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配信『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』 補足

この配信の補足です。

参考文献に『心霊スポット考』を記載していたが、語れなくて消した話

さて、この本を紹介して触れたかったのは現代とスピリチュアリズムの接点。
配信内でも「現代では社会(予測不能な世界)から離れ、”私”に閉じこもる傾向がある」と話した。

以上は『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』側の視点だが、この部分を読んで思い出したのが宗教史やスピリチュアリズムの流行を研究した本の指摘である。
結論から言えば宗教からノイズ、予測不能性等を抜いたのが「スピリチュアル」で、そのために現代で人気なのだろう。宗教と違って。

上記の「なぜ現代でスピリチュアルが流行るのか」、言い換えれば「なぜ宗教が不人気なのか」は宗教学の本でしばしば話題に上る。
とはいえ根が宗教の価値を疑わない視点からすれば「怪しいスピリチュアルではなく、正しい宗教を人々は頼るべきだ」のようなパッしない結論に落ち着くことが多く、なによりなぜスピリチュアルが流行るのか、その理由に踏み込めていないことが多い。

そこでまず『心霊スポット考』である。
この本は民俗学の本だが、「心霊スポット」というあやふやなものを取り扱っている。それこそ「あやふやな心霊スポット」と「確かな伝説」のように、スピリチュアルと宗教と同じような対立が確認できる。
さて、では心霊スポットはどのようにあやふやかと言うとそこが本当に心霊スポットかが重視されないという指摘が興味深い。

たとえばだが、霊験あらたかな神社なり寺が「どこかの寺/神社」では具合が悪い。どこかの寺社だと指定されていないと伝説として不自然だ。
他方、心霊スポットは場所の限定を避ける。「誰かが自殺した場所らしい」のように具体的でない情報が広がり、マニアの間でさえ複数の場所が「その心霊スポット」と噂される……というのが心霊スポットとしてよくある形であるという。
特に、本当の殺人現場が心霊スポットとなることがないという指摘は非常に重要だ。心霊というのならテレビで殺人事件を聞いて、その現場に行けばいい。しかし、それは普通心霊スポットと呼ばれない。

以上のことから心霊スポットは
1.実際の殺人現場は避けられる(確定した情報は避けられる)
2.その言及も場所を詳細に指定するのではなく、むしろ心霊スポットを探すところから心霊スポットめぐりが始まる
3.そのため、「心霊スポット」に行っても心霊体験をするとは限らない。なぜなら、そこが本当の心霊スポットかわからない。次に、霊がいるかもわからない。
4.以上の事実から、心霊スポットは「霊がいるかもしれない」という状況を楽しむ場であり、確実に霊がいたり、犠牲者がいることはむしろ邪魔になる

これが『心霊スポット考』の考察の一部である。
さて、心霊スポットの傾向はよくわかった。
だがなぜ人々はわざわざ確かでもない情報を楽しむのか、この点は疑問のままだった。
しかしこれが「ノイズ」を避けるためだとすると大いに納得できる。

ここで言うノイズとは「仕事のノイズ」という意味だ。
現代人の余暇とは「休み明けに仕事をするための余暇」であり、余暇自体は目的ではない。体力を回復する行為であり、職場の雑談の種なのである。
この観点でいえば、心霊スポットは理想的に運用されている。
もし「殺人現場に行きました!」と職場で言われたらどうすればいいのだろう。なぜって、そこには被害者が必ず存在するのだ。軽く話せるものではない。
同じように本当に曰く付きの場所に行かれるのも迷惑だ。せいぜいの所、”曰く付きかもしれない”場所で満足してくれないだろうか。
心霊スポットはこうした都合の良い存在として形作られたように思う。

宗教とスピリチュアルにも同じことが言える。
「キリスト教に改宗しました」は軽く触れられる話題ではない。
だが、「パワーストーンを買いました」「パワースポットに行きました」ならいくらか軽くなる。なぜって、心霊スポットと同じように本当かどうかわからないから。

宗教学が注目するのは宗教の確からしさだ。
キリスト教はおおよそ2000年前、オリジナルの仏教も釈迦を起点とするなら2500年前、鎌倉仏教を起点としても1000年の歴史がある。
聖書を読んだり仏典を読めばその教えに触れることができる…… つまり、アレンジできる要素はない。

先ほどの心霊スポットのように「霊が出る場所……かもしれない」が現代で求められる距離感なのである。
キリスト教にせよ仏教にせよ、それがあるかないかはだいたい明確だ。
占いは信用できるか? 信用してはいけない。旧約聖書で神が禁じている。
殺生はしていいか? いいや、仏陀が禁じている……

人々はたまたま今日運が良い程度のことを求めている。
一生を背負おうと意気込むキリスト教や仏教が「重い」というのはある意味で正しい。それゆえ、人々は「その日限りの宗教」としてスピリチュアルを消費し始めた。

たとえばこういう本はどうだろう。
「この本は脳科学の知見を取り込み、脳の活動を促進する法則を紹介する」
この文章は一応問題ない。
しかしこうした脳科学を語る多くのビジネス書がすぐ「行動は”運気を呼び込む”」と語り始めるのが実に面白いではないか!
人々はその日限りの幸福を求める。”確固たる伝承はいらない。もしかしたら幸福になれる”という程度のことを求めている。

典型例。著者が脳科学ではなくエッセイストである所に注目する。

こういう視点に立てばビジネス書研究で見聞きした「奇妙な名前の本」が、実に要点を抑えていることがよくわかる。

この辺の本がビジネス書研究でも紹介される、代表的な「内容の使いまわし本」である。ここでいうビジネス書研究はこの本を指している。

さて、先の二つの本はいくらか宗教らしさを醸し出している。
ゾウの本ではゾウはヒンドゥー教のガネーシャを名乗り、後者は「ユダヤ教」の名は隠しながら「ユダヤ人」という属性を売り物にしている。
そしてその両者は、ヒンドゥー教ともユダヤ教とも関連を持たない。
「あやふや」なのだ。「幸運になるかもしれないし、ならないかもしれない」という距離感が、現代人に理想的な訳だ。
前2冊は職場で話題にしても多くの場合、問題にならないだろう。
周囲にヒンドゥー教徒もユダヤ教徒もいないという人は多いことだろう。
-ただし、私はそのどちらにも強い関心があるので、その名で語れる偽の逸話には大いに怒る-

以上が、先日の配信で話しそびれたお話である。
宗教学の本では延々と議論されていながら原因がわからなかったお話が、
「読書できない」をテーマとした本で解決の糸口が見えたのは大変おもしろい。

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