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「愛の夢とか」の、はなし。#47
#30「推しを書き写す」で書いたとおり、川上未映子さんの短編集『愛の夢とか』の書き写しを8ヶ月ほど続けていた。“新たな日課を背負う”と偉そうなことを言っていたが、とても毎日は実践できず、3日に1度、私自身が弱っているときには1週間に1度と、さらにペースを落としていた。
しかし、日課としてクリアすることよりも、途中で辞めないことを優先しながら、なんとかこの1冊分は書き上げようと思い直し、今日、ついにそのゴールまで到達することができた。
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最終章は「十三月怪談」というタイトルで、若くして病死した女性と、そのパートナーの男性との物語だった。死後の世界を漂いながら、「自分が死んだ後の世界」で、「自分がいなくなった後のパートナーを見守る」という設定で、読んでいても苦しかったし、こればっかりは書くのを断念しようかと思ったほどだったが、1冊書き上げるという目標に後押しされながら、なんとか全文を手書きで追いきることができた。
苦しい物語ほど、この手書きの作業は億劫に感じられ、実生活で辛いことが重なったときには、どうしても自分の手元が落ち着かなくなる感覚があり、字が乱暴に見えてしまうこともあった。書き写しという習慣はつくづく、わたしの心の具合をわかりやすく表すものだと思った。
普段はタイピングでしか文章と向き合わないので、手書きで文字を書くことすらも新鮮になっていた。学生時代は全て手書きでノートをとり、暗記ものは何度も繰り返し手で書きながら頭にたたき込んでいたのに、いつの間にかその習慣は無くなっていたようだ。
わたしの字って、こんなにカクカクしてたっけ?カタカナのバランス取るのって、すごい苦手だ。「皺」なんて漢字、これまでの人生で書いたことあったっけ?
手書き文字と向き合ってみると、社会人になって以来忘れていた感覚が蘇ってきて、日々わたしに纏わるちいさな発見もあって、それがおもしろかった。
(書いたルーズリーフはXに写真付きで投稿していた。毎回、そのとき思ったことも一言添えてポストしていたが、これがまた見返してみると、気持ちが荒ぶってる時はちゃんとわたしの一言も荒ぶっていて笑えた。)
けれど、書き写しをやっていて一番うれしかったのは、好きな作家の文章をなぞって、その日本語の使い方に、読む以上のやり方で触れられたことだと思う。
川上さんのやわらかい文章は、漢字とひらがなの絶妙なバランスを保ちながら、引っ掛かりのないわかりやすい言葉で、唯一無二の表現を生み出している。設定もいたって日常的で、登場人物の苦しみや対人関係においてもどかしく思う気持ちが、その場の情景描写からひしひしと伝わってくる。
言葉にしないと分からないことと、行間から伝わることをしっかりと著者が掌握していて、読者はその流れに気持ちよく乗れる感じ。
日本語の奥ゆかしさを存分に生かしながらも、共感できるポイントをグサグサ刺してくる感じが、書くことによってより深く伝わったし、その技術に改めて驚嘆させられた。それなのに、技術を技術として驕らない、やさしい文体も魅力的だ。
また、目で見ながら書き写していくと、時々「てにをは」を誤って書き取ってしまうことがあった。一文字が変わるくらいではそのままの意味を持ててしまうのも、日本語の不思議だと思う。
けれど「わたしが書く」と「わたしは書く」では、同じ女性の動作でも、心持ちがだいぶちがうように感じられるし、そこに登場人物の心の機微が反映されて、物語のなかのキャラクターを印象付けているのも興味深い。それは、全文をこの手で書いたからこそ気がつける感覚だった。
ひとまず無事に短編集を1冊書き上げたので、来年は、「エッセイ」の書き写しに挑戦してみたい。もう一度、川上さんの作品をなぞるのか、別の方の文章を体験してみるのか。今からワクワクしながら考えてみる。
来年もこの書き写しから、わたしの素敵な発見がありますように。