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馬と鹿

不意打ちで、ふわっと触れた唇が思いのほか柔らかくて、私はドキドキが止まらない。アルコールも手伝って、かぁっーと頬が熱くなる。

その当時、エリカちゃんは二十歳を少し過ぎた年頃で、私より五歳くらい下だったと思う。

「あたしねー、ちえさんが好きー! 大好きー!」
と屈託のない笑顔で、所かまわず抱きついてくる。

ツインテールにリボン、ヒラヒラのワンピース、厚底の靴。まるでどこかのアイドルみたいなキュートな女の子に、そんなふうに言われて私も悪い気はしない。


とは言え私はそれまで、女性を恋愛対象として考えたことはなく、また生来の生真面目な性格もあって、同性であるエリカちゃんにどう向き合っていいのか困惑してもいた。

エリカちゃんは、毎晩のように店に顔を出した。
その店は、作家を志す人たちの溜まり場のようになっていて、あちこちで文学談義が盛んだった。

エリカちゃんの書く詩には、ヒリヒリと焼け付くような痛みがあった。
書かれた言葉の一つ一つが鋭い刃物のように、容赦なく自他を突き刺す。

それは紛れもない才能で、エリカちゃん自身は無自覚だったけれど、私は軽く嫉妬を覚えていたのかもしれない。

私はどこか、エリカちゃんに自分と同じ影を見ていた。
エリカちゃんの常軌を逸した狂乱ぶりに、眉をひそめながらも、私はどうしようもなく惹かれていた。


エリカちゃんは、メンタルがとても不安定な子だった。
アルコール依存、自傷行為、そしてたぶん性依存。私たち仲間の前での異様な明るさは、逆に、一人でいる時の抑うつ状態を連想させた。

何人もの男たちが、そんなエリカちゃんを利用する。彼らが陰で、エリカちゃんのことを何と呼んでいるか、私は知っていた。

私は臆病だったし、何より、自分のことで精一杯だった。
目の前の道は混沌としていて、このまま進むべきか、それとも引き返すべきなのかわからなかった。

頼る人はいない。
若さは日に日にすり減っていき、もう後がないような焦燥感に苛まれる。
私は私で、詰んでいた。

だからきっと、エリカちゃんから目を背けたのだ。
「みんな、あたしのことが、嫌いなんだ!」
と泥酔して泣きじゃくるエリカちゃんを、いつもの店に置き去りにして。


それから数年が過ぎた頃、反社会的勢力の抗争事件が大きく報じられた。組織の有力幹部が衆人環視の中、銃撃されて死亡したという。

「ニュース見た?」
と、知人から連絡があった。
「……エリカちゃんの、お父さんなんだって……」

言われてみれば、繰り返し報道されるニュース映像の写真は、エリカちゃんにどこか面差しが似ている。

「みんな、あたしのことが、嫌いなんだ!」
そう言って、泣きじゃくっていたエリカちゃんを思い出す。

そうか。
エリカちゃんはこれまでずっと、父親のことで、きっと私たちが想像もつかないような辛い思いをしてきたのだろう。

反社会的勢力と、ひとまとめにされる人たちにだって、それぞれに家族がいる。
私はその時、はじめてそう思い至った。

怖ろしい組織の幹部だって、エリカちゃんにとっては、優しいパパの顔を見せていたのかもしれない。


親を選んで子どもは生まれてくる、と説く人がいる。
もしもそれが本当なら、エリカちゃんも私も、余程の理由と覚悟があって生まれてきたのだとしか思えない。

私が、生まれてきた理由と覚悟。
エリカちゃんが、生まれてきた理由と覚悟。
どんなに考えても思い出せないし、思い浮かばないけれど。

エリカちゃんが、今もどこかで、尖った詩を書き続けてくれていたらいいな。

エリカちゃん
私は今日も、ここで、書き続けているよ。




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