映画『ひらいて』感想
久しぶりにネトフリで映画を観て、思うことがあったから備忘録としてかきます。
観た勢いで書いているので読みにくい文章です。
ネタバレも含むので要注意です。
映画の紹介とあらすじはこちらです。
ネトフリで観れるので、思った感想だけをつらつらと観終わった直後のテンションで書きます。
まず前提として職業柄、学校が舞台の作品に対しては現実とのギャップに違和感を感じて集中が切れます。また、今の私の精神状態で高校を思い起こす内容はあまり良いとはいえない中で観たために、本来とは違う穿った見方をしているかもしれません。
『ひらいて』は自分が特別で人と違っていたい、特別な何者かでありたいと思う高校生(思春期)ならではの精神が根底にあるのだと思います。
ダンスの練習中に抜け出して、校舎裏で低血糖で倒れた美雪と、それを発見し救助のためにジュースを口移しする愛。
美雪には中学生の頃から付き合っているたとえがいて、
愛には片想いしているたとえがいて、
愛に好意を寄せる多田がいて、
そんな多田に好意を寄せるミカがいる。
愛の家庭は単身赴任の父親と料理上手な母親が仲睦まじく、愛自身も勉強もソツなくこなし、実行委員もやる、いわゆる“平凡で良くできた子”
そんな愛からしたら美雪は1型糖尿病を持ち、教室でインスリンを打ったことをきっかけに孤立しがちになり、隠れてインスリンを打つようになった、“病気と健気に戦う主人公”
たとえは特定の誰かとつるむことなく、難関大学合格に向けて勉強を頑張る“優等生”であり、父子家庭という“ほかの人と違う環境”で生きている人
愛はたとえのことが好きで、好きで、好きなのに、美雪とたとえは付き合ってることを隠していて、キスすらしていないことを知る。
愛には何もない。それぞれ病気や父子家庭という“特別”を持った2人のくせに、たとえの独特な雰囲気の良さは自分だけが知ってる特権だと思ったのに自分より先に美雪が気付いていて、2人は健気に純粋に純愛を貫いている。きっとそれが愛は面白くない。気にくわない。
私も特別な“何か”が欲しい。
愛にとっての“何か”はたとえであり、“純愛を貫く美雪とたとえの間に割って入ってたとえを美雪から奪うこと”で特別になりたかったのだと思う。
自分のほしい物のためなら手段は選ばない。
純粋で一途で友達も少ない美雪を自分のものにするのは簡単なこと。だから美雪のファーストキスを簡単に奪うことができた。キスよりももっと先の快楽も、愛は美雪への愛情ではなく、“何か”を手にするための手段として美雪に与えた。
それでもたとえは愛のことを見ない。
たとえにとって愛はただのクラスメイトであり、それ以上でもそれ以下でもなく、たとえのなかに占める愛の存在など0.1%にも満たないのだろう。
だから愛は気に食わない。
加えて、自分への好意を寄せていたはずの多田がミカと共にラブホテルに入っていくところを見てさらに、“自分は持っていないものをほかの人は持っている”ことを思い知らされていく。
自分には何もない。複雑な家庭も、一心不乱に勉強してまで逃げ出したい環境も、日々命懸けな病気も、好きな相手とラブホテルに入っていくことも。何もない。悔しい。だから見てほしい。私を見てほしい。白紙提出して、授業飛び出して、指導からも逃げ出して、これまでずっと“平凡な良い子”として放置され続けた私を見てほしい。
高校生(思春期)には誰もが何かになりたがるのだと思う。
自分は特別な存在で、ほかの人とは違っていて、それが苦労話でも、幸せでも、不幸でも、なんでも良いからほかの人と違う自分でいたいという欲求が高い時期なのだと思う。
“ほかの人とは違う自分”が愛には見つからなくて、それでもどこかに見つけたくて、だから“ほかの人とは違う自分”を持っている美雪にキスよりももっと先の快楽まで教えたのだと思う。
でも、それを美雪は拒まない、たとえは顔色ひとつ変えない。
愛が手にしたかった“ほかの人とは違う自分”は周りからしたらどうでも良くて、歯牙にもかけてもらえない。
何も持っていない自分。誰にも愛されない自分。特別になれない自分。略奪愛すら流される自分。
愛は必死だったのだと思う。
なんでも良いから“特別なもの”が欲しくて、だから白紙提出もするし授業も飛び出す。
自分という輪郭の中になんでも良いから“特別”が欲しくて、その欲求が彼女を自暴自棄にさせる。
たとえに流され、ついには美雪にも見抜かれた、愛の具体性のない自己承認欲求の塊は、どこまでもどこまでも行き場を探して彷徨い続けている。
でも、現実世界で考えた時に、一番普通で多数派なのは愛だ。
一番真っ当に思春期の心の揺れに振り回されて、思い悩んで、未来の自分が呆れるくらいの無謀さを、高校生だからという理由だけでやってのける。
好きな人を奪うために女の子が女の子を襲うことも、きっと愛の未来では苦笑いで終わるただの思春期のワンシーンに過ぎないのかもしれない。でも、最後のセリフ『また一緒に寝ようね』が、ただの思春期の、いっときの感情で求めた“特別”だけではないということも思わせてきた。
高校生だから“人とは違う自分”を求める。
社会人になったら“みんなと歩幅を合わせて歩ける自分”が必要になる。
大学生はその中間にいて、だから大学生はモラトリアムの期間だと言われる。
映画の世界で、それぞれの卒業後は書かれていない。だからここからは自由に考えて良いことだと思う。
もし、たとえが父親の元から逃げることに成功し、難関大学に入ったなら、彼はきっと“人とは違う自分”であった高校生時代(=父親の呪縛)から逃れることが軸となるモラトリアムの期間を過ごすだろう。
もし、美雪がたとえを追いかけて東京に行ったら、行ったとしても、美雪が持っている特別(=1型糖尿病)は変わらずに存在し続け、中学生の時に決意した‘誰かのために生きる’ことを続けるのだろう。彼女にとって1型糖尿病は特別でもなんでもないものであるのだから。だからこそ‘誰かのために生きること’という彼女の価値観は、たとえと離れることになったとしても、彼女はきっとほかの誰かを見つけてまた、‘誰かのために生きる’を続けるのだろう。
もし、愛に…。いや、愛には‘もし’はないのかもしれない。彼女はいつまでもいつまでも“ほかの誰かとは違う特別な自分”になりたくて、手に入れたくて、どんな環境になったとしても、“特別”を求め続けるのだと思う。“特別”に執着し続けること自体が“特別なこと”であることに気づかずに。
全ての時間はやがて思い出へと変わり、全てが懐かしい笑い話になるだろう。それでも愛は美雪にもたとえにも言われた
『自分のことしか考えていないから目が暗い、反省していない』
という言葉の棘を、その傷の痛みを永遠に感じ続けるのだと思う。
愛とたとえの唯一の接点であり、平和の象徴でもある折り鶴の桜の木を蹴飛ばして壊しても、その痛みは消えることはないのだろうし、その痛みが消えない限り、愛はずっと“特別”を求め続けると思う。
ごちゃごちゃと書いて、自分でも思考がまとまらないのですが、つまり何が言いたいのかというと、
・この映画は高校生が持つ“特別な人でありたい”という欲求をどこまでもリアルに描いている
・“特別な人である”ことに固執して、“特別な人である”ことに気づけなくなっている高校生の描写がリアルである
・自分が抱えるものを特別と思うか、思わないか、それだけの違いで、幸せというものへの執着も全く変わってくる
そんな映画だったように思いました。
それから、タイトルの『ひらいて』
これは作中に出てくる折り紙にも、手紙にも掛かっているが、一番は“愛自身が自分の心をひらいて、そうすることで特別じゃない自分が特別であることに気が付けるんだ”というメッセージのような気が、勝手にしました。
原作も読んでみようと思います。