【小説】遠いみち⑤
昭和30年正月――。
年が明けて、昭和30年の正月となった。
氏神様への初参り、菩提寺へのご挨拶と墓参り、お神酒とお雑煮とお煮しめ。お正月の迎え方は、どこもそれほど違いはない。
年の暮れは大掃除に買い出し、餅やお煮しめの用意と、日頃に増しての忙しさで、かえって私は、何も考えずに体を動かすことができた。
花枝さんはあの後、お義母さんからこっぴどく叱られたようで、すっかりおとなしくなった。私は決して、心から許したわけではないけれど、恨んでいても仕方ない、もう忘れよう、という気持ちになりはじめていた。
いつまでも一つ屋根の下で、いがみ合っているのは気が重い。私は元来、何事かでカァッとなっても、案外それをいつまでも引きずらない性質だった。
元旦にはお義父さんも顔を見せ、冗談を言っては、花枝さんや私を笑わせてくれた。お義母さんと昭さんは淡々と、お義父さんの姿が見えないみたいに、まるでいつもと変わらないみたいに過ごしていて、それが逆に奇妙な心持ちがした。
この家の暮らしに慣れてくると同時に、私には、どうにも腑に落ちないことがあった。
お義父さんは時折り事務所に来られて、そのついでにお勝手へも、金目や鰯を下げて顔を出される。けれども私や花枝さんと二言、三言、話をすると、もうすぐに出て行かれる。
そしてどういう訳か、いつも不在のお義父さんについて、不自然なほどに誰も話題にしないのだ。
松の内が過ぎたある日、私は思い切って昭さんに聞いてみた。
「お義父さんは、普段はどちらにおいでんさるんですか?」
昭さんは、読んでいた本から目を上げると、ちょっと驚いた顔をして私の方を見た。
そして、少し口ごもってから
「⋯⋯親父は、別の家があるんだ」
と、言いにくそうに言う。そして、しばらく考えている様子だったけれど、本に栞を挟んで閉じると、改めて私に向き直った。
「⋯⋯親父は、今から三年前にいきなり蒸発して、それから女を連れて戻ってきた。さすがに家に上げるわけにはいかないから、別の家を持ったんだ」
昭さんは、薄く笑ってそう言う。
笑ってはいるけれども、決して楽しそうではない。むしろ口元に浮かんでいるのは、皮肉とも、諦めともつかないような笑みだった。
お義父さんは商売の才覚に長けたお人で、時代を先読みすることにも優れていた。思い付きではじめたようなことが次々と当たり、すぐに大きなお金を生む。けれども、入れば入っただけ使いきってしまうのもまたお義父さんで、たちまち借金の額が膨れ上がる。
そうして、昭さんが大学生だった20歳の時とうとう、どうにもならなくなって突然、蒸発してしまったらしい。昭さんは、お義母さんと花枝さんのために大学を途中で辞めて、昼は家業に、夜は鉄道会社の保線工事にと、一日中働いて、どうにか借金を返済したのだそうだ。
日頃は口数の少ない昭さんだけれども、ポツポツと言葉を拾うように話してくれる。私は、お義父さんと昭さんの、ぎこちないやり取りを思い浮かべ、はじめて腑に落ちたような気がした。
昭さんはそれでも「父は父だから」と言って、切り捨ててしまうことができない。とは言え、恨みがましい気持ちを、完全には捨て去ることもできない。
私の家に来た時の昭さんの、あのよそよそしさは実は、お義父さんへのそんな、もやもやした感情の表れだったのだろう。
私は、この父と息子の複雑な関係に思いを馳せて、キュッと胸が痛んだ。
いい機会だから、と昭さんは私に向き直った。私も繕い物を片付けて、坐り直した。
「⋯⋯お袋は、俺が六つの年に、この家にやって来たんだ。十六になる娘を連れてね。綺麗で優しい義姉さんだったけど、三年後に死んじゃったよ。結核でね」
「⋯⋯お義母さんは、後妻さんで来んさったんですか?」
私は驚いて、思わずそう聞いた。
「あぁ」
と昭さんは、煙草に火をつけた。途端に紫煙が、部屋に広がる。
常日頃、お義母さんは昭さんのことをとても大事にしていたから、まさか継子だとは、私は思いもしなかった。昭さんもまた、お袋、お袋、といつも気遣っていた。
「それから花枝は、俺が八つの時に、親父が知り合いから預かった。貰い子なんだよ」
私は混乱して、すぐにはうまく理解できなかった。けれども何となく感じていた、この家族の他人行儀さのようなものの謎が解けた気がした。
昭さんの話によるとお義母さんは、連れ子である実の娘を病で亡くし、義理の息子を六つから、また義理の娘を赤ん坊から育てたということになる。お義母さんの厳しい横顔には、そんな苦労が隠されていたのか、と私は背筋の伸びる思いがした。
またそう考えると、花枝さんがあれほど昭さんを慕っているのもわかるような気がする。花枝さんが幼心に誰よりも信頼してきた、そして誰よりも大切に守ってくれた、たった一人の「兄」だったのだ。
長年共に暮らしてきたとは言え、昭さんにとっては、お義母さんも、花枝さんも、血の繋がらない赤の他人ということになる。もちろん、嫁いできた私もそうだ。
なんて可哀そうな人なんだろう、と私は思った。唯一の肉親であるお義父さんは、不義理をして別のところで暮らしている。産んでくれたお母さんの顔も、今どこでどうしているのかさえも、昭さんは知らないのだと言う。
「⋯⋯この私が、昭さんの家族にならにゃぁ、いけん!」
咄嗟に私は、そう思った。
たくさん子どもを産んで、この人に本物の家族を作ってあげるんだ。
そうしてみんなで賑やかに、笑って、楽しく暮らすんだ。
母さんや姉さんたちと暮らしていた、あの懐かしい実家のように――。
私はこの夜、強く、強く、そう思った。
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