かむじひ
その頃、自分は人との諍いと口論にまみれてました
そうして道に迷っていたので
ある鬼に道を尋ねに行きました…
一日目、道を入りたくて
鬼を訪ねたところ、
鬼はただ、次のことだけ言いました
「ひ」
・・・そこで家に帰って、その意味を考えます
やがて「非」を覚えることができました
人をけなす心に非があったのです
二日目、もっと道を入りたくて
また鬼を訪ねたところ、
鬼はただ、次のことだけ言いました
「じひ」
・・・そこで家に帰って、その意味を考えます
やがて「慈悲」を覚え、また「自非」を覚えることができました
人はそんな自分を慈悲でもって応じてくれて、人をけなす自分に非があると分かったのです
三日目、もっと道を入りたくて
また鬼を訪ねたところ、
鬼はただ、次のことだけ言いました
「むじひ」
・・・私は家に帰って、その意味を考えます
やがて「無慈悲」を覚え、また「無自非」を覚えることができました
世界は無慈悲のようで慈悲にあふれていて、究極的にはそのどちらでもあり、どちらであるともいえず、慈悲の有る無しを越えていて、その彼岸では慈悲の有無に囚われない、超慈悲「無慈悲」であると。また、その境地に於いては自非の云々も無い、と
四日目、もっと道を入りたくて
また鬼を訪ねたところ、
鬼はただ、次のことだけ言いました
「かむじひ」
・・・そこで家に帰って、その意味を考えます
やがて「神慈悲」を覚え、また「神無自悲」を覚えることができました
人は神でなくとも、神のように他者に慈悲を供する慈悲心を与えられている。それこそが神の人間に対する慈悲である。だから人は人を助け、人のために働くものであり、悟りを得るだけでは不十分で、悟りを得たならそれの実践を行動で示すことが大切なのだと。
そうして人が助け合い、互いに人のために働くとき、そこには自ら他人を悲しみ慈しむ神のような人たちがいるだけで、(その意味ではもう)神はいない…
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?