helwaコンテンツ 「英語史を勉強してると思ってい~た~ら🎶大化の改新でした😭ちっくしょう💢」by umisio大夫

 heldioを聴きはじめて2年半ほどになるが、過去もっとも私に衝撃を与えたのは#656「現在から過去に遡る英語史」である。聴き始めてすぐにピンとくるものを感じて、待ちきれずに途中でコメントした記憶がある。紹介されたのは、バーバラ・ストラング著「英語の歴史 A History of Engrish」(1970年)。
 ストラングはその著作において次のように主張する。多くの歴史家は「時系列的記述法」(古い時代から現在に向かって記述する方法)を好むが、優れているのは現在から過去を遡って記述する「訴求的記述法」であると。その理由として、(1)英語に始まりがないという事実を強調できる、(2)英語に終わり(目的)がないという事実を強調できる、という二点をあげている。(実はもう一点あるが、それは後ほど。)
 このストラングの主張を聞いた瞬間、ずっと気になっていた日本史のある単元を思い出た。そして、配信が終わるやいなや、2階に駆け上がり書棚にあった日本史教科書を引っ張り出し、その箇所を貪るように読んだ。「やはり、そう言うことだったのか!」
 あれから1年半。helwaコンテンツという機会をいただき、それ以降の格闘の様子をお届けすることとした。ストラングとの出会いによって歴史に向き合う姿勢について考え続けたこの1年半をお届けしたい。

(1)予備校の先生が「説明ムズッ」となる教科と単元
 まずは、みなさんにお尋ねしたい。大学の研究者、予備校の人気講師が説明に頭を抱える(いや、逃げ出すと言ってもいい)教科、単元があることをご存知だろうか?そんなものあるわけない!と言われるかもしれない。たしかに、どんな難問でもその道の専門家がきちんと準備していれば説明に頭を抱えるなんてことはないはずだ。
 と、言いたいところだが、それがあるのだ。日本史における古代の土地制度である。YouTubeで予備校のカリスマ講師が「いや〜この説明が難しいんですよね。」と必死に説明している姿を見たのは一度ではない。ごく最近では、NHKEテレ「高校日本史」に登場していた東大資料編纂所教授の本郷和人さんが、「荘園という土地支配のシステムは日本史の中でも理解するのが特に難しい。荘園をきちんと教えられると高校の日本史の先生ができる、と言われるくらい。」と述べた上で、「なるべく分かりやすく頑張って説明します。」と断っていたのが印象に残っている。もちろん、荘園は古代の土地制度の内にある。とにかく、ここ数年、いろんな教科を眺めてきたが、教える側がここまで自信なさげなのは日本史のこの単元くらいだ。
 この配信回を聴いてパッと浮かんだのがここである。なぜ浮かんだのか?とにかく、この単元、ちんぷんかんぷんでなのだ。専門家でもそうなのだから当たり前といえば当たり前なのだが…。
 まずもって、土地所有の流れが掴めない。豪族の私有地が突然、公地公民制とされて国のものになった(700年ころ)、と思ったらすぐに機能不全、いろいろ政策で取り繕ったあと、また荘園という私有地中心の世界に突入する(初期荘園780年ころ)。なんかジェットコースターに乗ったような感じで何が何だか分からない。
 そもそもスタートの「公地公民制」が納得できない。豪族がずっと持ってた土地をすんなりすんなり国(大王)のものにできるだろうか?有力豪族が黙っていないだろう。なのに反乱の記述はない。だから「公地公民制」なんてホントに実現したの?となった。
 実は、そんな酔狂なことに手を染めたのは、今から7年前、娘の大学受験を伴走したのがきっかけだ。日本史が苦手だった娘のために土地所有の流れをスケッチブックに書いて説明しようとしたが全く書けないのだ。とにかく、個々の出来事がつながらない。その上、継承関係(かつ包含関係)の不明な新名称が次々と現れるので混乱するばかり。根負けしてこの作業は中断。娘も大学に進学、以来ほったらかし。そんな私をストラングがたたき起こした、というわけだ。(注)

(注)高校日本史の分野からもう一つあげておく。「三世一身法(723年)」と「墾田永年私財法(743年)」が意味分からん。人口が増えて(これも?だが)口分田が不足したので、政府が「開墾すれば孫の代までは私有していいよ〜」と開墾を奨励する法令(三世一身法)を作ったというが、当時は田の売買は禁じられていたというし、開墾地からも租を取られるのなんら私有のメリットって何?私有期限の三代目に近づくと開墾地を放棄はじめたら「墾田永年私財法」を出したというが、それって「三世一身法」を出したわずか20年後だ。いくら当時が短命とはいえ20年で三世代に達するだろうか?しかもそれって「三世一身の法」を作る時点で予測できるはず。

 (3)ストラングの主張を少し掘り下げると…
 ここまで読まれると、「umisioさん!ストラングへの期待、高すぎじゃねっ?」と思われるかもしれない。が、いやいやそ決して高すぎじゃない。ということをお分かりいただくためにストラングの主張、「歴史にはじまりがない」を少し深掘ってみよう。
 実は、この主張、今の主流となっている「時系列記述法」とは真逆の考え方である。なぜなら「時系列記述法」には、ストラングのいう本来あるはずのない「はじまり」があるからだ。つまり、時系列記述法は、「はじまり」が存在して、それを原因として結果が生まれ、その結果が原因となって結果が生まれ…を繰り返して現代に至るのだ。
 そしてここからは私の勝手な深読みなのだが、歴史家というものは、この「はじまり」をできるだけ遠く(昔)に置こうとする。多少無理をしてもだ。なぜなら、「はじまり」が遠くなればなるほど歴史は厚みを増し、歴史家たちの活躍の舞台が増えるからだ。そこにリスクが生まれる。「はじまり」が遠くなれば検証がその分難しくなり、過度に史料に依存する体質ができあがる。(記録(文書)を証拠にすれば難しい検証を経ずに済む。)後で述べるが、現在日本史の歴史家たちが陥っているとされる史料主義だ。
 そうやって史料の検証を疎かにすることから、安易に「はじまり」が生まれ、ずっとそれに苦しめられる。仮に、あとから間違いが見つかっても「分かりました。早急に検討して直します!」とならないのが人情だ。まず、「はじまり」がなくなることは権威を失うことにつながる。さらに、「はじまり」は後につづく出来事の原因ともなっているので、その誤りを認めると、それ以降の全ての記述を見直さねばならない。もはや、単なる修正ではなく建て替えである。そうなるとどうだろう?「なんとかそのままでいけないか?」「何とか辻褄をあわせて対応できないか?」と考えるのが人情であろう。
 時系列的記述にはそんな危うさがある、とストラングは言ってるような気がするのだ。少々脱線となった。

(4)日本史教科書との再会
 ともかく、ストラングの主張を聴いて、私は高校日本史・山川出版社「詳説 日本史B」を引っ張りだして夢中で読み始めた。単元は「公地公民制」(写真中央あたり)。緑のマーカーの箇所だ。文章は次に抜き出しておこう。

646(大化2)年正月には「改新の詔」が出され、豪族の田荘・部曲を廃止して公地公民制への移行をめざす政策方針が示されたという。

 私が疑問に思っていた「公地公民制」である。それまでずっと豪族が所有していた田荘(土地)や部曲(人民)が一気に国のものになるだろうか?と私が疑問視した箇所だ。注目していただきたいのはこの下段にある注書きである。こちらも次に書き出してみる。

「日本書紀」が伝える詔の文章にはのちの大宝令などによる潤色が多くみられ、この段階で具体的にどのような改革がめざされたかについては慎重な検討が求められる。

 これには正直驚いた!文章の意味は分からないが(注)、要するにこの「改新の詔」は嘘だったかもしれないというのだ。となると「公地公民制」もあったかどうか分からないことになる。となると、私の疑問もそれほど的外れではなかった!と一安心。だが、この記述、おおいに問題である。

(注)お時間のある方はこの文章をじっくりお読みいただきたい。読み解けるだろうか?実は類する書籍のほとんどが同じように分かりにくい表現であったが、それらを総合すると、日本書紀の「改新の詔」は日本書紀が書かれていた当時の現行法である大宝令の中身をそのまま転記していた、という意味のようだ。なお、こうした執筆当時の時代の状況(法令など)が史料に反映されるとすれば、日本書紀をはじめとした史料の扱いは慎重でなければならないだろう。この注書きの問題点を箇条書きにすると、①根拠に疑義があるにも関わらず本文において歴史的事実とされている。②注書きにおける「…のちの大宝令などによる潤色が多く見られ」の部分の解読が不可能。③「潤色」は耳慣れない言葉であり、かつ曖昧で学術分野に相応しくない。何らかの意図を感じさせる。④日本書紀に対する史料評価が欠落。

(5)「仮説」の設定
 日本史教科書は、「公地公民制」の存在に疑義があるのを認めながら、なぜそれを注書き程度で済ませているのか?なぜ本文ではいまだ大手を振って歩いているのか?山川の日本史教科書といえば日本を代表する教科書である。その教科書がこのように矛盾のある記述をしているのだから、そこには何か大きな理由、日本史の闇みたいなものがあるのではないか?となれば、これは調べぬ手はない。私の知りたい意欲に一気に火がついた。

①私にとって仮説とはなにか?
 では、どういう段取りでその闇を探り当てていくか?上述した教科書の文章から推測すると、向かう相手ははぐらかそうとする気まんまんのように思える。だとするとただ漫然と読んでいるだけでは煙に巻かれて終わり、ってことになりかねない。こんなときは、何らかの方向性、出口が見えた段階で自分なりに仮説を立て、それを頭において読むことで必要な情報を浮かびあがらせることができる。モチベーションの維持も期待できる。自分の仮説が正しいのかを明らかにしたい!というモチベーションが作業のエンジンになる。得られる成果も向上させる。仮説を立てて進むことは、ロケット発射と似ている。仮説を装着することでロケットを高く打ち上げられる。もっとも、本体部分が軌道に乗ったらの仮説は不要となる。だから仮説には執着しないことが大事だ。

②挙証責任について
 さらに、仮説を立てる前に確認しておきたい。私は歴史のデフォルトは「分からない」であると考えている。これは教科書に載っている歴史事実でさえ真であるかは究極的には分からない、というスタンスだ。なにしろ今生きている人だれもそれを見ていない。その「分からない」ものの中から、考古学的史料や文献史料によって「分かったに近いもの」が現れてそれが記述されるにすぎない、と考えている。
 そして、「分かったに近いもの」であることを証明する責任があるのは、「分かったに近いもの」がある、と主張する人である。挙証責任だ。そして、「そんなこと分からない」と考えれば、彼らの証拠の一部をひっくり返せば済む。「分からない」ことを証明する必要はない。「ない」がデフォルトだからだ。
 例えば、殺人の容疑をかけられた場合。殺人を証明すべきは国(検察)である。容疑者側は検察側があげた証拠を覆せば良い。人殺しをしていないことを証明する必要はない。人は人殺しをしていない状態がデフォルトだからだ。これを司法の言葉にしたら「推定無罪」となる。UFOがいないと思う人は、UFOが存在するという証拠を崩せばよく、UFOが存在しないことを証明する必要はない。なぜなら、UFOはいないのがデフォルトだからだ。こんな当たり前の話をしたのは、日本史の古代の土地制度では、こうした挙証責任をひっくり返すような記述が少なくなく、はぐらかされるかもしれないからだ。

③仮説を立てよう
 というわけで、ここで仮説を立てることにするが、このあたりの日本史が苦手な方もおられるかもしれないので、このころの歴史を解説しながら仮説を立てることにしょう。解説といってもずぶの素人なので参考までにお願いしたい。
 聖徳太子や推古天皇の政治で知られる飛鳥時代のころは、まだヤマト政権は豪族と大君の連合政権のようなものだったが、中大兄皇子が大臣・蘇我一族を滅ぼした(とされる)「乙巳の変」を機に、大君を中心とした中央集権国家に大きく舵を切った(と言われている)。そのとき出された方針が「改新の詔」である(とされる)。この詔は中央集権国家を目指す決意表明のようなものであり、その冒頭にあるのが「公地公民制」である。「公地公民制」とは、これまで豪族たちが所有していた土地や人民を全て国のものにする、というものであり、これは中央集権国家となる第一歩となる。しかし、この「改新の詔」の根拠である日本書紀の記述が捏造(教科書では「潤色」と表現)であることが判明している(編纂する際に編纂当時の法令の文章を転記していた。)。にも関わらず、教科書や専門書のほとんどが、「公地公民制」を宣言したことは否定できないとの姿勢で一致している。(いつから実現したかは明確には言っていない。)
 さらに、日本の中央集権国家について語る上で欠かせないのが「律令制」である。「律令制」とは、中国の隋や唐における中央集権的国家システムのことだ。その基本にあるのが刑法である「律」と行政法である「令」であり、そこから律令制と呼ばれる。日本においてはじめて制定されたのが「大宝律令」(701年)とされるが、「律」も「令」もほとんど伝わっていない。(令の一部が後ほど作られた史料に記載があるのみ。)また、「大宝律令」ができた翌年、久しぶりの遣唐使が「大宝律令」を持参、国号も日本と変えているところから、唐に見せるために形だけ律令を作った可能性もある。当時の東アジア情勢を見ると、日本がそうやってでも国家としての体裁を持つことが必要だった可能性があり、この「律令制」すら本当に実態を備えていたか怪しいのだ。
 ではなぜ、歴史家たちはこれだけ根拠の怪しい「律令制」「公地公民制」が突然できたような主張を繰り返すのか?これをクリアするのにストラングの主張が活きてくる。
 現在主流の「時系列記述法」で日本史を記述するには、どうしても「はじまり」を置かねばならない。日本の政治の歴史を記述するには、中央集権政治のはじまりである「律令制」、「公地公民制」が存在しなければならない。当時の国際環境や史料の信用性を考えるとかなり不安な部分もあったが、「はじまり」がなければ日本史の記述ははじまらない。ええい、ままよ!「はじまり」は置かれ、日本史が完成した。
 しかし、日本史がスタートするやいなや、「改新の詔はなかった」など史料に次々と疑問が向けられた。もちろん、その多くは検討に値する指摘で本来であれば見直しすべきところだが、それを受け入れるとたちまち「はじまり」は崩壊、それ以降、いや日本史全体が瓦解しかねない。それだけは絶対に避けなければならない。そのためには律令制、公地公民制の成立は絶対に譲れない。ここさえ死守したら、その後は初期荘園(注1)になんとかつなげたらどうにかなる、という感じになったのでは?
 以上が今回の私の仮説である。(注2)

(注1)この辺りは日記や随筆をはじめとした国記以外の史料も存在しているので歴史事実として間違いなさそうだ。ここにうまくつなぐことが絶対条件。

(注2)妄想風仮説・教科書作りの現場を再現
 今から100年以上前。さあ、日本史の教科書を作ろう!となったのだが、当時主流の時系列記述でいこうとすれば、とにかく「はじまり」がなければ始まらない。「はじまり」はないか?「はじまり」といえば「律令制」だ。「律令制」の始まりを示す資料はないか?あった!日本書紀だ。これは日本最古の国記だ。政府が作ったことは間違いないので信用性は抜群。大化の改新のことも書いてある。これで立派な日本史の教科書ができるぞ!ところがその日本書紀がどうも怪しい。当時の国際情勢、国内情勢を考えると「張り子の虎」の可能性がある。つまり、見栄を張って先進国を装っているだけの可能性だ。これは海外の史料を探すなどよほど慎重に取り扱わないと…そうなると「はじまり」にするのは諦めるしかないか?「ちょっと待った!それでは日本史の教科書は作れない。」時系列で記述するのなら「はじまり」がないと始まらない。という意見に押され、「ええい、ままよ。」「えいやっ」で日本史に組み込んだ。こうして日本史教科書、日本史市場が出来たが「大化の改新はなかった」説を筆頭に、たびたび史料の信用性が槍玉に挙げられた。それらの声の多くは検証するに値するものだったが、いずれも異端として片付けた。なぜ?「はじまり」をなくしたら日本史が日本史ではなくなるからだ。また「はじまり」がなかった、誤りだったとなれば、それを起点として導き出された歴史的事実がドミノ倒しのように崩れていく。(原因→結果と進む時系列記述の宿命)それは絶対に避けなければならない。まずは大化の改新の詔が事実であるとの姿勢は堅持する。そして、歴史記述をなんとか初期荘園の成立までつなげていこう!という悲壮な決意を固めた。…そんなことがあったのかな〜と妄想。

(6)仮説検証(仮説をもとに日本史の記述をみていく)
 それでは、以上の仮説を頭に置きながら、この時代の関連書籍を次の項目に沿ってみていきたい。①現在の通説をなす歴史家たちの日本書紀をはじめとした国記、史料についての姿勢を示した記述、②同じく「公地公民制」「班田収授」についての記述、③同じく「律令制」についての記述、の順にみていく。

①国記、史料に対する歴史家たちの姿勢
 今回対象としている歴史事実の根拠とされるのは、主に日本書紀をはじめとした国記である。(注)この国記をどうとらえるか?どう評価しているかが今回の検証において重要になるので、「律令制」や「公地公民制」など個別の記述とは別に取り上げた。
 ここでは史料の取り扱い要領について改めて述べないが、文献史料の性質(当たり前、普段のことは記さない、紙は貴重であり何らかの意図がある場合に記録として残す、など)を十分踏まえるのは当然として、その史料を単独で読み取るのではなく、海外の史料などほかの史料と比較しながら読み取ることが欠かせない。と思うのだが…

1)坂本太郎・東京大学名誉教授
 坂本太郎氏(1901年~1987年)は、東京大学名誉教授、専門は日本古代史。日本書紀などの国記を研究。津田左右吉が「大化改新の研究」で日本書紀に対する史料批判を行ったのに対して大きな矛盾なければ容認する姿勢を表明。東大では国史学科、史料編纂所所長を兼任。教授としては国史概説、律令制度、令集解の購読などを担当した。1949年から1959年まで史学会理事長をととめた。この時代の記述においても引用頻度が高く、日本古代史に非常に影響力のつよい研究者だったのは間違いないだろう。今回は彼の著作のうち二冊を取り上げることにした。

〇坂本太郎著「史書を読む」(吉川弘文館)より
(a)「日本書紀は不思議な書物だということになる。堂々たる勅撰の史書でありながら、前後に矛盾があり、用字に不統一があるのを平気で見過ごしている。…史書として注意すべき点の一つは、後世の制度、いいかえれば選者の時代の制度をもってその昔にもあったかの如く書き記していることである。」(p8)
(b)「したがって、この書物(続日本後記)には良房の意思と善縄の思想とが、恐ろしいほど鮮やかに現れている。良房は政治的手腕に長けた傑物であるが、それだけに自己顕示欲の権化みたいな人である。」(p24)
(c)「日本書紀のような神話伝説も載せていなければ、中国史書の文の移植もない。確実な政府の材料によって知らされたものだから、その記事の真実性に疑問を抱いた人はあまりいない。今でも大学の史学科で古代史の演習テキストとして本書をつかうのが圧倒的に多いのは、そうした信用性の故であろう。」(p12)

〇坂本太郎著「日本の修史と史学」(講談社学術文庫)より

(d)「また編者はその史料を使うのに、一方にかたよらず、つとめて公平な態度をとり、諸説があって決定しがたい場合には、諸説をあげて読者の判断にまかせる、という学問的な方法によった。神代巻で一節ごとに異伝を「一書に曰く」として掲げたことは、古来初学者の口をそろえて賞賛するところである。…こんにちわれわれはこれらを比較対照して、どれが本来の伝承であるか、どういう改変が加えられたか、を推察することができる。まことにありがたい編者の配慮であった。(P32)
(e)(日本書紀の潤色について)それはつまり担当の編者の嗜好によって潤色がされたり、されなかったりであったことを示している。それも原史料がコンクリートな事実を記していると見られる百済・新羅関係の記事や、孝徳紀以降の日録風の記事に対しては、行き過ぎた潤色はない。(P34)
(f)「たとえば政府の日々の記録から取られたらしい天武・持統紀などの記事は、ほぼ確実な事実と認められ、『百済紀』『百済本紀』にもとづく半島との交渉関係の記事は、百済人の立場による日本人へのへつらいや独りよがりの部分を除けば、大体信用できるものとなり…」p35

 以上、坂本太郎氏の記述をみてきたが、彼の特徴は、①日本書紀に対する全幅の信頼、②史料評価をその史料単独で行いがち。③政府の記録であれば間違いない、とする形式的評価である。彼が長年、古代史において影響力を持っていたことを考えれば今回の「はじまり」関連の事態も予測できる。また、彼の研究対象が国記であることから国記への史料評価は甘くならざるを得ず、古代史の研究体制の不備がそこに感じ取れる。

2)遠藤慶太著「六国史―日本書紀にはじまる古代の正史」(中公新書)から

(a)「日本書紀は神話・伝承までも収録するため、その内容が史実であるか十分に用心しなければならない。とはいえ、7世紀以前の古代史を解明するうえで、日本書紀は避けて通れないことも事実である。なにより日本書紀の記述を完全に否定し去るだけの別の情報源は、現時点で誰も手にしていないからだ。」p4
(b)「内乱に勝利した天武の治世は…この頃になれば、「日本書紀」は政府の記録を利用したとみられ、記事の信頼性は一層高まる。」p26

 要するに「色々問題はあっても、他に史料がないのだから神話や伝承の箇所を除くとしても、信用していくしかないでしょ。」のようだ。これは例えるなら、殺人事件の裁判における証拠が、容疑者に恨みをもつ一人の証言しかない場合でも、「ほかに証拠がないのだから慎重に使うしかないでしょ。」と言っているのに等しい。歴史のデフォルトが「分からない」。史料に証拠能力、証明力がないのであればデフォルトに戻るしかなく、それ以降は、その史料を除外して研究を進めるしかないはずだが。

3)大津透「律令制とはなにか」(山川出版社)

 「律令制は実際には、7世紀後半の天智天皇、天武天皇のときにつくられていった。「日本書紀」は律令制の出発点を大化改新におく歴史観をとっているのである。」p10

史料に「歴史観」を持たせてしまったら、歴史家はいったい何を評価するというの?

(①全体に対する所感)
 六国史は天皇の指示によって編纂された国の歴史といわれる。もともと、紙の貴重な時代である。国記に天皇や編者の意図が入るのは想定内。実際、編纂を命じた天皇が特定の箇所の削除を命じることもあったという。(坂本「史書を読む」P16)であれば、よほど検証しなければ根拠として使うのは危険なのだが…。
 国記の信用性については、個人的にも以前から信頼性を疑うところがあった。称徳天皇や道鏡に対する記述、天武系の天皇に対して揶揄など、どうしてもその背景に編纂当時の権力者の意図が感じられる。権力者によって事実が捻じ曲げられることは十分あり得る。

②公地公民制、班田収授に関する記述を検証
 まずは、山川出版社「詳説 日本史研究」を取り上げてみたい。この本は先ほどご紹介した教科書「詳説 日本史B」の参考書版。受験参考書の定番である。

「翌646年(大化2)年元日、4か条からなる改新の詔を発したと「日本書紀」は記す。この詔の信ぴょう性については、さまざまな議論が起こっている。「日本書紀」に記載されたままの詔の存在は疑わしいが、その基となる原詔が出されて、(a)ある程度の改新の目標が示されてもおかしくない時代状況ではあった。ただし、(b)どこまでが原詔の姿を伝えているかは難しい問題である。(p57)」「(p58)(公地公民制について)この(c)当時このような改革を宣言したとは考えにくい。諸豪族の部曲・田荘の所有はかなり後まで認められているからである。」

(a)「ある程度の改新の目標が示されてもおかしくない時代状況ではあった。」とあるが、本来、史料が歴史的事実の根拠となるべきなのだが、ここでは歴史家が時代状況を斟酌して史料の正当性を示すというあべこべの事態となっている。このようなことをしてよいのであれば史料はどんな批判にも耐えられるが、そうなると史料ってなに?(b)「どこまでが原詔の姿を伝えているかは難しい問題である。」と留保するが「難しい」のであればデフォルトの「分からない」に戻るしかないはずだが…。(c)「当時このようは改革を宣言したとは考えにくい。」「諸豪族の部曲・田荘の所有はかなり後まで認められている。」は教科書と全く逆のことを述べているという意味で大問題である。豪族がまだ土地を所有していたとすれば「公地公民制」などなかったことになるからだ。これは別途検証が必要となろう。

さらに、大津透著「律令制とはなにか」(山川出版社)の記述を見てみよう。

「詔の文章はのちの大宝律令の条文をそのまま引用して修飾されていることがわかり、ここに述べられていることがすべて行われたとは考えられない。…その存在自体を否定する説もある。しかし難波宮という都が当時つくられたことが発掘でわかり、逆に地方には評というのちの郡のもとになる地方行政組織が孝徳天皇の大化年間に全国的につくられたことも明らかになったので、中央集権国家をめざして改革が行われたことは事実として認めるべきだろう。」

 実は、改新の詔については、こうした記述が目立つ。即ち、「条文が怪しいことは認めるが、いろんな状況をみれば改革が行われたのは事実。」という(a)と同じやり方に加え、論点を詔の存否から改革の有無にすり替えている。
 さらにもう一つ。私たちはこの古代の土地制度を理解する際に、人々の困窮の極みがあったと認識しているが、その根拠を代表する史料が、山上憶良の「貧窮問答歌」である。その史料についての記述を「詳説 日本史史料集」(山川出版社)に見つけたので紹介しておこう。「貧窮問答歌は,農民の生活を貧者と窮者の問答形式で詠んだもので、唐の王梵志の詩の翻訳とも言われ、必ずしも実態をそのまま描いたものではないが、作品を裏付けるような現実は存在したと考えるべきであろう。」(p31)。」

 これもまた先述したような論理、即ち史料はウソであるが想像すると現実はあった、という史料の役割を無視した論理が通っていることが分っかる。

(②のまとめ)
 以上、「公地公民制」に関する記述を検証したが、「それがあった」とするには以上のほかこのような点についても根拠を示す必要があるだろう。
 公地公民制が実際にあったのなら、班田の受け渡しなどに多くの実務作業が発生(帳簿、検分など)するはずだ。多くの官吏が必要となるし、彼らを現地に派遣しなければならないはずなのだが、そうした状況を表す史料を目にしていない。
 また、班田収授が実際に6年ごとに行われたなど当時の現実としてあり得るだろうか?6歳以上、女子は3分の2だとかそんな細かい対応ができただろうか?
 さらに、租は3%の地方税という。国が開墾を勧めるメリットあるのか?3%の租に対して膨大な人員と作業、果たして費用対効果は?人口増で口分田不足というが人口が増加したという根拠は確かなのか?人民の口分田を確保するために開墾地の私有化は効果ある?日本が模倣したという唐の均田法は広大な土地、正方形の土地区間が前提。日本で果たして可能だったのか?
 以上、公地公民制の箇所をみても私の仮説は成り立ちそうだ。

③律令制に関する記述を徹底検証

 今回、「律令制」を加えたのは、「公地公民制」とともに中央集権国家の基礎であるとともに、どちらも輸入先は中国、同じような方法で移入された可能性もあり、並行してみていくことで何かが分かるかもしれない?と考えたからだ。
まずは参考書である山川出版社「詳説 日本史研究」を見ていこう。

「刑部親王を総裁としえ新たな律令の編纂が進められ、701(大宝元)年、わが国において初めて律・令ともに備わった法典として完成した。これが大宝律令である。」そして、欄外の注書き①で「律は大宝律・養老律ともにほとんど伝わっていないが、唐律をほぼ全面的に引き写したものとされる。一方、令では養老令は「令義解」「令集解」によってほぼ全文を知ることができ、大宝令は「令集解」の引く「古記」によって一部推定することができる。」

 「法典として完成した。」としながらなんと「律」は現存しないと。しかも、唐律を「ほぼ全面的に引き写したものとされる」という。令については「令義解」「令集解」で知ることができるとするが、これらは50年以上も後のもの。改新の詔のよう編纂当時の条文で書かれているかもしれない。「ほぼ全部が分かっている」としてよいものか?

 次に、大津透著「律令制とはなにか」(山川出版社)をみていこう。大津氏は東京大学の日本古代史の研究者でありその活動ぶりから通説の一翼を担っているのは間違いない。仮説を検証する対象としては最適であろう。

 「律令制が唐の律令を輸入した法であることを前提に研究が進められる。」「 日本律令制は唐のそれとは大きく違っていて変更したところが多く、実は日本の独自性が強い」(p3)「このことは坂本太郎が1920年代に「『郡司の非律令的性格』という有名な論文の題に示している。律令国家の要となる郡司は、在地の豪族から採用され、官位相当がなく世襲・終身制であるなど、律令官僚制の原則から外れているとして、のちに提起される在地首長制論へつながっていく郡司制の特色をあざやかに指摘したものである。

 郡司には在地の豪族から任命したとみるか、豪族がそのままその郡司のような存在になったとみるか?この議論が見当たらない。律令制が定着する中で日本に合うように変化したのか?律令制はほとんど浸透してなかったとみるか?そのあたりの議論が見当たらない。

「大宝律令の完成直後、702年に大宝の遣唐使が派遣される。その大使である粟田真人も律令の選定に参加した一人だった。これは大宝律令によって新たに定めた国号「日本」を唐に承認してもらうことが大きな任務であった。(完成した大宝律令を唐に見せに行ったという説は無理だろう。)」p014

 大宝律令の作成に関わった重要人物がその完成の直後に遣唐使として派遣される、というのを認めながら「完成した大宝律令を唐に見せに行ったとするのが無理」と断言するのが理解に苦しむところだ。日本史の古代史の記述を読んでいると、こうして理由を示さずに断言する場面に会うたびに困惑する。

「平安時代の九世紀になって「律令の興り、けだし大宝に始まる」と述べているのが、大宝律令のもつ歴史的意義をよく表現している。「続日本紀」が…「文物の儀、ここに備われり」と「続日本紀」としては珍しく編者のコメントが付されていて、高らかに宣言しているのは律令国家が完成に達したことの自負であろう。」P13

史料自身が評価しているからと歴史家がその評価をそのまま歴史に取り込んでいいの?

「 日本の律令がたとえ中国と同じであってもそこから日本と中国(唐)とが同じような国家や社会であるという結論を導くことは誤りである。」P18

 これも今回よくみかけた記述である。律令制が日本で行われていたことを証明しないまま、日本に律令制があったとの前提で話を進めるのは裁判における誘導尋問と同じである。この箇所を読み進めてしまったら日本で律令制が行われていたことを認めたことになる、という罠ではないか?そもそも、日本と中国が同じような国家や社会であるなどだれが思うのであろうか?

「(日本では婚礼儀式は存在しなかったのに唐と同じような規定があることについて)しかし、日本の実態と大きく異なり、実現しなくても理想として意味があったろう。これを吉田孝氏は「大宝律令の施行は建設すべき律令国家の青写真をしたもの」で「あるべき目標」であると論じている。これを青写真論といっておく。」(p23)

 日本に実態のない分野に関する規定まで含まれていたとすると、唐の律令を写したのでは?と普通は考えるとこだが、「あるべき目標」であると解釈。「あるべき目標」で解釈してもオッケーであれば、もはや絵にかいた餅でも構わない、実際に施行されたかどうかは構わないということにならないだろうか?

(③のまとめ)
 以上、教科書、関連書籍の記述をご覧いただいたが、もはや私から言うことはないだろう。。私が立てた仮説、「はじまり」などなかった(正確にいえば「分からない」)、に概ねご賛同していただけたのではないか?そして、歴史家の彼らにここまで言わせるのは、強引に「はじまり」を作ってしまったことに端を発する、と言っていいだろう。。

 以下は、要約版と同じ内容である。

(7)「はじまり」がなかった場合の歴史記述を妄想してみる
 もっとも、「「はじまり」の弊害は分かった。でも、「はじまり」がなかったらどうやって記述するの?」と頭を傾げる方もおられるだろう。では、ここで実験的に歴史の記述に挑戦してみよう。あくまで一つの例として。根拠のない私の妄想である。
 大化の改新までのヤマト王権下では、一部の大王の土地や人民を除き、豪族たちが土地、人民を所有していた。それは「大化の改新」(645年)を経ても大きくは変わることはなかった。その後、少しずつだが中央集権化も進み、徐々に国の所有地も増え(公地公民)、一部では班田収授なども行われ、土地制度にも変化が生じた。豪族たちは郡司として律令制に組み込まれるようになり、土地の所有形態も徐々に変化、平安初期に荘園という独自の形態を生み出した、といった解釈はどうだろうか?一考の余地があるのでは。

以上、勝手な空想ではあるが、「公地公民制」という「はじまり」を取り払ったことで自由な解釈が可能になっていることにお気づきいただけるだろう。文献史料を後生大事にして(注)「はじまり」を見つけ、それにとらわれるのではなく(注)、常に現代から当時の出来事に思考を働かせながらそれを史料で裏付けていくことが大切なような気がする。

(8)ストラングが言いたかったもう一つのこと
 ここまで書いてきて思い出した。ストラングが「遡及的記述法」を優れているとする三つの理由のうち一つをまだ記していなかったことを。それは、「同じ質問を各時代の記述において繰り返すことを余儀なくさせ、現在の時点における我々の限界(無知)を思い起こさせてくれる。」である。「うーん、分かるようで分からない。」。しかし、今回の論考を終わるころには、そのストラングの主張とどこか近いようなものが私の中にできていたのでご紹介しておきたい。所詮門外漢の素人、単なる思い付きと思ってご笑納いただければ幸いである。

 過去から現代に向かって歴史を見ていくと、原因、結果、原因、結果とまるで歴史上の出来事が流れて進んでいるかのようにみえる。しかし、よく考えてみると、それらは真の出来事ではない。その時代に起こった多くの出来事の中から、そこにハマると思われるものがピックアップされただけ。よって、出来事をつながりの状態ではなく、一つ一つを個別にしっかりと見ておくことが大事になる。

しかし、その際、「時系列記述」と「遡及的記述」で大きな違いがでてくる

「時系列記述」の場合は、「はじまり」から記述がはじまる。そして、その「はじまり」が原因となって次の結果を生みまれ、その結果が原因となり…と歴史を作り上げるので、「はじまり」は徐々に薄くはなるものの、全ての出来事の記述に影響を与えることになる。しかも、「はじまり」は現代の私たちに超然として存在するので、現代の私たちが「はじまり」を無視して、流れの中の一つ一つの出来事に言及することはできない。

 これに対して、「遡及的記述法」は現代から過去に遡っていく記述法である。現代の出来事の原因を過去に求め、その原因からさらに原因を追究していく。〇〇が起こった原因は?では、それが起こった原因は?と、どんどん遡っていく。その際、やはり「時系列的遡及」と同じように出来事の一つ一つについて目を向けておくのだが、そのときの目は現代の視点のみ。「時系列的記述法」のようにだれかに作られた「はじまり」に拘束されることはない。よって、過去に遡れば遡ぼるほどぼやけて見えなくなるが、それを「分からない」とみること自体が現代におけるその出来事の認識となるので、それはそれで価値があることになる。
 以上、自分自身途中で何が何だか分からなくなった部分もあるが、おかしいところはご容赦いただき、ニュアンスを受け取っていただけたら嬉しい。

コンテンツの本文は以上である。長い時間お付き合いいただき感謝。

 さて、これまでの人生で英語と全く縁のなかった私がheldioと出会い、こうやって英語史の泰斗・バーバラ・ストラングの本に(一部分ではあるが)必死に取り組んでいるのは何とも不思議な光景である。しかし、多少なりとも歴史に関心のあった私にとってこの本の著書バーバラ・ストラングは私の師ストラング先生となった。英文の読解力など遠の昔にどこかに置き忘れてきたが、ストラング先生の言葉は私をこの1年半、とらえて離さなかった。その成果がこの論考である。出来はどんな具合でしょうか?ストラング先生。まさに、ときと場所を越えて文字でつながった1年半であっあ。
 さて、「英語史をお茶の間に届ける」、最初にこの言葉を聴いた瞬間、「ビンゴ!」とコメントしてからもうすぐ2年。この間、B&C精読への参加、その際の川上さんへの質疑応答などで多少の読解力はついたかな?と思いながらもまだ高校卒業レベルには未到達。だからこそ「オレがheldioを聴かずしてだれが聴く」のスタンスは今だに勝手に健在。その私が今回のコンテンツで書くとしたらなに?ストラング先生しかないでしょ!というわけで力不足を承知で書いてみた。勝手な思い込みのところもあると思うが、若気の至り(笑)とご容赦いただきたい。 

【後記】 
 英語史ライヴの直前1カ月は、本来であれば英語史クイズやいろんな先生との出会いにそなえて英語史づけになる予定だったが、なんと日本史づけになってしまった。まさか、英語史をやってて日本史にハマるなんて(*_*;そんな思いをタイトルで表現したつもりだ。このように他分野の学びに飛んでいっていくのもheldioの魅力である。今後もumisio流に英語史をお茶の間に、いや様々な分野に広げるべく、応援、いやhel活していきたい。

【付録1】
 ちなみに、このストラングの「歴史にはじまりはない」とする視点は、全ての学問について言えるような気がする。例えば、もし物理学が、原子を最小単位として、つまり原子=「はじまり」を前提として、それを固定化して研究を進めていたらどうなっただろうか?
 生命の誕生の謎しかり、人間の知に限界があることを踏まえれば、人間が「はじまり」を知っているという前提に立つことは危うい。今回の日本史のグダグダも「はじまり」を知っていたところに立つ、ある意味傲慢さが招いた結果とも言えそうだ。
 もちろん、このような問題を抱えているのは日本史だけではない。私の属する食の分野でも、人知をこえる「はじまり」を前提にして研究を進めたために、今になってあちこちに綻びを見せている学問分野もある。こちらは私たちの健康とも関係あるので、そこらあたりをしっかり見抜いていきたいものだ。

【後記2】
 日本史の史料主義はよく言われている。作家の井沢元彦氏は自著「逆説の日本史」シリーズでそれを「史料至上主義」として痛烈に批判してきた。「史料至上主義」とは、簡単に言うと、どんなにありえそうな事柄でも史料に残っていない限り歴史事実と認められない、とする姿勢である。実は、私自身、具体的にそれを知る機会があった。5年前、お客様から「最近、清め塩を見ないけどどうなった?あなたはどう考える?」という質問を頂戴し、ほぼ4年にわたっていろんな史料、書籍を読みあさることになった。「清め」には「穢れ」、特に「死穢」という概念が関わっているので、いつごろ「穢れ」が生まれたのか?などを念入りに調べたのだが、「史料にないからまだ穢れの思想はなかった。」とする日本史研究者の見解に多くふれた。もちろん、「史料にない」=「事実はなかった」ではない。こんな当たり前のことがなぜ日本史では通用しないのか?
 もしかしてこちら側にも何らかの視点が足りていないのでは?何が?
 その何かとはストラングの言う「はじまり」に関係してないか?時系列的な記述方法、いや時系列的なものの見方も含めて検証が必要なのかも。なぜ日本史研究者は史料主義に陥ってしまったのか?何が彼らをそうさせてしまったのか?彼らの言動の背景を探ることが、史料主義とは異なる新しい歴史探究の姿勢を見つけることにつながらないだろうか。

ストラング「A History of English」20-21(hellog#1340から借用)
The principle of chronological sequence once adopted still leaves a choice --- to move forward from the earliest records to the present day, or back from the present day to the earliest records. Most historians have preferred to move towards the present day. Yet this is an enterprise in which it is doubtfully wise to 'Begin at the beginning and go on till you come to the end: then stop.' The most important reasons for this are clear in the very formulation of the King's directive to the White Rabbit, in the implication that there is a beginning and an end. Something begins, of course; the documentation of the language. But, however carefully one hedges the early chapters about, it is difficult to avoid giving the impression that there is a beginning to the English language. At every point in history, each generation has been initiated into the language-community of its seniors; the form of the language is different every time, but process and situation are the same, wherever we make an incision into history. The English language does not have a beginning in the sense commonly understood --- a sense tied to the false belief that some languages are older than others. / At the other terminal it is almost impossible to free oneself from the teleological force of words like 'end'. The chronological narrative comes to an end because we do not know how to continue it beyond the present day; but the story is always 'to be continued'. Knowing this perfectly well, one is yet liable to bias the narrative in such a way as to subordinate the question 'How was it in such a period'? to the question 'How does the past explain the present?' Both are important questions, but the first is more centrally historical. / In addition, the adoption of reverse chronological order imposes on us the discipline of asking the same questions of every period; this is salutary even where it does no more than force us to acknowledge our ignorance.


(参考図書)

heldio#656「現在から過去に遡る英語史」 hellog#1340#253#2720 「詳説 日本史B(平成28年文科省検定済)」(山川出版社)「詳説 日本史研究(2017年発行)」(山川出版社)「詳説 日本史史料集(2008年再訂版」(山川出版社)井上光貞監訳「日本書紀(下)」(中公文庫) 宇治谷孟「続日本紀(上)(中)」(講談社学術文庫) 「国史大系 続日本紀(前編)」(吉川弘文堂) E・H・カー「歴史とはなにか」(岩波新書) 坂本太郎「史書を読む」(吉川弘文堂)「日本の修史と史学」「日本歴史の特性」(講談社学術文庫) 遠藤慶太「六国史」(中公文庫) 大津透「律令制とはなにか」(山川出版社)森博達「日本書紀の謎を解く」(中公新書) ほか 

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