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あなたに世界を滅ぼしてほしかった。 -アルゴナビス、無期限活動休止によせて-

第四の壁をぶち破って、今すぐこんな世界どうにかしてくれないだろうか。

正直、ゲームの終了に関しては覚悟はしていた。

いつもイベントとガチャではガチャのほうが期間が長いのに、今回は同時終了だった。
OSアップデート時の注意を伝えるお知らせ文の、わずかな違和感。
イベントSRカードのスキルに「フィナーレ!」が入っていたことにまで怯えてしまったが、さすがにそれはこじつけの域だろう。
そう思いつつ頭から振り払っていた。

次回イベントの告知がなく、代わりにいつもと時間が違うメンテナンスが告知された時点から―ゆっくり心の準備を進めていた。年末にはCDが出ると聞いている。きっとボイスドラマなどの展開に戻るのだろうと。

けれど、無期限活動休止のお知らせにまでは、とてもじゃないけど耐えられなかった。

正直なところまだ現実を信じられなくて、嘘だよね?と思っていて、でも言葉だけが脳から溢れてくる。
心の整理のために、書こうと思う。


7000字のとても長い文章になってしまったから、文意が伝わってほしく要約を用意した。
時間があるときに読んで、私の気持ちを聞いてくれると嬉しい。

  • アルゴナビスは現代の世知辛さと戦うための、かけがえのない心の支えだった。

  • そんなコンテンツ自体が商業的な世知辛さに敗れ、活動休止に追い込まれてしまった悲しさ、悔しさ。

  • 休止という形で希望を残してくれたことへの感謝。「諦める運命じゃない」んでしょう。いつか絶対目覚めてもらうからね。


優しく寄り添うコンテンツの魅力

過去記事の気に入っている一節から再掲するが、「from ARGONAVISは、楽曲、リアルライブ、ストーリーすべてで「音楽最高大好き!」を味わせてくれるコンテンツである。

歌唱力に優れたキャストを揃え、UNISON SQUARE GARDENやシド、FLOWなどから強力な楽曲提供を受けていた。
そして、「キャラクターが現実にいて、現実にライブに行ったらこうなんだろうな」という生演奏やパフォーマンスを魅せてくれる、すてきなキャストやサポートメンバー陣。一部バンドは声を担当するキャストがそのまま楽器を演奏して、MCもアンコール前まではキャラそのままで。


キャストそのまま演技も生演奏もする2.5次元舞台までやった。


楽曲とライブの質ならどこのコンテンツにだって負けていない!

嬉しい、楽しいだけでなく。 悲しい、悔しい、苦しい、足掻き、―全部壊したい という飾らない感情を表現してくれるアルゴナビスの楽曲群に、私の心は惹かれた。
自責でとことん底に沈んでいく気持ちや、ときに他責他害的な鬱屈でさえ、否定はせずに抱擁してくれる。感情の快晴も凪も月夜も大嵐も受け止めてくれる曲が揃っている。
実際休職しかけていたときの通勤時にArgonavisを、午後の会議がすごく怖い昼休みにGYROAXIAを、よく聞いていた。

心が晴れるまで無理に励まさず待っていてくれる、現実的な苦しみを知っている人の優しさ

自分に負けてんじゃねェよ、と思い切り背中を蹴ってくれるような克己心

 酸いも甘いも噛み分けた大人だから描ける夢想

思い切り腕を引っ張って外に連れ出してくれるような太陽のあたたかさ

すべて見下すような嘲笑、激しい憎悪や狂気のなかに見える脆さや儚さ

大きな挫折を前に、たったふたりきりの味方と再起を誓う楽曲。

正負ともども、いろんな心情に寄り添ってくれて嬉しかった。特に、負の感情。のちの章でも語るが、狂気性や憎悪について歌唱キャラクターコンテンツで深く描いてくれて嬉しかったし、他にはあまりない魅力だったと思う。

現代日本に生きるものの夢と現実 

アルゴナビスは、現代日本で主に"家族"や"挫折"などの世知辛い問題を音楽と仲間と共に乗り越えていくストーリーだ。

兄を亡くした心理的ショックから立ち直れず、愛用の楽器に「兄」を投影していたり。

人の感情がわからないために、時に鳩の羽をもぐような恐ろしい行動に出たり。

そんな重苦しいテーマも中にはあった。

また、親兄弟との確執、離婚、家の借金苦。 現代日本において、宝くじよりはありふれてぶち当たる不幸。それらについても克明に描いていた。

―現代日本の不幸で苦しむ彼らは、もしかしたらあったかもしれない私の姿だった。 私の事情について深く話す気はないが、里塚賢汰や的場航海、烏丸玲司にほんの少しだけシンパシーを抱くような経験があったことを記しておく。

現代日本で起こりうる傷つきや痛みを、音楽と仲間の力を借りて少しでも癒していく。
だから、少しでも前向きに足掻く物語に共感し同調していたから―
現実のコンテンツが「世知辛さ」に敗れてしまったように感じられて、私にとってはより絶望的だったのだと思う。

音楽活動の夢と世知辛さ

バンドで一旗揚げるんだ!という夢と、現実の世知辛さ。それはフィクション世界であっても切っても切り離せない。

友達の多いキャラが口約束で客を集めても、結局初ライブに来てくれたのはほぼ0人。

長期フェスやそれに伴う金銭的支援が中止となり、レコード会社を招待して売り込みライブを敢行するも、どこからも声がかからない。

30代付近のキャラで構成されたFantôme Iris(ファントムイリス)が体現する、兼業バンドマンの夢と―いったいいつまで夢を追いかけ続けるのか?という苦悩。

画像右、当時医療系システムエンジニア職だったキャラクター

全バンドがプロデビューして職場環境も調整され、目下の悩みが解消されたキミステであっても、
実家を継ぐべきかとか、周りが就活をはじめ、音楽の道を進む決意を固めたはずだが―とか、世知辛い話をやっていた。

実家が歯科医院で歯学部に通うキャラクター

けれど、「作中では」捨てる神もいれば拾う神もいた。

レコード会社のマネージャーが、担当している新進気鋭のバンドに刺激を与えるために主人公バンドを引き上げる。

中学生のときに頼りにしていた大人が、レコード会社の社長となっていて、窮地に声をかけてくれる。

辿り着いた今日が望んでた色じゃなくても それを綺麗だと思う人がちゃんと見てる」まさにこの歌詞が当てはまるだろう。作中世界では。

見ていた。見ていたよ。渋谷公会堂での"七星蓮"が、この一節を歌って「こんなにいる!」って嬉しそうにしてくれたのが嬉しかった。この言葉に報いなきゃと思ってた。あなたたちを綺麗だと思って見ていたはずなのに。

書いているうちに横道にそれてしまったが、でもあのときのそれは、作中や現実の世知辛さなんかには到底邪魔できない輝きだった。

無理やり話を着地させると――夢を追う。挫折する。溺れかけたところを助けられる。挫折したけれどまた始めてみる。

 夢を追うことの喜びと苦しみを、アルゴナビスは作中と現実両方で教えてくれたのかもしれない。

εpsilonΦの過激で安全なカタルシス

 アルゴナビスに登場するバンド、εpsilonΦ(イプシロンファイ)。程度の差はあれ他人を傷つけかねない棘を持つ中高大生が集った、ヒールバンド。

彼らは自分のうちにある―満員電車やスクランブル交差点を疎むようなささやかな攻撃性―それを安全に発散する手段のひとつだった。

 親兄弟との関係性のせい、またはうまれつき歪んでいる彼らの狂気や加虐や悲鳴に酔いしれて、けれど主人公バンドたちの強さや光のほうが勝つのを尊ぶ。 
そして、そこらへんの大人なんて死屍累々にできそうなほどお金と才能と権力を併せ持つ子供の彼らは、「父親」の前に敗北して― 

そういった光の尊さや力強さ、闇の退廃的な魅力。倫理道徳のせめぎ合いに心を踊らせていた。

なので、正直、困ってしまう。

そんな変なすがり方をするなと言われたらそれまでだが、私の、フィクション上での精神的加虐や恐怖や鬱屈に惹かれる気持ちは、世界がめちゃくちゃに崩壊するところを夢想してほくそえむ心は、今後どう適切にコントロールしていけばいいか?冷静に考えなおす必要がある。

現実にはやってはいけない。実現してはいけない。普段は強く自制しているからこそ、フィクション内で発揮される加虐や破壊衝動に強く惹かれてしまう。
現実の息苦しさ、抑圧された感情。それらを解き放つためには、(私には)フィクション世界での「破壊」が必要だった。

もう今すぐ「馬鹿げた世界の自由なんかバラバラに」してくれないだろうか。もうεpsilonΦの残酷さじゃなきゃ満たせないのに! 

―そんな当然不可能だとわかっていることを、安全に発散させてくれる。彼らは危険な鎮静剤であると同時に、かけがえのない救いでもあった。
この鎮静剤が切れても大丈夫なように、今後の私は荒ぶる内面と向き合う必要がある。

アルゴナビスと「父殺し」

アルゴナビスは、現代日本が舞台の誰も死なない音楽ものである。だから「父殺し」ではなく「父超え」というのが正しいか。  少年漫画やキッズ向けホビーアニメでもよくよく扱われるテーマだ。

作中には、父親に呪われているキャラクターが非常に多かった。 

Argonavisのギタリスト、五稜結人。
明るく朗らかな、まさに好青年。けれど彼は厳格な名家でずっと心を縛られてきた。彼の父親について、キミステでの衝撃的な展開(市議会議員でありながら逮捕)が記憶に新しい。

GYROAXIAのボーカリスト、旭那由多とその偉大なる父親の因縁については、劇場版アニメ「AXIA」で克明に、重く痛々しく描かれている。けれどいつか打破してやるんだ、という希望も垣間見えた。

Fantôme Irisのフェリクスについても、
天衣無縫だけれども大人の魅力も合わせ持つ、安心感のある態度の裏で―死んだ父の奇行、支配的な幻影に囚われつづけていたことがキミステで明らかになった。

εpsilonΦの宇治川紫夕もそうだ。父母に愛されず放置されていたけど、それでもいつか愛してもらえると信じて無邪気に待ち続けたこども。けれど、無慈悲にも父親は彼を見放した。

ST//RAYRIDEの淀川麟太郎も、「龍介が自分のすべて」と思うほどに両親との確執があったことを窺わせている。

殺してほしかった!超えてほしかった! 解放されてほしかった!ずっと、呪縛でもがき続ける彼らを見ていた。いつか逃れ、乗り越える姿が見たかった。

けれど、収益性の現実の前に、活動期限の前に、彼らの葛藤を描くキャンバスはどうしても変化し、余白は限られていく。まるで、彼らの抵抗手段までもがそうなっていくようで。

芸術性と商業性の狭間で揺れ動くコンテンツ制作。作品を生み出す側と、それを統括する側。その間には、まるで親子のような複雑な関係性が存在するように見えることがある。キャラクターたちが物語の中で「父」との葛藤に苦しむように、コンテンツ自体もさまざまな制約―巨大な父性、商業主義に縛られているのだと思い知らされる。

それはまあごもっともなんだけど

きっと、「これからも抗い戦い続ける」などの形で、ストーリーに一区切りはつく。そう期待している。しかしやはり、制作陣が当初考えていた道筋を辿った形で―キャラが呪縛を断ち切る姿を見たいと願う。

感情移入の功績と離脱症状

健気に不幸を乗り越えんとする青年たち。εpsilonΦの過激で安全なカタルシス。 
どれも日常をもう少しだけ頑張ってみよう、と思わせてくれるビタミン剤や鎮静剤のようなものだった。

私はすがりすぎてしまったのか。没入しすぎたのか。だからこんなに泣いているのだろうか。いい大人のくせにフィクションにのめりこんでバカみたいだ、と笑ってくれてかまわない。 でも、心の支えになってくれたのは紛れもなく事実だ。彼らのもがく過程を、評価したい。礎にしていきたい。

冷静と熱狂のあいだで

私は2作目のゲーム「キミステ」を評価していた。 評価していなければ、ゲームシステムについて考察し仕様をまとめたりなどしない。
実際、社会人女性層のことを考えたアイデア(1プレイの思い切った短縮、要素の取捨選択)や爽やかなUI。ほぼすべてのゲーム内要素にどこからでもアクセスできるハンバーガーメニューなどが特に気に入っていた。

イベントページへのリンクもあり便利だった

前作での不満の一部(容量、UI)が解消され、音ゲーでなくなった部分や開発会社変更によるシナリオやイラストの変化、コスト感に目をつぶって既存ファンで細く長く支えれば、 きっと”僕の日々にいつもいて”くれると錯覚していた。 

けれど、私の褒め言葉の枕詞には―たぶん、いつもこうあった。「低予算だろうわりには」「1作目の開発会社ではなく、別の会社が懸命に引き継いで作っているわりには」 。
ファン内では通用するかもしれない。けれど、外を見れば潤沢に予算が掛けられた魅力的なソシャゲたちが競合相手だ。 サブゲーとしてだって、もっとほかのゲームが選ばれる。

ファンの中でさえ、2回目のゲームの受け止め方はさまざまだった。
やはりどうしても、前作と比較してしまうところがある。
(しょうがないよな)と思いながら、懸命に再現してくれている魅力、2作目の開発会社だからこそ出る魅力を楽しむものの、1回目のゲームを長く支えられたら、違った形があったのだろうか…という思いはあった。

しかし1回目のゲームはあまりに巨額の開発運営費を必要とし、採算ラインははるか雲の上だった。2回目はコストをかなり削減し、長期生存に特化しているように見えた。けれど、その企みを現実にすることはできなかった。

カネがないと改善される余地がなくなるが、失望してしまったもの、期待できないものにカネを投入するなんて酔狂、難しい。わかっている。けれど、せめてログインを続けるとか、別の購買に回すとか―「模範的消費者像」を他者に押し付けてしまいそうになって、何度あわてて口をつぐんだか。

数値的金銭的な支持が得られなければコンテンツの未来や可能性は狭まってしまうという面にも、消費者側はある程度目を向けなければならないと思う。けれど大富豪でもないかぎり、1個人の数字や金や努力はさほどプラスにはならない。

運営型キャラコンテンツやソシャゲに限らず、アイドルやVtuberや連載漫画などエンタメコンテンツビジネスというもの自体、なぜこんなにも理不尽な構造をしているのだろう。

私は、1作目ゲームの時代から課金だけでなく布教やwiki編集などにものめりこんでいた。しかし熱意や労力を傾けるほどに、無力感に苛まれていく。
アクティブを見たらきっとたちまち病むから、イベントページは1度プロデュースしたら見に行かなかったし、フェスも(画面遷移したら順位が見えてしまうから)ウィークリー分だけ消化する形だった。

ゲーム性がうまく伝わってほしくて攻略wikiの初心者向け記事に力を入れたが、役立っている実感はなかった。自分のSNSフォロワーたちにさえゲーム部分の(自分が思う)おもしろさを上手く伝えることができなかった。2作連続で、誕生日ガチャが開催されなかった推しがいる。季節イベントや誕生日カードとともに当日ワクワクしながら聞くはずだった、キャラの限定ボイスの数々。もう本当に金銭的限界を迎えてしまったのだ、と感じさせるゲーム終了までの日程や施策。

私にもっと何かできたのではないか、という思いは消えない。たとえばYoutube攻略動画の制作には手を出していなかったから。体系的な広告宣伝の知識もないままあがいていたから。そもそも私の技能が拙かったのもあると思う。何もかも逆効果だったのかもしれない。けれどたぶん、これ以上は限界だった。

世間の反応への(勝手な)悲しみ 

「なんでこんなにいいコンテンツなのに、世間的な評価が追いついていないんだろう」 アルゴナビスより遥か前、オタクとしての物心ついた時からずっと、好きな作品たちについてそう思っていた。

Vtuber界隈を見ていてもそうだが、才能があっても必ずしも日の目を浴びるとは限らない。私は大好きだけど広く人気を博す要素とは逆を行っているよな、と思うものだってある。作品の質と人気は比例しないし、その「質」はファンの贔屓目な評価でしかない。

それでも、それでも悔しい。おかしい。悔しい。

本格的に展開していくさなかにコロナ禍にぶち当たり、音楽の届け方をそれはもう必死に模索していたコンテンツだった。1回目のゲームが終了しても、まだ終われやしないと足掻き続けたコンテンツだった。今回の件だって、完全な停止ではなくて再起の可能性を残した「休止」なのだ。

お願いだからもうすこし報われてほしい。

毎回毎回、ゲーム終了のニュースがいちばん世間に注目される。ファンコミュニティの1歩外を出たら「私たちの宝物」の経営的な面に話題が集まり、魅力や成果について語る人は少ない。 そして数日経てばそのニュースさえ忘れられる。 仕方ないが、虚しい。

私たちファンにとっては宝物でも、その魅力が広く認知されるには至らなかった。そうだ、この世のすべてに関心を向けるなんて芸当、誰にもできない。

それでも、混迷を極める私の心配なんかより何より、作品に触れてくれたほうがずっと嬉しいのに。YouTube動画ひとつ再生するだけでいい。
だって、これから目覚める保証のない眠りにつくのだ。もちろん叩き起こすつもりだけれど、そのまえに、伝えたいことが叫びたいことが本当にたくさんあるのに!


最後に

ぞんぶんに見れたか 唯臣

2025年までは一緒にいてくれる。ゆっくりと時間をかけて、誠実な壮行会を開催してくれる。
ミニアルバムも各バンドのリアルライブも、用意してくれる。キャラクターのぬいぐるみだってもうすぐ発売される。


率直に言うと、アルゴナビスのない2026年をどう過ごせばいいか分からない。コロッと別の楽しみを見つけているかもしれないし、まだまだ現実を受け入れられていないかもしれない。

完全終了ではなく無期限の休止という形で希望を残してくれた。夢や未来を見せてくれる心遣いが本当に嬉しい。
けれど1度停止するものが再び動き出すには、どれだけの困難を乗り越えなければならないか。―冷静な頭では考えてしまう。

けれど。報われないかもしれない、世間にはわかってもらえないかもしれないけれど、得たものはたくさんあった!

いろんな景色を見せてくれた。いろんな新しいことにチャレンジできた。世界で1番お米食べてるのはバングラデシュ!アルゴナビスと過ごして、ひとつでも多い記憶を抱きしめさせてもらえた。そばにいてくれた日々は、アルゴ船座のようにきらめいていた!

「こんなはずじゃなかった」って自分で自分を見限るのはちょっとまだやめられそうにないけど、頑張って元気を取り戻すつもりだ。

ありがとう。
行かないでよ。
いつまで寝てるつもりなんだ。
絶対に叩き起こしてやるからな。
2026年が来るのが怖いよ。

でも、そばにいてくれて本当にありがとう。