heldio#1132〜 「斉一論の原則」シリーズの総復習

 非常に興味深い話題であると同時に、英語史をはじめ歴史を学ぶ上で心得ておくべき事項だと思ったので、このシリーズを自身の備忘録としてまとめてみることにした。何かお気づきの点、補足すべき点などありましたら、ご指摘いただけたらありがたい。

(要約)
 言語の歴史を扱うとき難しいのが話者が生きていない、アンケートが取れないこと。今ならアンケートをとり、それをもとに研究が進められるのだが、現代まで残されたもの(書き言葉)だけを頼りに過去の言語状態を復元している状態なので、多くの場合、証拠不十分である。これは歴史の名前のつく分野では必ず起こる。もどかしい。この無理芸の中であの手この手を尽くしているのが歴史学である。
 よく使う手が理論を用いるということ。現在の状況から引き出される理論。これは触ってみることもできるし。これが過去にも働いていたに違いない、として過去の状況にも適用してみる。これが歴史言語学の考え方。だがここには大きな問題がある。
 現在の理論が過去に働いていたか?確かめようがないのだ。現代の常識で過去を見ると間違いも多いはず。しかも、それがちゃんと見ることを邪魔してしまう。現在の理論を前提として考えて良いのか?全く通用していないことは十分にありうる。
 じゃあ何を基準にすれば良いのか?どこかのポジションには立たなきゃいけない。となると一番安全なのは現在。ここから見るしかない。過去は現在の視点からズレてるかもしれないが、現在を仮りの前提に立てて、それがうまくいかなかったら違ったんだとする。
 「斉一論の原則」とは、現在働いている力学が過去にも働いていたに違いないという前提で歴史学の研究を始めてしまう、それ以外にはないという方法論。
 hellogでも紹介されている。

(要約)
 証拠の乏しい過去の言語変化を記述するときに、現在の言語変化に関する知識を利用することは、歴史言語学に限らず歴史を扱う諸分野では広く受け入れられている。これは斉一論の原則(the uniformitarian principle)と呼ばれる。
 しかし、過去と現在の枠組みが同じだという保証はない。大枠においては違いはないとしても、小枠においては変化するものだろう。言語学者は特にそれを知っている。大枠と小枠の違いはどこにあるのか?
 Lasshaは、現時点でのthe best of our knowledgeで判断するしかなかろう、と言う。現在の知識の枠に頼って、ありそうな過去を再建していくことしかできない。むろん、そこには誤りが付きものと言う前提で。歴史英語学の研究に携わる者は、まずは現代の英語学や言語学をしっかり学ぶ必要があるのでは。歴史は現在の視点の投影であるとも言うし。

(要約) 
 昨日の#1132では頭出しのつもりだったが、斉一論というより何が問題なのか?限界はどこなのか?を先に話してしまった。本題の斉一論の原則を差し置いた感じがしたので、今回はズバリ「斉一論」とは何か?を話したい。
 これは地質学のアイデア、つまり地球、地球の土地の科学。この分野において革命的だった。フランス革命、アメリカ独立のころ。非科学的で聖書に基づいた地質学が基本。そこに現れたのがジェイムズ・ハットン。「地球の仮説」。これまではノアの方舟で出来上がっていたという地球観だったがそこに科学的観点を挿入した。火山、侵食など大昔から同じ原理、同じ力学が働いていたと。これが芽生えたのが十八世紀末。現在では当たり前のことを当たり前にした。宗教に基づく地質感から科学に基づく地質観に人々に展開させた。
 その後、半世紀が経過。同じスコットランドからライエルという地質学者が現れ、「地質学原理」を書いた。1830年代。同郷のハットンの考えを普及させた。地質現象が長大な時間の中で行われていること、膨大な時間の要するに、今火山活動、地質活動はなどで適用されている力学は昔も働いていたはず、という考えを広めた。今適用されている力学は大昔も働いていたはずだ=斉一論の原則である。これが後で言語学に応用されることになる。
 過去を見るのに今の常識を前提にしていいの?でも、それ以外に方法なくね?というのが斉一論の原則。身近に考えることできますよ。

(要約) 
 斉一論の原則についての深掘り。「状態」のことか「過程」のことか?
 今と同じ力学が昔も働いていたはずだ、という信念のもとに過去を復元してみよう、という立場。現在と過去で力学が違うということは極めてありそうなことだが、どのように違うかを今知りたいと思っている、知らないから知りたいと思っている。それを知ったかのように振る舞うことはできない。Xについて知りたいのにXっぽいよいよね、と直感に基づいてスタートすると、それに引っ張られてXはXだよねという結論に持っていきたくなる。極めて恣意的になる。それを避けるためにはまず主観を排して、現在の事実を原則にして昔に立ち戻るという感覚、あるいはこの常識が間違っている可能性もあるが、ここから出発しない限り全て恣意的な仮説になってしまわないか?という問題意識がある。全ての科学者はバイアスを持っている、これを最小限にするにはみんなが持ってるバイアスというところからスタートするのがいいのではないか?そんな考え方に近い。即ち、現代の常識からスタートするのがフェアではある。一番いけないことと思われそうだが、現代のみんなが共有している常識にしがみつくことがフェアという発想。みんなバイアスがかかってるんだからみんなが共有しているバイアスから始めよう、これはある意味フェア。
 現代の常識、常識とは何か?大きく二つあると思う。一つは、現在の状態(state)というのが常識であり、これと違っているものがかつてあったら疑うべきだという考え方。もう一つは、過程。現在働いている力学が現在あるものと昔あったものとで同じである、この力学こそ同じであるという考え方。つまり、今あるものを構成するのは、状態なのか過程なのか?だいぶ違うこと。例。(状態)母音のない言語はないダロウ、これは昔もそうだったろう。(過程)今、プという音のものは破裂が弱まってフとなる、グリムの法則が昔もよく起こったというのは説得力がある。プロセスがよくあるパターンだから斉一論としてまとめられるというケース。力学が斉一論なのか?力学の結果としての状態が斉一論なのか?
 歴史学というのは過去のことを知りたい、しかし、直接知ることはできない。ではどこまで迫れるのか?簡単にいうと、今常識と思っていることを過去に当てはめるという方法論はストレートだけどこれって大丈夫なの?という話。昔のことを知りたいから歴史をやってるのだけどその昔のことが分からない、分からないからこそ分かりたいと思って接近するんだけど分かり方が分からないというジレンマから発生する問題点。
 以上。時間があれば関連したコンテンツを作成したい。

 
 


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