気付かずに差別に加担している
つい先日ニューヨークの地下鉄に乗ると、向いの席に座っていた泥酔状態の白人中年男二人組の一人が、なにやらごちゃごちゃともう一人の男に熱く語っていた。語られている側は寝落ちしていて無反応。それに業を煮やしたのか、ごちゃごちゃと語っていた方が、突然大声で、「Don’t fxxk with White Boys, right!?」と怒鳴り始めた。
つまり、白人至上主義的な思想を持った白人男性が、寝ている相棒と語っている体で「白人なめんなよ、ゴラァ!」と怒鳴散らしているというわけだが、その車両のその一角は、彼らのすぐ前に座ったアジア人の私、その隣にはドレッドヘアの黒人男性、はす向かいにはヒジャブを被ったモスリム系の女性という多様性をコンパクトにまとめてみました!みたいな人口組成になっていることにその時初めて気が付いた。車両内にはもちろんスペイン語で話しているラテン系の方々もいる。
泥酔男は「おめえらふざけやがって、White Boysなめてんじゃねーぞ、ゴラァ!どうなるかわかってんのがぁっ!ゴラァ!」といった趣旨のことを繰り返し、その声もどんどん大きくなっていく。隣の黒人男性はヘッドフォンをしていて聞こえないのか、ぴくりとも動かず完無視で自分のスマホを見ている。(黒人男性の彼はこの手の状況に慣れているかこの手の状況に対する準備ができていて[だとすれば悲しいことだけど]徹底した無視の仕方にそれが現れていた可能性もある。)
白人男性の視線が私と黒人男性の方に投げかけられているのを感じて、チラリとヒジャブを被った女性の方を見たらば、丁度彼女も私の方をちらりと見て目があった。その時のなんというかお互いに「何かあったら、一緒に戦いましょう!」みたいな無言の結束感に、心強いと共にちょっぴり切なくなる。
すぐに私の目的地の駅が来てしまい、降りようと立つと、モスリム女性が「えぇーっ、降りるのー?!」という顔で私を見た。いやいや、私はあなたを裏切るわけでも、ハラスメントに耐えられずに降りるわけでもないんです、と心の中で謝りながらその場を去った。
こういう公然ハラスメントを見た時の対処法として、人権団体が流布しているガイドラインによれば、ハラスメントをしている方をたしなめたりするのは火に油を注ぐことになる場合が多いので出来れば避け、ハラスメントを受けている側を守るような動きをするのが良いらしい。例えば、泥酔白人男性と私たちの間に立つ、そして道や駅や時間などランダムに答えやすいことを尋ねる、逼迫している状況ならば「How can I help you?」と声を掛ける。もっと逼迫した状況ならば意表を突いて注意をそらすためにコーヒーや飲み物をこぼす、小銭をこぼす、など。
ハラスメントを受けている人の身が危険な場合は、何人かで協力してハラスメントを止める。写真やビデオに証拠を収める。ただ、そのビデオをハラスメントを受けた人の許可なしにSNSで拡散してはならない。ハラスメントを受けただけでもトラウマなのに更にそれが何度も何度も人々によって再生されるトラウマを考えると当然のことだ。
こんなこと書くと、ニューヨーク怖いな、と思われるかもしれないが、こういう経験はむしろ稀で、多くのニューヨーカーは、正しいことをしようと心がけて生きている善良な市民です(個人の感想)。なにしろ、その電車に乗っていたヒジャブの女性も、黒人男性も、ラテン系移民も、私だってニューヨーカーなのだ。今回のようにストレートにヘイトを突きつけられるケースにはほとんど遭遇しない。
ヘイトクライムと言えば、ずっと以前に、誰かのnoteで読んだ「Stop Asian Hate」というプラカードを持ってニューヨークの道に座っていると、通りかかった白人男性が、無言で「Stop」と「Hate」を線で消して、「Spread Asian Love」に書き換えて去って行った、というエピソードがあった。そのnoteを書かれていた方は、ネガティブな言葉よりポジティブな言葉の方が良いと気付かされたというようなご意見を述べていたと思います(細部は間違っているかもしれない)。
当時はアジアンヘイトクライムが急増していた頃。そんな社会的空気の中、プラカードを持って道に立つというその方の勇気ある行動にたいして、メッセージを書き換えて去っていた男性のこの残念な認識のズレが気になった。
「Stop Asian Hate」と「Spread Asian Love」って、決して同じではない。「Spread Asian Love」が、必ずしもAsian Hateの問題を解決するわけではないのだ。Asian Hateの根源にある問題は何かと考えるためには、Asian Hateがあるということをまず知らなければならない、「Spread Asian Love」では、それが見えにくい。
「Spread Asian Love」みたいな全てを包括して、まるっと呑み込んで、ポジティブにみんなの気持ちをなんとなく良くさせる言葉で誤魔化すと、ピンポイントで問題を解決しようとする思考が弱まってしまうのが困りどころ。
こういうの「Feel good gimmicks(気持ちを良くする仕掛け言葉)」と言う。これに弱いのは人間の万国共通の性かもしれない。
「Spread Asian Love」。BLM(Black Lives Matter―黒人の命大事)運動の時に出現した、「え、っていうかAll Lives Matter(全ての命大事)なんじゃないの?」って言い返すあれに認識のズレ方の角度が似ている。意図は異なっているけれど。
BLM運動の前に立ちはだかって全ての命大事でしょってのたまうのって、言ってみれば、今まさに黒人の人々の住む家が燃えていて、家の中にまだ大勢の人がいる、という状況で、一刻も惜しんで生存者を助け出そうと奮闘している消防隊員の前に立ちはだかって、「いやいや、ちょっと待って!すべての家が大事でしょ!」というようなもの。
「うっせー!どけどけどけー!」ってなるよね。
そして、この比喩でいうと、この黒人の家は使われている材質が着火しやすいもので、立地条件も乾燥&強風の丘の上で更に着火しやすい木々が囲んでおり最悪。その上、度重なる放火などによって構造上&人為的にしょっちゅう火事になっていて、この問題をどうにかするには、建て替えどころか場所も替えて総リニューアルしなければいけない、といういわばそんな状況なわけです。つまり意図的に黒人の生活が不利になるように作られてきた制度&構造の背景を鑑みる必要がある。
アジア人へのヘイトクライムも同様に、「Spread Asian Love」と言いながら、実際にアジア人をよそ者として扱う意識を形成するシステム上の問題(例えば学校で教える歴史のカリキュラムにアジア系アメリカ人の歴史が含まれていないなど)が変わらなければ、「アジア人好きですよ」って言いながら、知らずに差別する人々の集団ができるだけ(ってそれが今もまぁまぁそうなわけです)。
差別問題は、ほんとうに細部に渡って存在していて、まるで空気のようにこの社会の行動を形作っている。どんな人を排除すべきか、制裁すべきか、どんな人が優遇されるべきか、誰も教えなくてもこのシステムから自然に学んでそのシステムを保存する一因の役割を知らぬ間に担ってしまう。時にはそれが自らの首を絞めるような、自らの属するグループに対する差別であったとしても(self-defeating stereotypeという)。
私自身もそうだ。今でも時々ぼんやりしていると、つい間違えそうになる。だから自分警察になって、取り締まっていかなきゃいけない。
自分を取り締まる大事さを思う時、同時に、それが個人の意識にのみ存在する問題なのだと、問題のすり替えをしてしまうことのないよう肝に銘じたい。問題を個人の意識にすり替えれば、システムそのものはぬくぬくと温存される。これってそのシステムから最も恩恵を受けている人々にとってはこの上ない状況。なんだか途方もないな。
*ここでシステムや社会構造上存在する主に人種差別の例をざっと:
居住区の差別、汚染や公害に晒された住環境、学区の差別=学区内の固定資産税が学校の資金源になるため、貧困層と富裕層の地域では学校に与えられる資源の不均衡が起こる、選挙制度の差別=マイノリティが選挙に参加しにくいシステムの存在、また選挙区の線引き操作の問題=投票しにくい&投票した人の声が反映されにくい構造、警察による差別、歴史的には第二次大戦後の退役軍人に与えられた学費保障制度から黒人が除外されたことによる貧困の連鎖、などなどなどなど。(日本にも様々なマイノリティに対するシステム上、構造上の差別は存在しているので他人事ではない。)
一人ひとりが黒人を愛せば、一人ひとりがアジア人を愛せば、そして尊重すれば、一人ひとりが行動を改善すれば、全ての問題が解決するのだ!というこれもまたFeel good gimmicksの落とし穴。もちろん、そこは大事なスタート地点なんだけど。
これは人種問題だけではなく、LGBTQIA+の人々、障がい者、女性、貧困層など全ての差別問題に言える。一人ひとりが障がいのある人に思いやりを持って接すれば、一人ひとりが女性に思いやりを持って接すれば、必要な支援やサポートや保障は与えられるのか?というとそうじゃない。もちろん、個々人の意識は大前提なんだけど、そこに制度としての変革がなければ、実際の保障が伴わななければ意味がない。
差別問題は個人の意識にのみ存在する問題だと誤解すれば、「え、ゲイの友だちいるし、差別なんて全然。」と言いながら、LGBTQIA+の人々の権利を保障しない政党に投票しちゃうかもしれない。または投票に行かないかもしれない。
個人の意識にのみ差別問題があると誤解してしまうと、「多様性とか違いとか口に出して言うから、今まで差別意識のなかった人まで差別の存在に気付いて差別に加担したりしちゃうんだ論」を唱えてしまうかもしれない。だって子どもは差別を教えられなければ誰に対しても平等に分け隔てなく接するよ、と。
今まで差別の存在に気付かなかった人は、気付かないまま差別に加担していただけのこと。差別を本当になくすべきだと思うのなら、差別の存在にまず気が付く必要がある。気が付かなければ、それをなくそうとすることすらできない。
それから子どもは全く差別しないかというと、そうではない。イングループ&アウトグループの認識はかなり早い時期(乳幼児期)にはできているといわれている。そして、イングループへの迎合・優遇とアウトグループへの対抗も自然に行っている。(*様々な研究があるが、それをまとめた本「Blindspot: Hidden Biases of Good People」や、Fantzの古典研究、Michell他の研究など。)
そして、無垢な子どもが育っていくのは、このシステムの枠組み内であるということを忘れてはいけない。このシステムの含有する様々な差別を空気のように吸いながら育つのだ。その問題についてアクティブに教えていかなければ、ぼんやりとFeel Good Gimmicks にのっかって、気付かないまま差別に加担する人間になってしまうかもしれない。または上の方でなんの疑問も持たず胡坐をかくようになるかもしれない。