helwaコンテンツfor「英語史ライヴ2024」出品作品④エッセンシャル版「英語史を勉強してると思ってい~た~ら♬大化の改新でした~(*_*; ちっくしょう…」by umisio太夫

 heldio#656「現在から過去に遡る英語史」でバーバラ・ストラング著「英語の歴史 A History of Engrish」(1970年)の存在を知った。ストラングは歴史の記述方法について次のように述べている。(注)現在の主流は、「時系列記述」(過去から現在に向かって記述)であるが、現在から過去に遡って記述する「遡及的記述」の方が優れている。なぜか?彼女は三つの理由をあげているのだがその一つが、「歴史にはじまりがないという事実を強調することができるから。」つまり、現代から過去に遡れば遡るほど景色がぼやけてフェイドアウトしていく、そんな感覚を有している「遡及的記述」の方が自然で、優れているというのだ。(それに対して「時系列記述」は出発点、即ち「はじまり」から現代に向かって記述する。つまり「はじまり」を必要とする。)このストラングの主張を耳にして、ずっとひっかかっていたあることを思い出した。(注)このくだりの英文(原文)はコンテンツの最後に掲載する。

 それは日本史の古代の土地制度である。「公地公民」とか「荘園」とか出てくるあの単元だ。なんでそんなことを?と言われそうだが、きっかけがある。7年前に娘の大学受験に付き合ったおり、このあたりを図式化して分かりやすく説明しようとするのだがどうしてもうまくいかない。特に、私がひっかかったのが「公地公民制」である。なにしろ、豪族がほとんどの土地を所有していた時代にいきなり、全ての土地を国のものする!なんてことできるはずがない?な~んて憤っていたのだ。しかし、数カ月後、娘は大学に進学、喉元過ぎて熱さ忘れるで4,5年を経過、そのまま放っていたところ、ストラングに叩き起こされた。
 配信を聴き終わるとすぐに日本史の教科書を引っ張り出し、大化の改新あたりの「公地公民制」の箇所を読んで驚いた。(注)なんと「日本書紀の記述が怪しいので慎重な検討が必要」と注書きにあるではないか!やった\(^o^)/オレの勘もまんざらではなかった!と喜ぶのも束の間、本文には依然として「公地公民制」が居座っとるやないかーい!オイオイ、どうしたどうした?これは絶対裏になんかあるぞ。私の知りたがりの魂に火がついた。

(注)高校日本史・山川出版社「詳説 日本史B」から抜粋、引用しておく。<本文> 646(大化2)年正月には「改新の詔」が出され、豪族の田荘・部曲を廃止して公地公民制への移行をめざす政策方針が示されたという。<欄外注①>「日本書紀」が伝える詔の文章にはのちの大宝令などによる潤色が多くみられ、この段階で具体的にどのような改革がめざされたかについては慎重な検討が求められる。

 しか~し、こんなとき焦りは禁物。まずは、ストラングの主張を踏まえてこんな仮説を立ててみた。
 日本史の教科書がはじめて作られるときのことだ。歴史の記述は当然、主流の「時系列的記述」でなされる。であれば、「はじまり」は不可欠。なんたって「はじまり」がなければはじまらない。仕方がないので多少根拠は疑わしいが、中央集権国家のはじまりとされる「公地公民制」「律令制」を「はじまり」にしよう!そして、その「はじまり」から日本史の記述がはじまった。
 ところが、案の定、「ちょっとおかしくネ?」と「はじまり」を疑問視する声が次々にあがる。しかも、その声の多くが的を射ている。本来であれば、それらを吟味し、場合によって「はじまり」を廃止、あるいは見直すところだが、それはできない。なぜなら、「はじまり」なしでは日本史の記述はできない。見直しするといってもそう簡単ではない。なにしろ、「はじまり」は次の出来事を生んだことになっており、それがまた次の出来事を生んで…現代まで続いている。つまり、「はじまり」は捨てるにしても、見直しするにしても日本史の存在を揺るがせかねない。そうなると、当事者たちはどうする?「はじまり」を死守しなければならない、となるだろう。それがさっきの矛盾あふれる教科書の記述となって現れた。というのが私の立てた仮説である。
 果たして、この仮説は正しいのか?それを検証するために、この単元に関する教科書や学術書に目をとおしてみた。すると、この仮説を裏付けるような記述が出るわ出るわ!テキトーな史料評価、史料の勝手な解釈、矛盾に満ちた記述、どれもこれも「はじまり」を守るための苦肉の策にみえる。(これらの気づきは仮説を立てずに闇雲に読んでいては見えてこないだろう。途中で、取り込まれるか、煙にまかれるか、精も根も尽き果てて断念するか、のいずれかだっただろう。)かなりのデータになるので詳細はumisio noteに譲るとして、ここではその一部を下の注に記しておく。

(注)国記についての歴史家たちの記述を著者名、書名抜きでご紹介する。

 「(日本書紀は)確実な政府の材料によって知らされたものだから、その記事の真実性に疑問を抱いた人はあまりいない。今でも大学の史学科で古代史の演習テキストとして本書をつかうのが圧倒的に多いのは、そうした信用性の故であろう。」「(日本書紀の潤色について)担当の編者の嗜好によって潤色がされたり、されなかったりであったことを示している。それも原史料がコンクリートな事実を記していると見られる百済・新羅関係の記事や、孝徳紀以降の日録風の記事に対しては、行き過ぎた潤色はない。」「たとえば政府の日々の記録から取られたらしい天武・持統紀などの記事は、ほぼ確実な事実と認められ、『百済紀』『百済本紀』にもとづく半島との交渉関係の記事は、百済人の立場による日本人へのへつらいや独りよがりの部分を除けば、大体信用できるものとなり…」「日本書紀は神話・伝承までも収録するため、その内容が史実であるか十分に用心しなければならない。とはいえ7世紀以前の古代史を解明するうえで、日本書紀は避けて通れないことも事実である。なにより日本書紀の記述を完全に否定し去るだけの別の情報源は、現時点で誰も手にしていないからだ。」

 もっとも、「「はじまり」を設ける弊害は分かった。でも、「はじまり」がなかったらどうやって記述するの?」と頭を傾げる方もおられるだろう。では、ここで実験的に歴史の記述に挑戦してみよう。あくまで事例として。根拠のない私の妄想である。

 大化の改新までのヤマト王権下では、一部の大王の土地や人民を除き、豪族たちが土地、人民を所有していた。それは「大化の改新」(645年)を経ても大きくは変わることはなかった。その後、少しずつだが中央集権化も進み、徐々に国の所有地も増え(公地公民)、一部では班田収授なども行われ、土地制度にも変化が生じた。豪族たちは郡司として律令制に組み込まれるようになり、土地の所有形態も徐々に変化、平安初期に荘園という独自の形態を生み出した、といった解釈はどうだろうか?一考の余地があるのでは。
 以上、勝手な空想ではあるが、「公地公民制」という「はじまり」を取り払ったことで自由な解釈が可能になっていることにお気づきいただけるだろう。文献史料を後生大事にして(注)「はじまり」を見つけ、それにとらわれるのではなく(注)、常に現代から当時の出来事に思考を働かせながらそれを史料で裏付けていくことが大切なような気がする。
 ここまで書いてきて思い出した。ストラングが「遡及的記述法」を優れているとする三つの理由のうち二つをまだ記していなかったことを。残り二つは「歴史に終わり(目的)はない」と「同じ質問を各時代の記述において繰り返すことを余儀なくさせ、現在の時点における我々の限界(無知)を思い起こさせてくれる。」である。前者は分かる。しかし、後者は「うーん、分かるようで分からない。」だった。しかし、今回の論考を終わるころには、そのストラングの主張とどこか近いようなものが私の中にできていたのでご紹介しておきたい。所詮門外漢の素人、単なる思い付きと思ってご笑納いただければ幸いである。
 過去から現代に向かって歴史を見ていくと、原因、結果、原因、結果とまるで歴史上の出来事が流れて進んでいるかのようにみえる。しかし、よく考えてみると、それらは真の出来事ではない。その時代に起こった多くの出来事の中から、そこにハマると思われるものがピックアップされただけ。よって、出来事をつながりの状態ではなく、一つ一つを個別にしっかりと見ておくことが大事になる。

 しかし、その際、「時系列記述」と「遡及的記述」で大きな違いがでてくる。「時系列記述」の場合は、「はじまり」から記述がはじまる。そして、その「はじまり」が原因となって次の結果を生みまれ、その結果が原因となり…と歴史を作り上げるので、「はじまり」は徐々に薄くはなるものの、全ての出来事の記述に影響を与えることになる。しかも、「はじまり」は現代の私たちに超然として存在するので、現代の私たちが「はじまり」を無視して、流れの中の一つ一つの出来事に言及することはできない。

 これに対して、「遡及的記述法」は現代から過去に遡っていく記述法である。現代の出来事の原因を過去に求め、その原因からさらに原因を追究していく。〇〇が起こった原因は?では、それが起こった原因は?と、どんどん遡っていく。その際、やはり「時系列的遡及」と同じように出来事の一つ一つについて目を向けておくのだが、そのときの目は現代の視点のみ。「時系列的記述法」のようにだれかに作られた「はじまり」に拘束されることはない。よって、過去に遡れば遡ぼるほどぼやけて見えなくなるが、それを「分からない」とみること自体が現代におけるその出来事の認識となるので、それはそれで価値があることになる。

 以上、自分自身途中で何が何だか分からなくなった部分もあるが、おかしいところはご容赦いただき、ニュアンスを受け取っていただけたら嬉しい。

コンテンツの本文は以上である。長い時間お付き合いいただき感謝。

 これまでの人生で英語と全くこなかった私がheldioと出会い、こうやって英語史の泰斗・バーバラ・ストラングの本に(一部分ではあるが)必死に取り組んでいるのは何とも不思議な光景ではある。しかし、多少なりとも歴史に関心のあった私にとってこの本の著書バーバラ・ストラングは私の師ストラング先生となった。英文の読解力など遠の昔にどこかに置き忘れてきたが、ストラング先生の言葉は私をこの1年半、とらえて離さなかった。その成果がこの論考である。出来はどんな具合でしょうか?ストラング先生。まさに、ときと場所を越えて文字でつながった1年半であっあ。
 さて、「英語史をお茶の間に届ける」、最初にこの言葉を聴いた瞬間、「ビンゴ!」とコメントしてからもうすぐ2年。この間、B&C精読への参加、その際の川上さんへの質疑応答などで多少の読解力はついたかな?と思いながらもまだ高校卒業レベルには未到達。だからこそである。「オレがheldioを聴かずしてだれが聴く」のスタンスは今だに勝手に健在。その私が今回のコンテンツで書くとしたらなに?ストラング先生しかないでしょ!というわけで力不足を承知で書いてみた。勝手な思い込みのところもあると思うが、若気の至り(笑)とご容赦いただきたい。 
 英語史ライヴの直前1カ月は、本来であれば英語史クイズやいろんな先生との出会いにそなえて英語史づけになる予定だったが、なんと日本史づけになってしまった。まさか、英語史をやってて日本史にハマるなんて(*_*;そんな思いをタイトルで表現したつもりだ。このように他分野の学びに飛んでいっていくのもheldioの魅力である。今後もumisio流に英語史をお茶の間に、いや様々な分野に広げるべく、応援、いやhel活していきたい。

【付録1】
 ちなみに、このストラングの「歴史にはじまりはない」とする視点は、全ての学問について言えるような気がする。例えば、もし物理学が、原子を最小単位として、つまり原子=「はじまり」を前提として、それを固定化して研究を進めていたらどうなっただろうか?
生命の誕生の謎しかり、人間の知に限界があることを踏まえれば、人間が「はじまり」を知っているという前提に立つことは危うい。今回の日本史のグダグダも「はじまり」を知っていたところに立つ、ある意味傲慢さが招いた結果とも言えそうだ。
 もちろん、このような問題を抱えているのは日本史だけではない。私の属する食の分野でも、人知をこえる「はじまり」を前提にして研究を進めたために、今になってあちこちに綻びを見せている学問分野もある。こちらは私たちの健康とも関係あるので、そこらあたりをしっかり見抜いていきたいものだ。

【後記2】
 日本史の史料主義はよく言われている。作家の井沢元彦氏は自著「逆説の日本史」シリーズでそれを「史料至上主義」として痛烈に批判してきた。「史料至上主義」とは、簡単に言うと、どんなにありえそうな事柄でも史料に残っていない限り歴史事実と認められない、とする姿勢である。実は、私自身、具体的にそれを知る機会があった。5年前、お客様から「最近、清め塩を見ないけどどうなった?あなたはどう考える?」という質問を頂戴し、ほぼ4年にわたっていろんな史料、書籍を読みあさることになった。「清め」には「穢れ」、特に「死穢」という概念が関わっているので、いつごろ「穢れ」が生まれたのか?などを念入りに調べたのだが、「史料にないからまだ穢れの思想はなかった。」とする日本史研究者の見解に多くふれた。もちろん、「史料にない」=「事実はなかった」ではない。こんな当たり前のことがなぜ日本史では通用しないのか?
 もしかしてこちら側にも何らかの視点が足りていないのでは?何が?
その何かとはストラングの言う「はじまり」に関係してないか?時系列的な記述方法、いや時系列的なものの見方も含めて検証が必要なのかも。なぜ日本史研究者は史料主義に陥ってしまったのか?何が彼らをそうさせてしまったのか?彼らの言動の背景を探ることが、史料主義とは異なる新しい歴史探究の姿勢を見つけることにつながらないだろうか。

ストラング「A History of English」20-21(hellog#1340から借用)
The principle of chronological sequence once adopted still leaves a choice --- to move forward from the earliest records to the present day, or back from the present day to the earliest records. Most historians have preferred to move towards the present day. Yet this is an enterprise in which it is doubtfully wise to 'Begin at the beginning and go on till you come to the end: then stop.' The most important reasons for this are clear in the very formulation of the King's directive to the White Rabbit, in the implication that there is a beginning and an end. Something begins, of course; the documentation of the language. But, however carefully one hedges the early chapters about, it is difficult to avoid giving the impression that there is a beginning to the English language. At every point in history, each generation has been initiated into the language-community of its seniors; the form of the language is different every time, but process and situation are the same, wherever we make an incision into history. The English language does not have a beginning in the sense commonly understood --- a sense tied to the false belief that some languages are older than others. / At the other terminal it is almost impossible to free oneself from the teleological force of words like 'end'. The chronological narrative comes to an end because we do not know how to continue it beyond the present day; but the story is always 'to be continued'. Knowing this perfectly well, one is yet liable to bias the narrative in such a way as to subordinate the question 'How was it in such a period'? to the question 'How does the past explain the present?' Both are important questions, but the first is more centrally historical. / In addition, the adoption of reverse chronological order imposes on us the discipline of asking the same questions of every period; this is salutary even where it does no more than force us to acknowledge our ignorance.

(参考図書)
heldio#656「現在から過去に遡る英語史」 hellog#1340#253#2720 「詳説 日本史B(平成28年文科省検定済)」(山川出版社)「詳説 日本史研究(2017年発行)」(山川出版社)「詳説 日本史史料集(2008年再訂版」(山川出版社)井上光貞監訳「日本書紀(下)」(中公文庫) 宇治谷孟「続日本紀(上)(中)」(講談社学術文庫) 「国史大系 続日本紀(前編)」(吉川弘文堂) E・H・カー「歴史とはなにか」(岩波新書) 坂本太郎「史書を読む」(吉川弘文堂)「日本の修史と史学」「日本歴史の特性」(講談社学術文庫) 遠藤慶太「六国史」(中公文庫) 大津透「律令制とはなにか」(山川出版社)森博達「日本書紀の謎を解く」(中公新書) ほか

なお、詳細版はこちら

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