【小説】弥勒奇譚 第二十九話
弥勒の中にはこのまま仏師を続けて行っても良いのかどうかと言う迷いが急に頭をもたげて来ていた。
今までは仏師を続けることなど疑ったこともない当たり前のことだし、ましてや師匠にも絶賛されるほどの仏像を彫ることが出来たと言うのにである。
弥勒自身は仏師としての才能は全く凡庸で、今回造った薬師如来は普賢の導きにより出来た実力以上の
仏像であることは痛いほどよく分かっていた。
この薬師如来像を超えるどころかもう一度同じように彫れと言われても出来る自信は無かった。
それより夢で見たこの地で暮らしたい気持ちが大きくなるのだった。
夜も明け弥勒は厨子の扉を封印する神事に出るため
龍穴社に下って行った。
式はあっけないほど簡単に終り、名残を惜しむ間もなく厨子の扉は閉じられ重々しく鍵が掛けられた。
自分の造った薬師如来像とも二度と会うことは出来なくなった。
あっけない別れであった。
不空はすでに帰り支度を整えて社務所で不動と話をしていた。
「弥勒よ、わしはこれで帰るがお前はどうする」
「師匠、そのことで相談したいことがあるのですが」
不空は怪訝な顔をして弥勒を見た。
「実は、私は京には戻らずここに残りたいのですが」
「ここに残る。いつまでだ」
「いえその、仏師をやめてここで暮らそうと思うのです」
弥勒は振り絞るように言った。膝が震えるのを感じた。
不空の顔色がさっと変わるのが弥勒にも分かった。
「なんだと。仏師をやめるだと。なにを馬鹿なことを言い出すのだ。第一ここで何をするつもりなのだ」
「不動殿にはまだお願いしていませんが、龍穴社で不動殿の手伝いをしながら暮らしたいと思います」
「そんなことを許すわけにはいかん。あれほどの仏を彫ったのではないか。お前の仏師としての本領発揮はまさにこれからではないか。京に戻ったら重要な仕事もやってもらおうと思っているのだぞ」
いつになく声を荒げる不空の怒りは治まりそうもなかった。
「何を言い出すかと思えば。また夢のお告げでもあったと言うのか」
「いえ、そうではありません。自身の才能や腕はよく分かっています。
今回の仕事は私の実力ではありません。また同じように彫れる自信はないのです」
「分かった。意思は固そうだが一度京に戻りなさい。それからまた良く考えて決めてからでも遅くはあるまい」
「本当に申し訳ありません一度京に帰ったら恐らく
ここには戻ってこられないと思います」
不空は溜め息をつきながらしばらく俯いていたが
ふと顔を上げて弥勒を見た。
「どうしてもここに残りたいと言うのだな」
「はい,ここで龍穴社と本地仏を守って暮らしたいと思います」
「そこまで言うのなら致し方ない。ここに残ることは許そう。但し条件がある」
「え、本当によろしいのですか」
「条件は仏師を続けることだ。ここでも出来る仕事を廻すから仏師を続けなさい。これからはもっと仕事が増えてきて人手が足りなくなるのもそうだが、やはり今回の薬師如来像を見たからにはこのまま仏師を辞めさせる訳には行かないのだ」