「獣の奏者エリン」開幕5話のアニオリが良すぎる
宇宮7号です。普段は絵を描いたり世界史の解説動画を作ったりしています。上橋菜穂子ファンです。
2009年に制作された『獣の奏者』のアニメ版を最近見始めたのですが、最初の5話時点で、ちょっとこれはとんでもない(良い)作品だと思ってしまったので、その感動をここにまとめようと思います。
本来の私は、どちらかと言えばかなり原作厨です。上橋作品の原作が好きなので、メディアミックスはあくまで二次的副産物として(言葉を選ばず言えば金と手間のかかった二次創作として)認識してきたくちです。
けれど、「獣の奏者エリン」は凄いです。5話みて、メディアミックスに対しての認識を改めなければと考えたほどです。
この冒頭5話というのは、実は全てアニメオリジナルストーリーです。原作話に入る前に導入として描かれたこの5話が、大変意義のあるもののように思えたので、とりあえず5話だけを語っていきたいと思います。
どこが良いのか順に書いていきます。
注意
※幼少期に視聴済なので初見感想ではありません。ただしアニオリ話は全て忘れているのでほぼ初見のような反応をしています。
※原作ファンなので、原作で描かれている内容は前提のものとして語ってしまうことがあります。できるだけアニメしか見たことのない方にもわかりやすい説明を心がけます。
全体概観
まず、冒頭5話オリジナルエピソード放映を敢行した決断に仰天する。
でも子供向けアニメなら、確かにそれも納得である。原作では、冒頭から〈牙〉の弔い笛が鳴り響くが、アニメでそのとおりにいきなり闘蛇の死と母親の処刑が繰り広げられては、何が何だかわからないだろう。
原作では地の文で説明されている闘蛇のことや霧の民のこと、母のことを、5話のオリジナルエピソードで少しずつ説明することで、世界観に慣れてもらい、6.7話で満を持して本編に入っていくわけだ。
(6.7話で沼の底に叩き落とすとも言える。恐ろしすぎるアニメである。)
1話 緑の目のエリン
あらすじ
・闘蛇のお医者さんである母親の仕事を手伝う
・闘蛇の赤ちゃんがいなくなってしまう
・闘蛇のイケに忍び込んで赤ちゃんを見つける
・闘蛇に襲われそうになるところで、母が音無し笛を吹く
ポイント
・冒頭から、隣国ラーザと戦う大公軍や真王一族が登場する。1話から世界観全体を提示し、そこから村へ視点をうつしていく。しばらくアケ村の話が続くので、認識が村だけで完結しないよう気を配っている。
・子供向けの丁寧な導入。闘蛇や特滋水の基本情報を、エリンの誤解を正していく体で母が語る。
・母が「獣ノ医術師」と言うのに対し、エリンは「闘蛇のお医者さん」という言葉を使う。これにより幼い視聴者に理解と親しみやすさを与える。
・ワダンさん(闘蛇衆の男/アニオリ)はかなり意味のある人物。彼は霧の民であるソヨンを蔑視しているが、立場上は彼女の下におり、苦々しく思っている。彼の態度のおかげで、ソヨンの実力と村での微妙な立ち位置がよくわかる。
・“闘蛇の幼体が行方不明”という事件が巧い。6.7話(本編冒頭)のデモンストレーションになっている。いずれくる〈牙〉の変死で、ソヨンが責任を取らされる立場にあることが、この段階で示されている。
・エリンの活躍を増やしつつ闘蛇の恐ろしさを描いている。雛の寝藁が古いことに気づかせることで、観察眼と洞察力を1話から描く。闘蛇に襲われることで、恐ろしさを体感させる。
・ソヨンがワダンに指示した「イケに入れる前に寝藁を変えること」と「イケの闘蛇の粘液を幼体につけておくこと」が両方とも重要かつ説得力のある知識。今回意味があったのは前者だが、絶対に後者もどこかで回収される(9話でされた)。意味がある知識の積み重ね。
・比喩カット。鳥の雛と親鳥のカットが何度も挟まれる。エリンとソヨンの母子の比喩的描写だろう。例えば、家にソヨンが戻ってくる展開と、巣に親鳥が戻ってくる描写。闘蛇に襲われそうなエリンをソヨンが助ける展開と、雛を狙うイタチ(?)を親鳥が追い払う描写など。
感想
“原作冒頭のデモンストレーション”という表現が相応しい。比較的平和裡な事件から描き、エリンを活躍させると共に、いずれくる大事件の伏線を張っておくのが巧い。先の展開を知る原作ファンからすれば、ここで展開された風呂敷は全て回収される前提であることが見て取れ、無駄な知識がひとつもないのがわかった。1話時点で原作厨の脳みそが「これは良い作品」と判断した。
2話 医術師のソヨン
あらすじ
・隣の隣の闘蛇村から不調の闘蛇が運ばれてくる
・水槽に入れていた闘蛇が中毒症状を起こす
・ヤギ肉を食べようとしない闘蛇に、戦場で食べていた魚を与えて食事させることに成功
・貯水場に花の毒成分が染み出しており、闘蛇の症状はその水を飲んだせいと気づく
ポイント
・前話で登場したオリジナルの草“ヤギゴロシ”が再度登場。アニオリ知識が一回きりで完結しないのが丁寧で面白い。前話で、闘蛇の体を磨く“磨き玉”はヤギゴロシの茎や葉でできていることを示し、今回は、その花でヤギや闘蛇が中毒症状を起こすことを示す。見つけたらヤギが食べないよう村の女総出で抜くという描写を入れ、同じものが益にも害にもなることを言外に説明している。
・闘蛇の尾には闘蛇村ごとの旗印がある、という伏線を描いている。のち真王襲撃時に語る、“闘蛇村ごとに刻まれる印が違う”という知識は子供時代に得たはずなので、このエピソードはその補強として有益。
・霧の民への知識を小出しにしている。怪しげな術を使うと言われていること、あちこちを渡り歩いていることなど。次回に繋がる。
・闘蛇の軍事的意義と〈牙〉の世話をすることの意味を示す。闘蛇が死ねばソヨンが攻めを負うことを再度説明して強調している。
・外部の人間に対するエリンの人となりを描いておく。タイラン(闘蛇乗り/アニオリ)が、エリンがよく躾けられていることに言及する。後にジョウンとの出会いでもその姿勢が描かれる。
・エリンの生き物への態度を示す。弱った闘蛇に餌を食べさせようとする今回は、弱ったリランが餌を食べるよう奮闘する後の展開と同じ構造。獣に不用意に触ろうとする危うさも同時に描く。
・闘蛇の中毒症状を一度出しておき、6.7話の伏線としている。特滋水が弱った闘蛇に効きすぎる可能性を示す。
感想
6.7話に繋げるとともに、カザルム時代も見据えて描かれている。原作で後に「闘蛇村で得た知識」として示される内容(原作では背鰭の切れ込み、アニメでは尾の旗印)を、村時代の話に盛り込んでおくことで、2話にしてかなり大きな伏線を張ることに成功しているし、以後のエリンの獣に対する態度をこの段階で示している。
アニオリ知識が前話と繋がる所も好み。
3話 闘う獣
あらすじ
・闘蛇の幼体に名をつける
・アケ村で闘蛇の教練が行われ、大公とダミヤも見にくる
・教練の場で闘蛇が暴れ、耳塞ぎを開いて音無し笛を吹くことで事なきを得る
・闘蛇の幼体の耳膜を切り落とす
ポイント
・ソヨンが噴霧器を使っている。のちにジョウンの小屋で噴霧器を見たときに母を思い出すきっかけとなる。実際に使っている映像を出しておくのは丁寧。
・耳膜の話。戦場で闘蛇に音無し笛を聴かせる為に、耳を閉じる耳膜を幼体のうちに切り落とす、という原作の説明を映像化している。闘蛇が人と生きていくために耳膜を切らねばならぬこと、切った闘蛇の行く末、そうせねば成立しない闘蛇村の役割を描いている。
・教練場での闘蛇の姿を描き、闘蛇が戦に使われることを実感させるとともに、闘蛇の耳塞ぎの仕組みを描き、人間がどのように闘蛇を操っているのかをわかりやすく示す。
・闘蛇の幼体に名前をつける無邪気さを示す。子供っぽくて非常に彼女らしい。個体識別でなく愛着の結果として名前をつけるのは、その先に待ち受ける現実を実感していないが故。そこに耳膜を切る運命を知らしめる。平和に始まった子供向けアニメにしては早くも内容が重すぎる。
・ダミヤとヌガンの関係を描く。原作で回想されていたエピソードを補完している。ヌガンとダミヤとの関わりは重要なのだがなかなか描く機会がないので、最初から丁寧に描かれるのは価値があると思う。
・大公の城やエリン宅で出される料理が日本料理的。米食の大公領の風土を考慮してそう。
・「わたし、闘蛇の言葉が知りたい」とエリンが泣く。以後の姿勢の伏線。のちに王獣と言葉を交わすエリンの原初の動機を描いている。
感想
3話にして、エリンたちの住む村の構造と、そこで生きる者が飲み込んでいる苦悩を描く。闘蛇村は闘蛇を戦の道具にすることで成立しており、闘蛇の為でなく人の為に闘蛇を育てている。のちの母の言葉「人に操られるようになった獣は、哀れだわ」を実感できるよう、戦に使われる姿をエリンに目撃させ、可愛がっている闘蛇の幼体の耳膜が切り落とされるどうにもならない現実を描く。シビア。
4話 霧の中の秘密
あらすじ
・サジュの姉ソジュ(アニオリ)の結婚が近づく
・ソジュが祝い餅の毒にあたって倒れる
・解毒薬を手に入れる為に霧の民の市場に行く
・市で霧の民の男(ナソン)と出会う
ポイント
・薬と毒の描写。前回は薬(サキワレソウ)と似て非なる植物を出し、今回は食用草と見分けづらい毒を出す。毒と薬の知識について、段階を丁寧に踏んでいる。
・親しい人物の婚姻を描くことで、父母の馴れ初めを描く。父の話は原作にもあるが、こんなに自然な流れで父の話を出せるのは婚姻がテーマであるからこそ。
・ソヨンとアッソンの出会いが、のちのエリンとイアルに重なる。若い頃のソヨンは後半のエリンとそっくりだし、アッソンも髪型の雰囲気が心なしかイアルに似ている。少々キャラデザを寄せてる?
・霧の民との交易を通して、彼らの特徴等を示している。霧の市の形式が沈黙交易なのも納得。沈黙交易とは、物品(や金)を所定の場所に置くことで、直接顔を合わせずに行う交易。霧の民は他と関わらぬ民なので、霧ノ市が沈黙交易形式なのも道理だし、巡回者という存在の必然性も上がって、とても説得力がある。
・花嫁が親と別れる描写をいれ、母娘の別れを予感させる。「エリンにも、いつかこんな日がくるのかしらね」「私どこにも行かないよ。お母さんとずっと一緒にいるからね」という台詞。先を知る者は、心の奥底が冷える思いがする。
・比喩カットはスミレ(タチツボスミレか)。ソジュが父の思いを理解した瞬間に、これまで影の下にいたスミレに陽がさして、さっと明るくなる。
感想
父母の馴れ初めや父の人となり、霧の民が秘薬を売ることや定住民と交わらないこと、ナソンの初登場、母娘の別れの布石、全部を一話で済ませてきた。構成がうますぎる。いっそ怖い。
個人的には沈黙交易に心が躍った。また、花嫁を治す薬に村の金を使うのも納得感があった。結婚は闘蛇村同士の労働力の取引なので、結納を受け取った以上花嫁を出す責任があるのだろう。
5話 エリンと卵泥棒
あらすじ
・年に一度の卵狩りがおこなわれる
・沼にはまった卵泥棒たちを助ける
・闘蛇の産卵を目撃する
・卵を取らないでと言うエリンに、母が掟を説く
ポイント
・原作の“闘蛇衆が卵を取ってきて、その後耳の鱗を取る”という旨のたった一段落程度の記述を映像化して物語にしている。
・耳膜を切られたルル(闘蛇の幼体/アニオリ)が、懐いていたエリンから逃げる描写。“一度音無し笛を吹いた王獣が人間に懐くことはない”という後の設定と重なる。
・「昔から、闘蛇の卵は、自分たちでとりにいくのが慣わしなのよ」との台詞。闘蛇の卵を摂る=イケの闘蛇は卵を産めない、なのだが、そこを明言しないのはソヨンが掟に従っていることの証左。原作準拠。
・ラゴゥの沼(6.7話で処刑が行われる場所)が先に登場する。
・アニオリの卵泥棒二人。単なる人情&コメディ担当でない。王都では卵が大粒金3枚で売れるという事実は、真王領に闘蛇の飼育を試みるものがいることの示唆であり、後半の政治パートに直結する内容。
・野生の闘蛇の特徴(呼び声/滅多に襲ってこない/夜明け前に動きが鈍くなる)などを示す。全て7話の処刑に関わる内容。
・産卵の目撃。これも今後リランの出産に繋がってきそう。“野にいる闘蛇ならば、ごくふつうに為すこと”を実感しやすくして、飼われた闘蛇や王獣への違和感を感じる為の手がかりにする。
・産卵を目撃し「卵を採らないで」という大変子供らしい正義感を一切肯定せずに真っ向から「獣ノ医術師は、獣の為にあるものじゃない。獣とともに生きる人の為にあるものなのよ」と説く。重い。
・掟に違和感を持ちながらも、母の姿を見て(そして母を困らせないよう)この段階では一応受け入れている。彼女が本格的に掟に懐疑的になるのは、掟によって母を失ってからだろう。
感想
超好みだった。子供向け作品で道徳的に推奨されるだろう自然な感情よりも、人間社会の掟のほうを正とする描写、超現実的かつシビアすぎる。元来『獣の奏者』はそういう作品とはいえ、まだ5話だぞ。いや逆か。5話までで「この物語はこういうテイストです」を示すわけか。上手いな。掟を受け入れつつ違和感を残す終わり方も良い。こういうのだ。こういうの待ってた。
ここまでやって、満を持して本編に入るわけだ。恐ろしい。
まとめ
この冒頭5話の印象をまとめると、全て“これから起こることを形を変えて描いている”ということになろうか。例えば6.7話で起こることがいかに重大なことか理解させる為に、似たような事例を起こしたり、その後のエリンの行動理念を示す為に、本編で王獣におこなったことを闘蛇に対してもおこなわせたり、といった内容が多い。展開や出される知識に全て意味があるのがわかる。
ここからの内容も凄い点や良い点が沢山あるのだが、それを語るのはまた別の機会にする。今回は、本編に突入する前のアニメオリジナルストーリーで、いかに意義のある世界観の提示を行なったか、という観点から、話をした。
とんでもない冒頭5話である。メディアミックスに対する認識が改まった。
あとがき
私は“原作厨”と冗談半分に名乗ってはおりますが「メディアミックスもできるだけ楽しもう」という信条を持ったファンです。(少なくとも、そうあろうと心がけています。)
たしかに、自分の解釈と作品の解釈が合わず大変悲しい思いをすることもあります。ただそれは、上橋作品のうち、私が大切に思っている要素が、非常に映像化しにくい部分だからなのだろうと理解しています。
またメディアミックスは、その背景や意図もふまえて考えねばならないと考えていて、例えばターゲット層や媒体など(誰に何を見せたいか、どんな制限のもと製作しているか)も考慮して考察するのを好んでいます。
「獣の奏者エリン」は子供向けアニメですから、あらゆる改変について「子供向けならそうなるよな」という納得感がありました。
今回、改めて作品を見る前は、「幼少期に一度見ているせいで、好意的な先入観があるのではないか」と思っていたのですが、改めて視聴すると、無事原作厨に育った現在の私の目から見ても、とても納得のいく作りでした。さすが原作者が「原作 上橋菜穂子」でなく「原作・アニメーション監修 上橋菜穂子」としてクレジットされているだけあります。原作者監修、本当に有難い。しかもこのアニメ化のおかげで続編まで書かれているわけだから二重に有難いですね。
もちろん、このアニメと解釈が異なり、受け入れ難いと感じる原作ファンの方もいらっしゃる事でしょう。
ただ、少なくとも私は、このアニメの作り方を丁寧で真摯だと感じましたし、冒頭5話は勿論、全体を通して筋の通った物語だったと感じました。
もし原作を好きな方で、アニメが気になってある方、かつて見ていたけれど改めて原作を片手に楽しみたい方がおられれば、原作ファンの一人として、おすすめしておきます。
読書/視聴のきっかけになれば幸いです。
上橋作品については下のマガジンにまとめていますので、ぜひ他にもご覧ください。
読んでいただきありがとうございました。
宇宮7号