すべて集合体のせい 【エッセイ】
テレビを観ていた妻が、突然わっと小さな悲鳴を上げて、キモっ、と呟きながら、すぐ横にいる私に「見て見て!」と、袖をまくって自分の腕を近付けてきた。妻が私に見せようとしているのは、たった今、自分の腕に発生したばかりの鳥肌なのである。
よくあることだった。私は妻が、またテレビで「何か」を見付けてしまったのだなと思った。
「ちょっと、今の何? ゾワゾワする……」
妻は自分の頬を両手で挟み、身震いを抑えながらテレビ画面を凝視していた。私はそんな妻の腕の表面に現れた鳥肌をしげしげと見つめる。
◇◇
集合体恐怖症(トライポフォビア)というのがあるそうだ。同一の規則性を持った造形が集合したときに出現する、コントラストの強い画像や鮮明なイメージに、強い嫌悪感や拒否反応を示す心の働き、と言えばわかりやすいだろうか。
点描や同形の密集した画像に敏感な体質の妻は、おそらくこのトライポフォビアなのではないかと思う。
インターネットで「集合体恐怖症」と検索すれば、すぐにある種の不快感を誘発させる画像を見付けることができる。(※注意! 検索の際には不快な画像が表示されるかも知れないので十分お気を付け下さい)
前に私が検索したときは、樹木の幹にキツツキが無数の孔を開けた画像が真っ先に表示された。意表を突かれたこともあるが、集合体画像に比較的耐性のある私でも、それを見たときは、ひぃっ、と声が出た。
他の検索結果のページを開いても、その手の画像がザクザクと出てくる。特に芸術作品と名の付いているものは造形が精緻で、作り込みがエグい。点の集合やブツブツした粒子感が甚だしく、私は自分からその生理的不快感をもたらす画像を見に行っておきながら、「おい、やめろ」「おいやめろ」「やめろ」「やめろ」「ばか」「おい、ばか」「やめれ」と、一枚一枚にツッコまずにはいられなかった。防御本能が働いてしまうのだ。
地上波デジタル放送が開始され、解像度が飛躍的に高くなったテレビを視聴できるようになってから、集合体に反応する機会が増えたようだと妻は言う。
以前、地面に大量の赤いボールが転がる演出のCMがあった。思わず目を留めてしまう印象的なCF作品だが、妻からすればそれは赤いブツブツが蠢いている映像と解釈され、目を背ける対象となる。
洗剤やカビ取りなどの除菌製品のCMで、汚れが分解されて細かい粒子となって弾け飛ぶもの、根を張ったカビや細菌が精細に描写されたCGやアニメーションなどの表現も、できれば見たくないもののようだ。特に最近は、CG技術が発達しているため、細密さに磨きがかかり、過剰な演出になっているものが多い、というのが妻の弁である。
私の好きな細田守監督の『サマーウォーズ』というアニメーション映画を二人で観たときは、冒頭の「オズ」の世界の細かな表現には何とか耐えられたが、終盤の対決場面では終始妻は目を伏せていた。大量のアバターが集合し、乱舞するクライマックスシーンは、集合体恐怖症の人には酷な時間だったようだ。そんなときの妻の様子を見ると、さすがに気の毒になる。
(補足だが、妻は細田監督の『おおかみこどもの雨と雪』には泣くほど感動している)
町に出ても、老朽化した看板や廃屋の剥がれかけた壁などに、一定のパターンのひびや亀裂や模様が現れているときは、「ちょっと苦手」と思うことがあるらしい。しかも、苦手であるがゆえに、そういうものほど目敏く見付けてしまうようだ。
車を運転していた私は、壁の剥がれた店舗を通り過ぎたあと、助手席で自分の腕をさすっている妻に言った。
「その種の危険を察知する特別なセンサーが、体に備わっているんだろうな」
「そう、そうなの、凄いでしょう」
自分で凄いと言っているので、本来なら妻にツッコミを入れる場面だが、何となく悲しそうに呟いていたので私は控えた。本人にしか感じることができない、苦しみやつらさがあるのだろう。
かつて私は、妻に恐怖症を克服してもらいたくて、集合として捉えずに、部分だけを拡大してひとつの物として見てみたらどうか、とアドバイスをしたことがある。今にして思えば、見事なほどそれは「クソバイス」だった。
妻が私に求めているのは、そういった何の役にも立たないクソみたいな助言ではなかった。妻は、そばにいる私に、怖かったね、びっくりしたね、可哀想だね、と言ってもらえればそれでいいと言うのである。それだけで十分なのだと。
私は妻のその言葉を、今も忘れないようにしている。
◇◇
妻の集合体恐怖症の原因は、やはり小さい頃の体験にあったようだ。夏のある日、体にまとわりつくうるさい蝿を手で叩いたら、たまたまヒットして潰すことができた。小学生だった妻は、そのとき自分のぬるっとした掌を見て、あまりのおぞましさに震え上がったという。潰した蝿がお腹にたくさんの卵を抱えていたからだ。細かいブツブツが苦手なのは、そのときの記憶がトラウマになっているからではないか、というのが本人による見解である。
妻は虫嫌いでもあるが、これも、そのときのトラウマと同根であろう。私の机の上に本の山が四つほどできているのだが、ときどき、そのてっぺんに置いた本が、知らないうちにひっくり返って裏表紙の方を向けられていることがあるのだ。
まさか、妖怪枕返し? と最初は不思議に思ったのだが、やはり妻の仕業だった。
「だって表紙が蟻なんだもの」
たしかに、妻が裏返しに置き直した本の表紙には、行列を作る蟻のような黒点が描かれている。だが、これは堀江敏幸の『バン・マリーへの手紙』というエッセイ集で、表紙の絵は蟻というよりは鳥なのだ。
またある日、今度は横溝正史の『本陣殺人事件』が裏返しにされていた。表紙は杉本一文画伯の絵である。でも、虫や集合体の図柄ではないはずだが……。
「これは何がいけなかった?」
「怖い」
怖い……か。なるほど。
何事も集合体恐怖症に結びつけるのは、早計だった。ただ怖い。そうだった。そんなシンプルな感覚が、人間には最初から備わっているのだった。そしてなぜだろう、それが私には、とても風通しのいいものに感じられたのである。
〈今回登場した図書リスト〉
『バン・マリーへの手紙』堀江敏幸 中公文庫
『本陣殺人事件』横溝正史 角川文庫
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