【小説】遠いみち⑧
早春に生まれた千紗は、風邪一つひくことなく、よくお乳を飲み、よく眠り、順調に大きくなっていく。
産褥の面倒を見てくれた賄い婦のしげさんに、三月ほど居てもらってから、ようやく私は床上げした。
これまでは、お義母さんが一手に引き受けてくれていた、お金の管理や月々の支払い、親戚やご近所とのお付き合いといった、この家の主婦としての仕事がすべて私の役目となった。
千紗をおぶいながらの家事は思ったよりも大変だったけれど、私は、体を動かすことはちっとも苦にはならない。少しくらい眠らなくても平気だったし、洗濯を終えた何枚ものおしめが風に、はためいているのを見るだけで気持ちが良かった。ともかく私は、やる気に満ち、とても張り切っていた。
こうして昭さんと私、千紗、花枝さんの新たな暮らしがはじまった。
千紗が生まれてから「おめでとう! おめでとう!」の祝福ムード一色だったけれど、それらが一巡して少し落ち着いてくると、今度は誰からともなく、
「次こそは、男児を生まないとね」
という声が聞こえはじめた。
まだ立って歩くこともできない千紗を前にして、この人たちは何を言っているのだろうと、当初、私は気にもとめなかった。けれどもそれはどうやら、冗談や何かではなかったらしい。
家が事業をしている以上、跡取りの男児を生むことは、嫁として必ず果たさなければならない務めなのだそうだ。お義父さんの弟妹である叔父さんや叔母さん、ご近所の誰それまでもが皆こぞって、そう口を揃える。
「一姫二太郎というから、次はきっと男の子が授かるよ」
と、賄い婦のしげさんも無邪気に笑う。
昭さんは何も言わなかったけれど、子どもの名前の候補の中には男の子の名前がたくさん書かれていて、やっぱり男の子を望んでいたのかな、と私はぼんやり思った。
年が明けて、昭和32年のお正月を迎えた。
思えば一年前の年末年始には、お義母さんも健在で、子どもが生まれるのを楽しみにされていた。あれから、あっという間の一年だった。
お正月を過ぎるとすぐに、お義母さんの一周忌法要をつとめることになっていた。
法要の日、お義父さんは、別の家で一緒に暮らしている女の人と、20歳ぐらいの青年を連れてきた。
その女の人には見覚えがあった。お義母さんのお葬式に、焼香に来ていた人だ。その人は、一目で花柳界の出身とわかるような、華のある艶やかな風貌だった。目鼻立ちがはっきりとしていて、口紅の赤が引き立つ。そんな年の息子がいるようには、とても見えない若々しさだった。
「紹介するよ。道子だ。こっちは息子の治。これを機会に、籍に入れようと思っている」
お義父さんは落ち着いた様子で、淡々とそう話した。それは相談しているのでも、許可を求めているのでもなく、決まったことをただ報告している、といったふうだった。
「息子の昭と、嫁の和子、孫の千紗と、養女の花枝だ。花枝はこの春、高校を卒業したら、うちの会社で事務をやることになっている」
と、お義父さんは順に紹介をする。
私は千紗をあやしながら、ぺこりと頭を下げた。昭さんと花枝さんは、じっと俯いている。
新しい姑となる道子さんは、私と千紗を真っ直ぐに見て、愛想のいい笑みを浮かべた。
「まぁ、かわいい、ややさんだこと。女の子だね。何か月?」
「10か月になります」
道子さんは頷いて、千紗の小さな手を触ろうとする。けれどもこのところ、やけに人見知りの激しくなった千紗が、私の胸に顔を埋めて泣き出してしまったので諦めて手を引っ込めた。
そして今度は、花枝さんのほうを振り向くと
「うちの治もね、春から会社で、ご厄介になるの。花枝さん、どうぞよろしくね」
と、人懐こく微笑んだ。
道子さんはとにかく愛想がいい。長年、忍んできた女性が、ようやく正妻としてお披露目されたのだ。きっと晴れやかな気分だったのだろう。これが、先妻の一周忌法要の席であることを忘れてしまったかのように、道子さんは笑顔を見せて快活に話した。
「ゆくゆくは、昭さんと一緒に会社を任せてもらって、盛り立てていくことになると思うけれど、まずは仕事を覚えなくちゃ、ならないからね」
道子さんは、誰にともなくそう言ってから
「昭さん、どうぞ、この治を一から仕込んでやってくださいな」
と手をついて頭を下げた。隣に座っていた治さんも、慌てて頭を下げた。
昭さんは、ずっと黙っていた。
以前私の家に挨拶に来た時のように、聞かれたことには「ええ」とか「はい」とか答えるけれど、後はずっと黙っている。そうして時折り膝の上で、拳をきつく握りしめている。昭さんがとても不愉快に思っていることは、間違いなかった。
春になって高校を卒業すると、花枝さんは『昭和創業』に正式に入社して毎朝、隣の事務所へ出勤するようになった。けれども、仕事の途中でしょっちゅう抜け出して帰って来ては、千紗を構ってばかりいる。
「周りに示しがつかないから、もうちょっと真面目に働け!」
と、昭さんにたしなめられても、やっぱりすぐに抜け出して来た。
対照的に治さんは、真面目な性格で決して手を抜いたりはしない。けれども天性のものなのか、物覚えも要領も悪くて失敗が続いていた。治さんは真っ青になって謝るけれど、古くからの社員さんの手前、簡単に許す訳にもいかない。
昭さんは妹と、突然できた弟に手を焼き、神経を擦り減らしているようだった。
その年の夏の盛りに、私は第二子となる子どもを生んだ。生まれた子どもは、またしても女の子だった。
私にとってはもちろん、男でも女でも変わりなく大切な子どもだった。昭さんもまた、嬉しそうに抱き上げてくれた。
そうしてこの子を「恵利」と名付けた。
ところが心なしか、親戚やご近所からは、千紗が生まれた時ほどには祝福されていないような気がした。
「二番目、三番目ともなれば、みんな、そんなもんですよ」
と、今回もお願いした、賄い婦のしげさんはケラケラと笑う。
そして
「だけど次こそは、跡取りの男児を生まないとね」
と屈託ない笑顔で付け足した。
その言葉は一際、大きな声となって私に響いた。自分でも気付かないうちに、私の心の中に「次こそは」という気持ちが芽生えはじめていた。
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