
補聴器と学校(聴覚障害児の学習)
今日は補聴器と学校の話です。私が中学生だったのは50年も前のことなので個人的な経験談として読んでもらえればと思います。聴覚障害児を持つ親御さんの参考になれば幸いです。
1.幼稚園時代
私は、健聴者の両親の元で生まれました。私が幼児の頃は扁桃腺炎でしょっちゅう高熱を出していました。5歳の時の高熱でかかりつけの医院で注射されたストレプトマイシンの副作用で難聴となりました。幼稚園の先生が呼んでも返事しないことが多くなったと母親に連絡があり難聴が判明しました。
私には兄と妹がいますが、本当に運の悪いことに同じ日に高熱が出た妹もストマイ難聴となりました。兄は健聴者のままです。
ストレプトマイシンの副作用についてはよく知られていなかった時代です。同世代にもストレプトマイシンの副作用で難聴になった児童が何人かいました。ストレプトマイシンを注射されてもなんともない児童もいたので体質によるものらしいです。
2.小学生時代(補聴器)
私は言葉を取得後だったので、補聴器をつけて普通学級に進みました。妹は言葉の取得前だったので新潟のろう学校に進みました。(妹は後に佐渡の普通小学校に転級しました)
私が小学校の勉強についていけるか心配して、母が小学校入学前に兄の教科書で1年生の学習内容を教えてもらいました。このときの母の教えはかなり厳しかった記憶があります。
小学1年生の授業はどんなものかと緊張して入学しましたが、母の予習のおかげでスムースに学校生活に入ることができました。
母が先生に「こんな子です」と根回ししてくれていたため、担任にも気をつかってもらえました。母は自宅でクリーニングの取次をしていましたが、しょっちゅう「配達中」のメモを残して学校に行っていたようです。
席はいつも一番前の真ん中で、担任も私の顔を見て明瞭に話して頂いたので、学習には支障がなかったと思います。
補聴器でしたが、ほぼ1対1の会話はできたため、仲の良い友だちもできました。低学年のときは補聴器をつけさせてくれという子もいましたが、すぐに私が補聴器をつけていることに慣れたようです。
友だちが4,5人で会話していると、話についていけないことが多かったので、遊ぶのは2、3人のことが多かったです。
小学生でイヤだったことは始業式や終業式や校庭の運動会で、校長や来賓のあいさつが全然わからないまま立ちっぱなしだったことです。あいさつしている方はみんな聞こえていると思っていますが、難聴児には聞こえていないです。今の時代はどうなっているのかな。ロジャーがあるのかな。後で担任から教えてくれるのだったらありがたいけど概要だったらイヤだな。あいさつの原稿のコピーを事前にもらう方がいいかな。
この時代(昭和40年代)は、百科事典や文学全集のセールスが全盛だった時代なので、うちにも児童向けの文学全集がありました。私はこのおかげで読書が好きになり日本昔話、グリム童話、トム・ソーヤーの冒険、壺井栄等を読んでいました。図書館の本も読み漁りました。ネットもスマホもなかった時代だったので1人の時は本や漫画を読んでいました。
父親はクリーニング工場で働いていました。勉強や学校のことは母任せでしたが、休日は佐渡島内のドライブや海水浴や魚釣りや草野球の試合に連れ出してくれました。酒飲みで粗野なところもありましたが仕事には真面目で子どもにはよい父親でした。
3.中学生時代(補聴器)
中学入学にあたり、一番心配したのが英語でした。ちゃんと聞き取れるか心配でしたが、1年生の時の英語の先生がおばあちゃんの先生(今思うと55歳くらいか?)で、やさしい先生で、話し方もゆっくりしていたのでよく理解できました。結果、英語は国語とあわせて得意科目となりました。
中学で困ったのが、教科毎に先生が変わるため、聞き取りできる先生と聞き取りができなかった先生がいたことです。結果、数学と理科は苦手科目となりました。
中学生時代も仲の良い友だちもできました。不良の子(今で言うヤンキー)もいましたが、私とはウマがあいました。私も不良もなんらかの欠落感を感じていた子だったからかもしれせん。不登校の子はいなかった時代です。
母親はあいかわらず心配性で、(生徒だけの)校内陸上大会などがあると店に「配達中」のメモを残して私の様子を見にきていました。何度も学校には来るなと言いましたが来ました。。
この頃、私がイヤだったのは、茶の間で父と母は私にも聞こえるよう40dbくらいの音量で話していても子どもに聞かせなくたい話は20dbくらいの音量で話していたことです。健聴の兄は聞こえていたので俺も聞きたいと思いました。
4.高校時代(補聴器)
高校は普通科に進みました。普通科は1学年2クラス90人でした。成績はまん中くらいだったかな。数学は2回赤点をとって追試を受けました。留年しなくてよかったです。
高校も教科毎に先生が変わるため、聞き取りできる先生と聞き取りができなかった先生がいました。聞き取りできない先生の時は何をしていたかな。一番前の真ん中の席も恥ずかしい年頃になったので、大丈夫だからと言って席は窓側や後側にしていたので春先の国語の授業は教科書の小説を全部読んでいました。興味のない授業は教科書の余白に漫画を書いたりノートに落書きをしていた記憶があります。
高校2年の時に公民館であった予備校の夏期講習に参加しました。最前列に席をとったものの、さっぱり聞き取りができませんでした。講習費がもったいなかったですね。ロジャーがなかった時代です。
この頃は、健聴者ではない、ろう者でもない、難聴者である自分は何者なのかよく考えていました。家庭でも荒れていました。私が大声を出すと母は泣き、父は黙り込みました。⇦本当に親不孝なことでしたがそういう年頃なのでしょうがない。
高校3年の時に進路を決めるにあたっては、数学と理科がダメだったため、大学は私立文系に絞りました。進路について親からは何も言われませんでした。⇦これは今思うとえらい親だったと思います。
浪人するのがあたり前の時代でしたが、もう1年受験勉強するのは絶対に嫌だったので、夏のインタハイ予選が終わった高校3年の8月からの半年間は集中して勉強しました。夏休みは海の誘惑にも負けず毎日朝から夕方まで公民館の図書室で勉強しました。
<この頃わかったこと>
・勉強は集中しないと意味ががない(長時間ダラダラやっても伸びない)
・きれいなノートをつくることは時間の無駄(志望校の合格点をとるのが目的)
・参考書⇨問題集⇨参考書⇨問題集の繰り返しが効果的
・大学の出題傾向は相性の良い大学と悪い大学がある(過去問をやってみてわかりました)
・問題は流し読みすると問題の意図が読みとれないのでじっくり読む(受験勉強で深く読みこむ癖がつきました)
・記憶量が勝負の科目(英単語、世界史)は読んでも忘れるので何度も何度も書いて手に覚えさせる(単価の安いわら半紙のノートとボールペンで何度も書きました)
・本番のテストはわかる問題から片付ける(わからない問題に時間をとられない)
・本番のテストは時間のある限り見直しする(意気揚々と早々に退室するのはかっこいいようで単なるアホ)
蛇足ですが、試験に出る英単語にあった「environment(環境)」「atmosphere(雰囲気)」は、なぜか今でも覚えています。なんでだろう。
5.大学時代(補聴器)
大学は法学部に進学しました。先に進学した健聴の兄と同居していたため、生活に苦労はなかったです。私の大学受験にも同行してくれた兄には深く感謝します。
講義は小さい教室であれば1,2割方聞き取れたものの大教室の講義はまったく聞き取りできませんでした。要約筆記サポートもなかった時代です。どうしたか⇨1年生の体育(バレーボール)の授業で仲良くなった子(まじめかつ性格よし、卒業後は地方公務員)のノートを借りて乗り切りました。
聞き取りができないのになんで大学進学したか⇨自分の選択肢を増やしておきたかったため。
アルバイトはしたか⇨サークルの先輩紹介の単発のバイト(ラックの組み立て作業等)や夏休みは親戚紹介の佐渡の喫茶店の皿洗いをしました。⇦佐渡のバイト代は母親に全部取り上げられました。。
小遣いはどうしたか⇨日本育英会の奨学金でまかないました。文庫本と雀球とコンパに費やしました。奨学金は30歳頃まで毎年返済していました。
6.社会人時代(補聴器)
仕事上の必要に迫られて簿記2級の資格をとりました。これも大学入試と同じく、参考書⇨問題集⇨参考書⇨問題集の繰り返しで乗り切りました。簿記1級は工業簿記が難しく歯がたちませんでした。。
転職後の会社では税務研修も受けましたが、補聴器ではほとんど聞き取りできませんでした。どうしたか⇨レジュメと講師を交互に見ながら聞き取りにつとめました。
50歳過ぎて聞き取りが低下、参加者が4、5人のグループディスカッションでも補聴器では聞き取りできなくなりました。たいへん困りました。どうしたか⇨ホワイトボードを活用してもらい乗り切りました。
7.社会人時代(人工内耳)
コロナ後の会社の研修はTeamsが中心でした。ヘッドセットをつけて参加しました。人工内耳のおかげでよく聞き取れます。補聴器だったらさっぱり聞き取りできなかったと思います。
また、何か知りたいことがあれば、Youtubeでも視聴できるのでよい時代となりました。
私が子どもの頃にロジャーや人工内耳があったらと思いますが、過去は変えられないし、55歳で人工内耳で聞こえるようになっただけでもありがたいことだと思います。また、聴覚障害は知能や運動能力には影響がないので、自分の足で旅行ができたり、スポーツができたり、車の運転ができたり、好きなテレビが字幕付で見られたり、(よく聞こえないこと以外は)普通に生活ができたりすることは幸せなことだと思います。
難聴者やろう者の方で医師や弁護士になられた方は、私には想像もできないほどの努力が必要だったと思います。すごい方々と思います。すごい方々もいらっしゃいますが、私はまた一般の難聴者が普通に生きているだけでも偉いことだとも思います。
8.子どもに苦労している親御さんへ
補聴器や人工内耳では、1対1での聞き取りに問題なくても学校生活では聞き取れないことが多いです。大丈夫そうに見えても大丈夫でないことが多いです。親に手助けできることと手助けできないことがあれば、手助けできないことの方が多いと思います。できないことはしょうがないので、(毒親にならないよう注意して)子どものために親にできることに目を向けてほしいと思います。また、子どもは子どもなりに考えていますので、進路は子どもに選択させてよいと思います。
反抗期の子がいらっしゃる親御さんは今は本当にしんどいと思いますが、大人になったら親孝行な子になります。なぜそう言えるのか⇨人生とはそういうものだからです。
<人工内耳>
私の人工内耳はアドバンスド・バイオニクス(AB社)のナイーダCIです。ナイーダCIのTマイクは耳穴の位置に集音マイクがあるのでヘッドホンやヘッドセットがそのまま使えます。音楽を聴く以外にもオンライン会議や動画の視聴に便利です。
※画像提供:アドバンスド・バイオニクス社