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Bling-Bang-Bang-Born
「親の過干渉が、一番いけないんです!」
と、YouTube の人が力説している。
……アレをしなさい。コレをしなさい。
……ソレをやっちゃダメ。ソコへ行っちゃダメ。
「とにかく親が口を出し過ぎる。それでは子どもは、何の経験も積めない」
「その通りだよなぁ……」と深く頷く一方で、私の心には、割り切れない思いもふつふつと沸き上がってくる。
私は、親から関心を持たれなかったり、適切なケアがなされないことの痛みだけはよく知っていた。だからその反動で自分が親になった時、子どもへの干渉が過ぎた面は否めない。
また自分の過去のトラウマと、目の前の危険とを混同して「子どもが傷つかないように」と、先回りし過ぎたことも多々あっただろう。
子育てしていた当時は、「傷ついたインナーチャイルドを癒すことが先決」などという、発想も知識もなかった。
無関心で放置することと、愛情をもって見守ることとは、決定的に違う。見守ることの大切は、当時の私にだってよくわかっていた。
けれども、発達に応じた適切なアドバイスと子どもを壊してしまう過干渉な口出しとはすぐ隣にあって、うっかりすると知らぬ間にラインを踏み越えてしまう。
一人一人の個性を見極めて、その子に応じた声掛けをし、あるいは自発的に動こうとするまで辛抱強く待つ。
子どもを産んだ途端に私たちは、そんな繊細な業務を、完璧に遂行しろと要求されるのだ。
そもそも私たちは、一度も、誰からも、「子どもの育て方」なんて教わっていない。親から子へ、当然のように受け継がれていくものとして、「子育て」は事実上、各家庭に任され、放置されてきた。
そうすると、不適切な環境で育った人は、知らない間に負の連鎖をしてしまう。自分の成育歴に無自覚であればなおさら、気付くことはとても難しいだろう。
……だから、うまくできなかった過去の自分を責めるのは、もうやめてもいいんじゃないかな、と思うのだ。
義務教育で「男女は平等」と教えられてから、昭和、平成を生きた私たちの人生は、いつも矛盾とともにあった。
「平等」であるはずなのに、どこにでも歴然とした「差別」や「格差」があった。
私自身もまた、時代の波に押されるように自己実現を願いながら、その一方で、タイトスカートとハイヒールの女性をカッコいいと思ってきた。
また、男性に車で送迎されて、エスコートされる女性に憧れてもいた。
折れそうなピンヒールのパンプスを、何十年ぶりに箱から出してみる。あれほど気分が上がった華奢なフォルムは、今見ると、危なっかしくてとても履けない。
……そういう訳で、身の丈に合ったウォーキングシューズを買おうと思う。
自分の足で歩くために。
私は、私の行きたいところへ行こう。
もうすぐ春がやってくる。
鏡よ鏡 答えちゃって
Who's the best? I'm the best! Oh yeah
生身のまま 行けるとこまで
To the next, To the 一番上
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