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熊楠さんからお手紙ついたよ



柳田国男との往復書簡、1911年。明治晩期
のちに良好な関係が決裂したのではなかったろうか?
その片鱗をすでにうかがわせており、興味深かった。

エコロジーの先駆者的な捉えられかたで、その文脈での評伝や引用でのみ知る南方熊楠。合祀問題の時代背景、時代の空気感、思想のせめて一側面でも知りたく、
多くの同時代の知識人との最大のちがいと思われた「キリスト教」の捉え方も知りたく抜粋してみる事に。


なお当時の歴史的背景を尊重しつつも、やはり「差別的言説」今日的スタンダードに合わせ相当量「言い換え」ております。それでも気になってしかたないかたは、ぜひ読まずにスルーでご了承ください。

ニワトリ、菊の改良も放置すると復原してしまう。

自然は優良種同士で自ずから「品種改良」を行わないという意味か。人間に有益な形質とトレードオフで繁殖力や生命力に瑕疵が現れでて淘汰されてしまいがち、とか?

小生ほどの愛国心の者はいない。

その頃海外留学組で帰国するや家の宗旨を変え「大いに後来の日本人の迷惑となり」それでいながら、今も威張っている博士老輩でキリスト教に媚びて 本邦の悪口、陸軍軍人に決闘を申し込まれ慌てて陳謝、見苦しき知識人が多かった。が小生は違うと。

キリスト教の真義を知らんと「ヘブリウ語」も学んだ。

米国時代、英国時代通して一貫して礼拝堂に足を踏み入れなかった。
ためにどこの大学にも入れず。
(農業系大学に入っている評伝もあり。わからない。信徒兄弟会のような互助組織のバックアップを得られなかったか、入学要項にブッディズムやアニミズムは不可とあった、とか?)

熊楠の基本姿勢に権威づけのための理論武装が先にあるわけではなく。知には必ず誤りがあり、ボタンのかけ間違いがあった場合遡るため、また後世の検証と訂正に堪える前提で出典を厳密に付記している。
(為に長い・泣)「巨人の肩の上の一矮人」の矜持。アカデミズムを標榜すると一周回って在野に行き着く?

「辞書のほうが間違っている。なおしておきたまえ」

癇癪持ちのパーソナリティで思い浮かぶ東の知の極限…熊楠なら加えて即座に典拠まで示せることだろう。事実書簡はすべてその調子なのだから。答申とはいえ長い。でもこの人の場合脱線がむしろ面白い気もする。お上品な柳田先生の渋面が目に浮かぶようで図書館で笑いを堪えるのに苦労した。
とかくこの世は住みにくそうである。



チェンバレンの新聞紙上の談話

「日本人は上帝を拝むるを知らず、故に戦闘に命を惜しまず」(日露戦争のことか?いわゆる黄禍論プロパガンダの一種)

19世紀末から遡る200年ほど前に英国を訪れたイタリア人に英人は新教プロテスタントのゆえに日夜麦酒を飲む所以むやみに(戦闘か?)強いが、生命を惜しまぬ点が(蛮勇のことか自◯行為に等しいの意味か)旧教を知らぬ者の惜しさと酷評されている。

オムズルマン(スーダンの都市、英領
領有を決定した戦闘)で鹿砦と短刀のみで数倍の英騎兵の銃火を向こうに不退転の奮闘を見せた回教徒も同じく熱心に上帝を奉じている。はい論破。

紙上でチェンバレンに反駁を企てるも日本領事館に阻まれて断念、云々...



アサ科エノキ。わたくしはニレ科と記憶していました。APG以前の知識って事か?