高齢者福祉は税金の無駄だ。でも家族にはどんな制度を使ってでも生きていてほしい
「高齢者福祉の充実より、若者世代への支援を充実させてほしい。」
そんな声をよく目にする。
選挙じゃなくても目にする。
「認知症の進行を遅らせる300万の薬よりも、若者の生活の安定や出生率向上のための取り組みを優先すべきだろ」
「どうせ長生きしない高齢者に税金をかけすぎだ」
その通りだなと思う私がいる。
若者が日々の様々なものを犠牲にして得た給与の多くを税金として国に治めているのに、その多くが高齢者に使われているように感じて、自分たちの生活に還元されていないように感じるのは不公平だなと思う。
ひどいかもしれないが、老い先短い命よりもこれからの命にもっと資本を注いでほしいと少なからず思ってしまう。
もっと平たく言えば、「高齢者介護福祉、そんなに充実させる意味ある?」
もっとひどいことを言えば、「どうせ老人は死ぬんだから、高度な医療を提供してまで生かす必要ある?」
社会全体を見ると、そんなことを思ってしまう。
でも、もっと小さな視点だと、高齢者介護福祉制度に万歳だと思う私がいる。
それは透析治療やその他もろもろの治療を受けながら介護付き老人ホームに入居している祖父とあった時だ。
例外なく祖父も高齢者介護福祉制度や高額医療費の補助制度の恩恵にあずかっている。それらの制度がなかったら、お金という壁にぶつかって祖父は今日を生きることが出来ていなかったのではないかと思うくらい、制度に助けられていると思う。
私は祖父のことが大好きだから祖父にはずっと生きていてほしい。祖父が生きていくために必要な制度は積極的に使うべきだと思うし、それが税金の無駄遣いだとは思わない。
我ながら矛盾していると思う。
社会全体の中の高齢者という枠組みは、いわば税金泥棒かのような目で見ているくせに、家族の中の高齢者に対しては公的支援を使い倒してでも生きていてほしいと願ってしまう。
どちらの私の考えも嘘ではない。
家族だから特別扱いしている。でも特別扱いするのが家族だとも思う。
もしも。
祖父の医療や介護に関わるお金の10%を私が負担しろと言われたら、私はそれを払うことを嫌だと言うだろうか。
自分の生活、自分の将来を考えたら、支払えないかもしれない。
でも、これまで一緒に過ごした時間を思ったら支払えるかもしれない。
支払えないのに生きていてほしいと願うのはエゴなのかもしれないと思って支払うかもしれない。
支払えない変わりに残された時間を一緒に大切に過ごそうとするのもエゴなのかもしれない。
わからない。
でも、頭ごなしに全否定はしないだろう。
でも、私は今、祖父を含めた大勢の高齢者のために、自分の給料の数%を国に納めていることがなぜだか納得ができない。
祖父に生きていてほしいと願うのなら、
その他大勢の高齢者の命も同じように生きてほしいと願っていなければならないのだ。そのための資金を提供しているのだ。
きっと、もう少し時がたって、自分の親が介護を必要としたときにも、同じことを考えるのだろう。
自分の家族は大事に思うから支援が欲しいのに、その他大勢の高齢者には優しさを向けられない。
きっと私だけじゃなくて、多くの人間がそんなジレンマを抱えていると思う。いや、抱えていてほしいと思う。
だって私だけがわがままな悪者にはなりたくないから。
そしてもう一つ。
祖父や自分の親兄弟には長生きをしてほしくて、いざその時が来たら支援制度をたくさん利用しようと思うのに、
私自身はそれらの恩恵にあずかるくらいなら、自分で負担できるだけの医療や介護ができなくなったところで人生を終わらせたい思っている。
人様のお金で生かされてまで生きていたくないと思う。
その時に、人様のお金を使ってでも生きていてほしいと思ってくれる家族が周りにいてほしいとも思う。
矛盾している。
多くのことが矛盾していて、考え始めたらキリがない。
考え方はたくさんあって悪いものではないのかもしれないが、私は私の中にあるたくさんの考え方に振り回されるのにちょっとだけ疲れてしまった。