「ネイティブを目指すべきか?」その2 「現場も知らんのに偉そうに…」は古今東西!

 初回においては、同じ建築業でも建築家と大工では求められる資質、技能は異なる、例えば、「釘をまっすぐ打つ」という技能は大工には必須でも、建築家にとっては「出来ることに越したことはないが、他にやることあるんと違う?」に過ぎない。というようなことを述べた。これを一般化するなら、一方のプロフェッショナルの世界で必須とされるものを一方のプロフェショナルの世界に求めることはナンセンスである、となろう。
 この一般法則を、英語界における「ネイティブを目指すべきか?」に当てはめてみると、通訳などの専門領域においては、「言わずもがなに目指すべきもの」となり、一般学習者や学校教師においては、「目指す(できる)ことに越したことはないが…。」となるはずなのだが(ここまでが前回の話であり私の結論だ。)、どうも英語界においては勝手が違うようだ。
 建築業界では、この一般法則はある程度共通認識となっている。「釘をまっすぐ打てなきゃだめか?」という問いかけに建築家が「果たして自分はどうだろう?」と振り返ることはないし、業界全体の問題ととらえることはなさそうだ。料理界、経営界など他の業界も同じのようなものだ。
 ところが、英語界においては、こうした問いかけ、即ち「ネイティブを目指すべきか?」という問いかけが英語に関わる者全ての人間に向けたものとして捉えられ、長年、英語界全体を揺さぶり続けている。他業界のように「一専門領域の問題。」とはなっていないのだ。
 では、なぜ英語界はこの問いに翻弄され続けているのか?

◯「釘をまっすぐ打てるべきか?」は現場の不満!? 
 しかし、その前に一つ、確認しておくべきことがある。建築業界においては業界全体を揺るがすほどではないにしろ、「釘をまっすぐ打てるべきか?」という問いそのものは存在するのではないか?少し回り道するようだが少しお付き合いいただきたい。
 ある自治体に勤務していたときの話だ。当時の首長が「後世に残る公共建築物を作る!」とのスローガンのもと、美術館、博物館、警察署、さらには公営団地、公園のトイレといった公共建築物を、国内外で実績のある建築家たち(伊東豊雄、磯崎新など)を招き、設計を委託、施工するという事業を始めた。みなさんもご承知のとおり、県営住宅、市営団地などに代表される公共建物は、機能並びにコスト一辺倒だ。当然ながら、思想とか未来へのビジョンなどはない。結果、シンプルかつどこにもある建築物が出来上がる。公共物だからと言えばそれまでだが、公共物だからこそ、市場や採算に左右されずに、理想の建築物、未来の住まい、暮らし方を提案するべきでは、という考え方も成り立つ。ともかく、そんな理念のもと行政、事業者、住民が議論を繰り返した後、事業がスタートした。
 しかし、鳴物入りでスタートはしたものの、建築物が建つにつれ、現場の施工業者から不満が出はじめる。「利用者のことを考えていない。」、「奇抜さだけが取り柄だ。」「机上の空論に過ぎない。」などなど。表現は色々だが、それらを一言で表現するなら、「現場も知らん人間が偉そうに。」である。今回の「釘一本も打てないようで…」はまさにこの「現場も知らん人間が…。」に通底する言葉として取り上げたのだ。
 この「現場も知らんと…」の類の言葉は、古今東西に存在するようだ。(「最近の若いもんは」と同じくらいに。)もっともイメージしやすいのは戦場だ。例えば、日露戦争の旅順攻撃における前線と参謀の関係などは典型だ。命のかかる前線で戦う兵士、その現場から離れたところで指示を出す参謀本部。どちらも大事な役割だが、現場では表に出さないまでも、不満、やっかみ、愚痴が溜まっている。
 たしかに、現場で斬新な設計図を施工するのに苦しんでいる現場が、現場から離れた快適な空間で仕事をしている建築家に対して不満を抱くのは想像できる。そうした不満は現場にマグマのように溜まって、ときおりあちこちで噴き上がる。よって、建築家サイドはそれを右から左に聞き流し、いわゆる「ガス抜き」をしながら両者の関係は維持されている。決して、そうした「現場も知らんと…」といった問いが存在しないわけではない。
 これは料理界や経営界でも同じである。献立を作る栄養士に対して、現場の料理人が「料理もよう作れん人間が」と不満を抱いたり、経営学者に対して現場の経営者が「理論のようにうまくいくはいかない。」と愚痴を言うことはざらだろう。そこにおいても、栄養士や経営学者が聞き流し、ガス抜きしながらすことによって両者の関係は維持されている。

◯「ネイティブ」問題は「現場の不満」と同じ?
 英語界における「ネイティブ」問題も「現場も知らんと…」とそれと同じようなものではないか?と言うのも、そこから浮かぶイメージは、学校英語を学んだ人間や教師に対して「ネイディブはそんな発音せえへんよ。」とチクリとやる場面。このイメージが「現場も知らんと…」と重なるのだ。しかしながら、なにしろ門外漢である。そんなときに英語ネイティブが抱いている気持ちがそれと同じようなものなのか想像できない。
 そんなとき、ちょうどマーク・ピーターセン著「日本人の英語」(岩波新書)を読んでいた。みなさんお馴染みの本だ。きっかけは、heldio#1290「保坂道雄先生との対談」である。そこで「冠詞」の文法化の話が出てきたのでこの本を思い出し、読み直そうと思ったのだ。そして、この本に対して私が抱いた感覚こそが、英語ネイティブの気持ちであり、英語版「現場も知らんと…」だ!と確信したのだ。
 次回に続く。


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