこもそうだと思うんですけど、後継者不足で。
島根県にあったその流派の会がちょうどなくなったタイミングで、苦し紛れに愛好会を島根の松江の方で一つ持ってたんですけど、そのお話を隠岐でしたら、隠岐でも愛好会やりたい、先生が異動しても何とかなるかもしれない、そのときはそのときだから、みたいな感じで。
私は自信がない中で準師範の資格を使って活動し始めたときで、その時後押ししてくれたのが海士町のシニア層で。その人たちは今もう、面白いから「挑戦するお年寄り」っていうのを前面に出していこう、とすごい盛り上がっていて。できれば私じゃなくってその人たちのインタビューができたら絶対面白いなと思ってます。
だから、こんな不思議な経緯で後鳥羽院の和歌で詩吟をやってる愛好会が10人以上海士町にいるんですけど、そういう面白さを伝えたいなと思っていたんですね。
でも自分で参加したら、思った以上に、自分の根の部分というか。詩吟も根の部分ではあるんですが。オタク的にのめり込んでることについて話しすぎてしまって。こんなに話すつもりはなかったですし、こんなマニアックな浦島の話をして大丈夫だったかな、とも思います。でも、結論は面白かったです。いろんなこと思い出しました。
ナカザワアヤミ:
ありがとうございます。
ひとつ、聞くの忘れていて今聞いて思い出したんですけど、海士町の方にインタビューを積極的に受けていただいていて、石橋さんもそれをきっかけで今回参加していただいたので、さっきの話でも出てきたんですが石橋さんにとっては海士町っていうのはどういう場所ですか。
石橋直子:
そうですね。なんか、すごく挑戦しやすかったかなと。自分にとっては。やりましょうよとか、やってみようかって言ってくれる人がいて、本当に、みんな応援してくれるというか、応援じゃなくて新しい提案してくれるとか。すごく感謝してますね。
後鳥羽院の縁で詩吟関係が広がったことっていうのがすごい大きくって。隠岐神社、後鳥羽院への思い入れがたった3年間ですごい芽生えて。今もなんだかんだ月1回通ってるっていう変な結びつきがあって。
私にとっては、自信を育んでくれたところ、みたいな感じがあります。
うまくいかないこととかももちろんいろいろあったりするんですけど、やってみようよってみんな言ってくれるから実際やってみて、うまくいってもいかなくても、ある程度の安心感がちゃんと残るというか。踏み切り板っていうんですかね。整ってる感じがありますね。
ナカザワアヤミ:
皆さんそんな感じなんですね。シニアの方も含めて。
石橋直子:
シニアの方が元気ですね。
Iターンの人なんかは、求める生活とか志があって来られるので、元気なのもうなずけるなって感じですけど、それもすごく素敵だなと思っているんですけど、シニア層でも野心も勢いもある人がいて。たまたま私の周りに多いのかもしれないですけど、とにかく元気だなって。
ナカザワアヤミ:
そうなんですね。不思議な島ですね。
石橋直子:
そうですね、私は本当に思い入れもある島なので、今回大々的にというか、シリーズでまとめられているのが嬉しくて追ってるうちに、ちょっとやっぱり私も応募してみようかな、って思っちゃいました。シリーズがあるのも嬉しいし、ありがとうございます。
あとがき
「何かをやりたい」そういう欲求に直面したとき、「やる前提で障害となるのは何か」と考える人と、「こういう障害を乗り越えたらやれる」と考える人がいることに最近気づきました。
その違いはけっこう大きくて、自己の欲求に対する出発点がそもそも違う。
人間、けっこう好きなこととかやりたいことって色々あるし、正直一貫性がないことも多いと思うんですよね。
私も恐竜の化石とクリムトの絵が大好きなんですけど、別に共通点とかないし、なんとなく好きなだけだし。
でも、恐竜の化石とクリムトの絵の愛し方については一貫性が出てくるような気もするんです。
何か好きなこと、やりたいことに対して「なぜ?」と聞くのもいいですが、好きなものに対してどういった行動を取るのかの方に本質が宿るのかもしれない。
そんなことを考えた石橋さんインタビューでした。
浦島太郎の論文は完成したらぜひ読みたいところです。
【インタビュー・編集・あとがき:ナカザワ】
#無名人インタビュー #インタビュー #一度は行きたいあの場所 #この街がすき #離島 #詩吟 #海士町 #教師 #浦島太郎