【小説】遠いみち⑫
昭和39年春――。
オリンピックの開催を秋に控えて、高速道路や高層ホテルの建設工事が進められ、日本中が早くもお祭りのようだった。幹線道路はもちろん、近所の通りまでもが、次々にアスファルト舗装されていく。秋には、夢の超特急が開通するという話だ。
『昭和創業』も、5階建てのビルに建て替えようという計画が進んでいた。そうなると私たちは、会社と住まいとを完全に分けて、どこか新しい家に引っ越さなければならない。
この春、恵利が小学校に上がり、千紗は3年生に進級した。
会社運営については何度も話し合いが持たれ、結局この春から、お義父さんが取締役会長に、昭さんが取締役社長に就任することで決着した。
治さんは専務取締役となり、より一層、経営に参加するという条件で、道子さんも渋々、了承した。女手一つで治さんを育ててきた道子さんにとっては、どうしても譲れないことだったのだろう。
昭さんの苦労はこれで終わったわけではなく、むしろ社長に就任してからのほうが大変だった。
お義父さんは相変わらず、大きな契約を取ってはこられるけれど、不明瞭な交際費も桁違いだ。差し引きすると、利益はほとんど残らない。お義父さんと治さんの言い争いは、いつもお金のことが発端だった。
年が明けて節分が過ぎた頃、私は妊娠していることに気付いた。
この前の流産から3年近く経っていた。できればもう一度、子どもを授からないだろうか、と密かに願ってはいたけれど、気管支喘息が良くなったり、悪くなったりしていて、なかなか恵まれなかった。
あの子だ、と私は思った。
私にはわかる。きっとそうだ。間違いない。
あの子は、これまでに二度、私のお腹の中に宿ってくれた。それなのに前回も、その前も、この腕に抱いてやることができなかった。
悔しくて、悲しくて、もう一生分の涙が流れてしまったんじゃないかと思うほど、あの時は辛かった。
もう一度、あの子はやって来てくれたのだ。なんてありがたいんだろう。私は思わず、この子をありがとうございます、と神様にも仏様にも、そして先に亡くなった父さんや母さん、お義母さんにも、心から感謝して手を合わせた。
けれどもお医者さまは、どういう訳か渋い顔をした。
「まあ、しばらく様子を見てみましょう。妊娠を継続できるかどうかは、それから判断しましょう」
様子を見る? 妊娠を継続? 判断する?
私が押し黙っていると、お医者さまは
「妊娠中や、お産の時にね、大きな喘息発作が起こってしまうと、命に関わるんですよ。子どもはもちろん、お母さんの命も危ない」
「大丈夫です! 私は決して、発作なんか起こしませんから! 何としても、発作なんか起こしませんから⋯⋯」
私はそう、必死で言い募った。知らぬ間に涙が頬を伝う。
喘息発作というものが、自分の意志でどうにかできる訳ではないことくらい、私にもわかっていた。それでも、言い張らずにはいられなかった。
どうしても、今度こそ、この子をこの腕に抱くのだと、私はもう決めていたのだから。
私は、誰に説得されても従わなかった。
考えてみれば今まで、これほどまでに我を通したことはない。学校も、就職も、結婚も何もかも、周りの人たちに従って、私は生きてきた。
これは、私が自分の意志で決めた、生まれてはじめての大きな決断だ。たとえ自分の命と引き換えでも構わない。私の決意は固かった。
私の気持ちが強かったからか、単なる偶然なのかはわからないけれど、妊娠中を通して大きな発作が起こることもなく、赤ん坊は順調に、大きく育ってくれた。安定期を過ぎて、大きなお腹をそっと撫でながら、私は心底ホッとした。
千紗と恵利も、随分と聞き訳が良くなって、
「もうすぐ赤ちゃんが生まれるのよ」
と学校の先生やお友達に話すほど、楽しみに待ってくれている。
昭さんも、赤ん坊が生まれるのを心待ちにしていた。はっきりと口にはしないけれどやっぱり、今度こそは男児を、と期待しているようだった。
お腹の子は時折り、勢い良く動いてピョコンと足が飛び出たり、ヒックヒックとしゃっくりしたりしている。そのどれもが、私には愛しかった。
このお腹の中に、確かに命が息づいている。私は何だか、とても不思議な気がした。
この子は、遥かな遠いみちを通って、私たちの元へやって来た。
いや、この子だけじゃない。千紗や、恵利だってそうだ。
私や姉さんも、昭さんも、治さんも、みんなそれぞれの、遥かな遠いみちを通ってお母さんのお腹に宿り、こうして生を受けたのだ。
私はただただ、幸福だった。私の母さんが、そのまたお母さんがそうであったように、とても心が満たされていた。
やがて、お医者さまの危惧した通り、私はこれまでで一番大きな喘息発作を引き起こした。
これまでにない苦しみと激しい痛みの中で、何度も意識が遠くなる。それでも、命の危機を奇跡的に乗り越えて、帝王切開の緊急手術の末に、赤ん坊は産声を上げた。私の命も、赤ん坊の命も、大きな力によって救われた。
こうしてようやく巡り会えた赤ん坊は、目元も口元も昭さんによく似た、とても元気な女の子だった。
「ご主人ね、泣いてらしたわよ。男でも女でも構わない。奥さんが無事で、赤ちゃんも無事で、本当に良かったって」
さっき看護婦さんが、こっそりと耳打ちしてくれた。
私は、それを聞いて胸が一杯になった。
お嫁に来て間もなかった頃の、お義母さんや花枝さんのことを聞いた日のことが、不意に思い出される。私はあの日、この人に家族を作ってあげるんだ、と意気込んで思った。子どもをたくさん生んで、昭さんに本当の家族を作ってあげるんだ、とあの日、私は心に決めたのだ。
「この子の名前なんだが、考えがあるんだ。千紗も、恵利も、本当にいい子に育ってくれた。俺にとっては、どちらも宝物だ。だから、千紗の『ち』と、恵利の『え』を取って、千恵と名付けようと思う」
昭さんは、赤ん坊の顔を覗き込んで、微笑みながらそう言う。
ちえ、ちえ、ちえ。私は声に出して、何度も言ってみた。何て、かわいらしい名前なんだろう。この子には、もうこの名前しか考えられないような気がする。
「そうですね。私も、千恵が、ええと思います」
生まれたばかりの千恵は、大きな大きな声で泣いた。
それはまるで、どこか遠い異国の教会の、カランコロンと一斉に鳴り響く、祝福の鐘の音のように聞こえた。
了