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【小説】遠いみち⑥

昭和30年春――。

 ようやく寒さが緩んで、河原の土手に菜の花が咲きはじめた頃、姉さんから報せがあった。母さんの具合が、いよいよいけないらしい。私はひどく動揺してしまい、何も手につかない。
 実家を出てこの家に嫁いでから、まだ半年も経っていなかった。毎日の暮らしに追われて、この時まで私には、母さんや姉さんのことを考える余裕もなかった。

 訳を話すと、お義母さんは
「それはいけない。すぐに帰っておあげなさい」
 と言って、汽車賃のほかに土産代まで持たせてくれた。
 あれほど帰りたかった実家なのに、そして大手を振って帰れるというのに、私は今、ちっとも嬉しくない。ただただ母さんが心配で、間に合わなかったらどうしようと、そればかりが気になった。こんなことなら、嫁入りなんてしなければ良かった、とさえ思った。

 昭さんはハイヤーを呼んで、駅まで乗せてくれると言う。
 表通りでハイヤーを待っている時に、昭さんは
「あまり長くならないように」
 と、ポツリと呟いた。
 私は驚いて、昭さんを振り返る。昭さんは、言ってしまってから後悔したみたいで、酷く照れて、私と目を合わそうとしない。
 ――長くは離れていたくない、という意味なのかな⋯⋯。
 不安で不安で、張り裂けそうだった私の胸に、ポッと小さな灯りがともった。ついさっきまで「こんなことなら、嫁入りなんてしなければ良かった」などと思っていたくせに、私は思わず顔が赤くなる。
 ようやく到着したハイヤーに、私は慌てて乗り込んだ。


 丸一日かけて懐かしい実家に帰り着くと、私の祝言に来てくれた時とは別人のように、病みやつれた母さんの姿があった。頬がげっそりとこけて、顔色も悪くて生気がない。母さんがもう、さほど長くないのは、誰の目にも明らかだった。
 姉さんも心なしか痩せて、目を赤く腫らしている。私は涙が出そうで、何も言うことができなかった。

「和ちゃんかい?」
 と、母さんは薄目を開ける。私が
「そうだがぁ。和子だがぁ。帰って来たんよ」
 と言うと、うん、うんと頷いて見せる。
「あんの人らぁは、ようして、くれんさるんかいねぇ?」
 か弱い声で、そう尋ねる。
「お義母さんも昭さんも、ようしてくれんさるんよぉ。みぃんなぁ、ええお人ばっかりじゃぁけぇ。母さん、何にも心配はいらんのんよ」
 私には、そう言うのが精一杯だった。
 決して心配させたり、悲しませたりしてはいけない。私は実家へ向かう汽車の中で、強くそう心に決めていた。
 母さんは安心したように何度も、うん、うん、と頷く。母さんの閉じた目尻から一筋、涙がこぼれた。

 私の顔を見てからというもの、母さんは何とか持ち直し、それから一週間ほどは小康状態が続いた。このまま良くなって、以前のように元気になることはないにしても、起き上がってお粥を啜れるほどには回復した。これにはお医者さまも目を丸くしていて、「病は気の持ちよう」とは、よく言ったものだと思う。

 もう一日、もう一日、と滞在を引き延ばしている間に、瞬く間に二週間が過ぎた。そしてとうとう「スグカエレ」という電報が届いた。電報は昭さんの名前で届いたけれど本当は、お義母さんが痺れを切らしておられるのかも知れない。
 私は、母さんの側に付いていてあげたい気持ちと、早く帰って昭さんの顔を見たい気持ちとの両方で、自分でもどうしていいのかわからなくなった。

「早う帰りんさい。旦那さまが待っとらぁさるんじゃろ。いつまでも、留守にしたらいけん」
 そう姉さんに諭されて、私は仕方なく汽車に乗った。
 たぶんもう二度と、母さんに会うことはできないだろう。そう考えると、汽車の中でも涙が出た。人に見られないように手で顔を隠して、私は窓の外ばかり見ていた。



 私が婚家に戻って三週間ほどした頃、恐れていた訃報が届いた。もう涙は出なかった。ただ、心が空っぽになったような気がした。

「親の死に目に会えなかったのは、残念なことでした」
 お義母さんは、淡々と言われる。
 ラッパを鳴らして、表を豆腐売りが過ぎていく。お夕食の準備にかからなければならない時間だった。
「でもね、冷たく聞こえるかも知れないけれど、いつまでも引きずっていちゃいけない。わかっていると思うけれど、あなたはもう、このうちの跡取りの嫁なんだよ。どうか昭さんに尽くしてあげて頂戴」
 そう言われると私には、返す言葉もなかった。不意に心がしぃんとした。お義母さんもまた、親を亡くし、実の娘までも亡くし、それでも嫁として母として、歯を喰い縛って来られた日々があったのだ。

 私にはもう、父さんも、母さんもいない。帰る家もない。
 姉さんはいつだって優しく迎えてくれるけれど、陰でとても義兄さんに気を使っているのを私は知っていた。
 私には、ここより他に身を寄せるところはない。この街に、この家に、骨を埋めるしかないのだ。お嫁に来た当初よりも、母さんを亡くした今、私はことさらにそう思った。

 商店街の人たちは、私のことを若奥さんと呼んで親しくしてれた。時には、野菜やお肉をおまけしてくれたり、かき餅や、干し柿なんかを、そっと一緒に包んでくれたりもした。
 大きな街の見知らぬ人たちも、慣れて、馴染んで、付き合ってみると、気さくで親切な人が多かった。私は少しずつ、新しい街の、新しい暮らしに慣れていった。

 やがて短い春が終わり、雨の季節が訪れた。来る日も来る日も、どんよりとした雲が広がり、洗濯物を乾かすのに難儀する。
 そんなある日、私は妊娠していることに気付いた。

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