地元を離れて気づいたこと
大学進学を機に上京したのはもう6年前になる。
都内の大学に合格し生まれ育った地元を離れることに、特別な感情はなかった。2つ上の姉も東京の大学に通っていたこと、数年前に他界した曾祖母の家が大学から通える場所にあること、曾祖母の家はファミリー向けの団地であることなどの理由から、上京すると言っても姉の住んでいる家に引っ越すだけで、不動産巡りや家具の新調などは一切なかった。これまで母と弟と暮らしていたのが姉と暮らすようになっただけで、特別感のない上京であった。荷物も小ぶりのスーツケース2つ程度だったと思う。
高校を卒業するまで地元に特別な愛着はなかった。田舎過ぎるわけでもなく、都会的でもなく、有名なファストフード店はそれなりにあるし、自転車で行ける範囲にコンビニもあった。駅前にはカラオケも数店舗あったし、ゲーセンも充実していた。電車の本数も15分に1本くらいはあったと思う。不便だと思うことは無かった。でも、時々東京に遊びに行くと羨ましいと思うことは何度もあった。
私の上京を語るうえで絶対に外すことができないエピソードがある。それがScale Laboratory(以下スケラボ)だ。
スケラボは静岡県東部を中心に様々な芸術活動の場を展開している団体である。当時高校生であった私はスケラボの様々な活動を高校生価格で鑑賞させてもらっていた。正直に言ってしまえば演劇以外の芸術にさほど興味はなく、何となくきれいだなと思う程度であったが、大人たちが真剣かつ自由に感想を言い合う空間が好きで何度も足を運んだ。
上京する3日前、演劇を通して知り合った知人からスケラボが主催するランドフェスを紹介してもらった。
ランドフェスがどのような催しだったのかを詳細に語ることは難しいのだが、簡単に言えば、地元の駅前商店街(かなりさびれてシャッターが閉まっている店舗も多い)を、楽器の生演奏と主に踊り歩いていくという芸術だった。
これまで入ったこともない商店街の暗くひっそりとしたカフェの中や、雑居ビルの中にダンサーを追いかけるようにして入っていくと、そこには昭和レトロという言葉を体現したような空間が広がっていて、私たち観客は思い思いの場所に立ったり座ったりして、ジャズなのかモダンなのかよくわからないが心地の良い音楽の生演奏を聴きながらダンサーの踊りに夢中になった。
中でも最も印象に残っているのは、ほぼ廃墟のようなビルの屋上に行った時のことだ。駅からまっすぐ伸びる半ばさびれた大通りを見下ろしながら、自由に楽しそうに舞う姿を見たときに、「何もない街だからこそ、なんでもできるんだ」と強く思った。
それからすぐに上京した。
東京での生活は刺激的だった。待たなくても良い電車。忘れ物をしてもすぐに購入できる手軽さ。SNSで見た流行りのグルメも簡単に手に入って、なんと便利な世界なんだろうと思った。明るい髪の毛のおしゃれな若者に憧れて髪を染めた。ピアスも開けた。電車に乗れば最先端のおしゃれが簡単に共有できて、まるで自分が日本で一番輝いているんじゃないかと思った。
納涼船に乗ってナンパもされた。大学のグループワークで一緒になった男の子に連絡先を聞かれた。駅前で待ち合わせをしているときに見知らぬ人にお茶に誘われた。
地元にいたら絶対にできない経験だった。
この場所にいるだけで、私は流行にのった可愛い女の子でいられるのだと思った。
バイトも始めた。姉が働いている飲食店にした。大学終わりの夜遅くのシフトがほとんどだったから、お客さんは疲れ切ったサラリーマンで、心配になるくらい酒を飲んでいた。入店したときには疲れ切って不愛想だった客が、会計の時には酔って気が大きくなったのか高圧的な態度になることもあった。
東京で生活していくにはお金が必要だった。地元では絶対に食べられない最新グルメを食べるには、地元には売っていないデパートのコスメを買うには、みんなが持っている最新のデジタル機器を買うには、飲食店のバイトだけでは不十分だった。
2つ目のバイトとして家庭教師を始めた。
社会科の教職課程をとっていること、高校までは理系であったこと、それなりに名前の通った大学であったことなどから、多くの家庭から依頼が来た。そしてその生徒のほとんどが高級住宅街に住む富裕層で過保護な母親の下で、学校に馴染めずに不登校になっていた。話をしてみればよくしゃべるしよく笑うし、勉強もできないわけではない。学校に行けない理由を深く聞くことは無かったが、どうやら人間関係に悩みを抱えていたり、両親との関係に不満があったりするようだった。
それでも部屋の中には中学生が持つには少々値が張るコスメや、ブランドの洋服、最新のヘアアイロンなどが無造作に置かれていて東京らしさを感じた。
彼女たちは物凄く満たされた環境にいて、それでもなおうまくいかない生活に葛藤を抱え、必死に生きているのだと実感したバイトであった。
大学では公共空間の在り方についてグループ研究を行った。公園が地域の人にとってどのような役割を果たしているのかが主題であった。
田舎育ちの私にとって公園とはどこにでもあるもので、小学生がドッチボールをしたり、シロツメクサで華冠を作ったり、老人がゲートボールをしたり、ブランコに座ってポケモンの対戦をしたりするものであった。都会の公園は厳重に管理された芝生や、併設されたカフェ、キッチンカーなど子どもが自由に遊ぶ場所というよりはむしろ、都会のオアシスとして機能している側面があるようだった。
何か一つ活動をするにも公園の管理者に許可を得て、そして多くの場合それが断られてしまう。
地元とは大違いだと感じた。
就活を視野に入れ始める段階で、私はこのまま東京に残ることに疑問を感じた。
間違いなく東京の生活は便利だ。欲しいものがすぐに手に入ること、仕事も無限にあって、人との出会いも多いだろう。友人の多くが東京に残るし、大学で築いた人間関係は大切なものだ。
しかし、ここまで満たされた環境にいてもなお、私は幸せなのだろうかと思ったのである。
バイト終わりの深夜2時でも街は十分に明るくて、高層ビルに遮られて空がものすごく狭く感じ、もちろん星は見えない。そういえば地元にいたときは学校帰りに自転車に乗りながらオリオン座を見ていた。東京に来てから星を見なくなった。星なんかよりももっとまぶしいものに目を奪われていた。
東京には何でもある。欲しいものを見つけるのも容易い。でも簡単に手に入るがゆえに、手放すことへの躊躇もなくなってしまっているように感じる。本当に欲しいものは苦労して手に入れたから大切にできるのであって、苦労する過程がなかったら簡単に忘れられてしまうのだと気付いた。
このまま東京にいたら、私は何か大切なものを失ってしまうかもしれないと思った。便利なことになれること、それが当たり前だと思ってしまうこと、そんな日々がこれから何十年も続いていったら、当たり前にあるものに甘えて、自分から何かをすることができなくなってしまう。たくさんの人がいるために細かく決められたルールに縛られて、新しい発想で自由に生きていくことができなくなってしまう。
「何もない街だからこそ、なんでもできるんだ」
上京する3日前の言葉が不意に蘇ってきた。
地元は人がどんどん少なくなっていく。みんな東京に行ってしまう。便利を求めて出ていってしまう。
そんな街だからこそ、自由な発想で新しいことを始められるかもしれない。
やってみたいと思ったことを、少ない制約の中で自由にできるかもしれない。
欲しいものが簡単に手に入らないからこそ、手に入れたものを大切にできるし、手に入らないものを自分で作り出すことができるかもしれない。
そう思って、地元での就職を決意した。
久しぶりに帰ってきた地元は空が広かった。
夜道は暗くて少し怖くて、でも空を見上げたらオリオン座がくっきり見えて、それだけで私には十分だと思った。
地元を好きになったのは、大学4年間の東京での生活があったからだ。あの4年間がなかったら、私は何もない地元に嫌気がさしていたことは言うまでもない。戻ってきたいと思える地元で幼少期を過ごすことができたことを今は誇りに思っている。
今は休職中だが、地元から少しだけ離れた場所で教師をやっている。
今の勤務校の生徒のほとんどが卒業後は自宅から通える専門学校や地元企業に就職するため、私のように東京に出ていくことはほとんどない。
彼らが地元に対してどの程度の愛着を持っているのかはわからない。ただ、地元を離れることで気づくことができることは間違いなくあって、たとえそれが東京ではなく全く別の地方だったとしても、地元と比べることは大切な経験になると思っている。
地元を離れることは彼らの決断だけでどうにかなることではない。家庭環境、特に金銭的な負担を考えると地元を離れることは容易ではない。ただそれでも、10代の感受性が豊かで人生の選択肢が無限にあるうちに、地元を離れるという経験をしてほしいと願っている。
もちろん、地元を離れたことで、地元のことが嫌になって帰ってこなくなることもあるだろう。新しい土地で新しい出会いをして人生を進めていくこともあるだろう。それはとても尊いことで素敵な人生の送り方になると思う。
上京すること、当たり前の環境から離れること、それがいかに人生にとって大きな影響を与えるかを伝えられる先生に私はなりたい。
そのためにも、地元を離れた4年間は本当に大切な時間だった。