2023年の中島みゆきの時代
私がはじめて、中島みゆきの歌を聞いたのは、まだほんの子どもの頃だった。
たぶん駅前の商店街で流れていた、有線放送の流行歌だったと思う。
子どもだったので、歌詞のすべてを理解できたわけではないけれど、私はそこに映し出されている世界に引き込まれた。
今から敢えて解釈するなら、無常感、絶望感、圧倒的な孤独、そして諦念⋯⋯といったところだろうか。
中島みゆきの歌は、その多くに失恋が描かれていて、文字通り恋人に去っていかれた痛切な女心の歌として理解されている。
けれどもその奥に、恋愛を超えて、生きることそのものの寂しさや、哀しさを感じとる人も多い。
だからきっと中島みゆきの歌は、透明人間のように扱われていた私の早熟な心の痛みに、あまりにも自然に溶け込んだのだ。
それは1970年代の後半で、当たり前だけど、今とは何もかもが違う時代だった。
各家庭に一通りの電化製品は揃っていたけれど、電子レンジはまだ珍しかった。
電話はようやくダイヤル式からプッシュホンに代わった頃で、コードレスになるのはもっとずっと後のことだ。
私個人や家族だけの問題ではなく、世の中全般に男尊女卑思想が、まだ色濃く残っていた。
女性であるというだけで、今よりもっとたくさんの制約が課され、生き方を限定される。
個人の意志よりも家や集団の利益が優先され、人権という意識すら明確ではない。
――そんな時代だった。
「共依存」は「恋愛」と名を変えて推奨され、恋人を探すことに、男女とも躍起になっていた1980年代。
当時の私は、とても淋しかった。
恋人も、親友も、クラスメイトも、遊び仲間も、共に過ごしている時間はそれなりに楽しい。
それなのに誰といても、心の大きな空洞を埋めることができない。むしろ束の間の高揚感の後に、虚しさは増すばかりだった。
中島みゆきは確信犯的に「孤独」を歌う。
そして、見え透いた嘘をつく人はいくらでもいたけれど、私のために、上手な嘘をついてくれる男性は一人もいなかった。
女性であるということの、恍惚感と嫌悪感。それは言い換えれば、すべての男性への憎悪と、それとは裏腹な依存心に他ならない。
女性には、ただ良妻賢母となることだけが求められていた。真の自立とは程遠いところで、人生が決められていく。
父の決めたルートに逆らい、それでも私は、必死であがいて、もがいて、ただ暗闇をさ迷った。
発達性トラウマを負い愛着形成に問題があった私は、そうとも知らず、誰かれ構わず、ただひたすらに愛情を求めていた。
それは本来なら、幼少期に両親(または養育者)から与えられるはずの愛情だ。
けれども私は、代替行為としてそれを男性に求め、愚かな試し行動を繰り返した。
「私のことが好きだったら何でもできるよね」
「愛してるって証を見せて」
「本気だっていう証拠を見せてよ」
そんな幼稚で馬鹿げた私の要求は、どんどんエスカレートしていく。
呆れて、あるいは怒って去っていく男性たちを見送りながら私は、ほらね、と淋しく笑う。
無駄に傷付き、わざと傷口を広げるような、そんな恋愛ごっこに明け暮れる日々こそが青春なのだと、私は勘違いしていた。
青春の痛みがすでに遠い過去となった、ある寒い夜、一人で食後の片付けをしながら、テレビから流れてきた歌を何気なく聴いていて、私は不意に手が止まった。
よく知っている歌だった。
何なら、カラオケで歌ったことだってある。
けれども、その夜、その瞬間、私はまるで神の啓示を受けた人のように、体に電気が走ったみたいに、その場に立ち尽くした。
涙が溢れる。バカみたいだ、と思うけれど、後から後から溢れ出して、嗚咽が漏れる。
それは感動の涙なのか、単なる自己憐憫なのか、自分でもよくわからない。
わからないけれど、何かがストンと腑に落ちた。
私はこの世界に Welcome と迎えられたのだ。
この時、私はようやく、自分が生まれてきたことを赦すことができた。
誰もが皆 Welcome と迎えられたのだ。
そう私の心が、得心した瞬間だった。
それでも人生は、相変わらずジェットコースターのようで、束の間、安心したかと思えばまた、深い谷に落ちる。
悩み事はいくらでも追いかけてくるし、心配の種も尽きない。
だけど。
時代はまわり、時代はめぐる、らしい。
だから私たちは、せめて今日一日を、今日の風に吹かれて、一生懸命に生きるしかない。
疲れて眠ればやがて、また新しい朝がやってくるのだ。
たぶん私は、強くなった。
昨日よりも今日。
先週よりも今週。
去年よりも今年。
ちょっとずつ、だけど確実に、パワーアップし続けている、と思う。
私の隣にはいつも、中島みゆきの歌があった。