知らなかった塔、知っていた島
短編小説
◇◇◇
先入観は、いとも容易くその人を支配する。
私は結果的に、二つの心霊スポットを訪れた。一つはそこを心霊スポットだと知らずに。もう一つは昔から心霊体験が囁かれている場所だと知って。
その年の夏、私は東京に本社のある会社を辞めて生まれ故郷に戻っていた。今でも忘れられないのは……
と、怖い場所に行った体験談を物語風に真面目なトーンで続けるつもりだったが、思った以上に怖くなってきたので気軽に読めるエッセイ風な語りに切り替えたい。エッセイも、実は文章を書く上で相当高い技術が必要なのだが、上手な人はそれを感じさせないようにさらりと読みやすいように書いている。一つの言葉がのちに複数の意味を帯びて読者の感情にさざ波のように押し寄せる、そんな名エッセイをいつか書けるようになりたいとは思うが、研鑽の足りない私にはその実力はあまりに不足している。今回は心霊スポットがテーマでもあるので、シリアスに片寄らず、軽めに、素直な文章を書くように心掛けたいと思う。ユーモアやおちゃらけも、ときには交えながら。
話を戻そう。故郷に戻った私は、失業保険の給付を受けている間、小説を書くことに専念した。書いた小説を新人賞に応募し、賞を取って小説家になるという夢のためだ。だが、自由な時間が多くあるからといって、執筆が捗るわけではなかった。むしろ、集中力は散漫になり、机に向かっても文章は思い浮かばず、読書すら飽きて放り出すようになっていた。
私は気分を変えるために、地元の観光地巡りを思い立った。考えてみれば、高校を卒業してから地元に帰省したことは数えるほどしかない。私は地元のことを何も知らないに等しかった。
市役所にある観光案内のパンフレットや旅のムック本で調べてみると、私が住むY県T市は、山岳信仰で有名な霊場があり、古くから修験道が盛んな地域だった。由緒あるいくつかの神社や仏閣は、最近ではパワースポットという呼ばれ方をされ、若い世代の観光客も年々増えているようだった。森敦が芥川賞を受賞した『月山』に出てくるような、即神仏(ミイラ)を拝観できるお寺が集中して存在するのもこの地域の特徴だ。実際に訪ねてみると、徳の高い僧が身に付ける綺麗な衣に包まれた即神仏は、髑髏のような外観から受ける印象とは真逆の、神々しく、厳粛な気持ちにさせるものだった。
私は地元の観光地巡りが面白くなっていた。とはいえ、有名な温泉宿に宿泊し、地酒や名産品に舌鼓を打つグルメな贅沢プランに浴するのは、失業中の観光者の正しい態度ではないだろう。畢竟私の観光が、お金のかからない名刹、古刹を回り、眺望のいい展望台で風景を眺めたり、ダムの放水を見物したりするプランに傾くのは、極めて自然なことだった。
その日、空は曇っていたが、私は頂上にテレビ塔があるT館山に出掛けることにした。数基の鉄塔が屹立するその山容は、小さい頃から眺めて知っていたが、実際に登ったことはなく、また、頂上には電波塔とは別に、日本海の眺望が楽しめる展望台があるようなので、これを機会に行ってみたくなったのだ。標高は三〇〇メートルにも届かない山だが、頂上まで車で行くことができる。
細い山道をくねくねと登り、テレビ塔が間近に見えるところで私は車を駐めた。辺りを見渡すと、夏草が繁茂する広いスペースの先に、ぽつんと白い円筒形の塔が建っていた。コンクリート製で階層ごとに窓がついているのが外側から確認でき、最上階には一目でそこが回廊付きの展望台だとわかる円盤形の構造物が乗せられてあった。
曇り空のせいもあるのか、足元の夏草の辺りに靄がかかったように乳白色の気配が立ち込めていた。塔の後ろは鬱蒼とした雑木林に囲われており、地面を覆う影と草叢のコントラストがそのうっすらとした靄の錯視を生み出しているのかも知れなかった。道らしい道がなく、私は草を踏みしだいて塔の入り口に向かった。
予想はしていたが、塔の内部は掃除が行き届いていなかった。壁には落書きがされてあり、螺旋階段が始まる床には虫の死骸や松笠が落ちており、鉄製の手摺りは埃がかぶっていた。何の音もしない。塔内にいるのは自分だけだろうと思い、私は鼻歌を歌いながら円筒の内壁に沿って造られた螺旋階段を上った。途中にある窓はどれも蜘蛛の巣がかかり、一様に薄く汚れていて、せっかくの眺めが台無しだが、明かり取りの窓だと思えば用は足りている。
階段が終わり、最上階の展望台に出た。二十メートルほど昇ったことになる。螺旋階段のせいで少し目が回り、足元がふらついたが、回廊は明るく、さすがに見晴らしは良かった。沿岸の家並み、漁港、そして緩く湾曲した海岸線を鳥瞰図の構図で目に収める。そのまま回廊を進んでいき、塔の後ろにあった雑木の森が見渡せる反対側へ回ると、回廊に設えられた簡素なベンチの上に、ジュースの空き缶と煙草の空き箱が置き去りにされているのを見付けた。最近誰かが訪れたのだろう。そして、ベンチの下には未使用だが外装が破られている埃のかぶったコンドームが落ちていた。私はわずかに残されていた人の形跡をしばらく眺め、これらの印象がいつか小説の役に立つのではないかと考えた。見物を終え、回廊を後にして、螺旋階段を下り始める。途中で立ち止まり、今しがた滞在していた展望台を見上げようとしたが、不意に虻の大きな羽音が耳元のすぐそばで聞こえたため、私は振り返ることなく大急ぎでくるくると下まで駆け降りた。
◇◇
次に向かったのは、T館山から車で十分もあれば行ける家族連れに人気のY海水浴場だった。目的はそのビーチのそばにある周囲四〇〇メートルほどのH山島である。
島の形は山高帽のようにこんもりとしていて、その標高は七〇メートルはあると言われている。海岸から島までは赤い欄干の橋が渡されてあり、歩いて往来できるようになっている。その様子は、ちょうど神奈川県の江ノ島に似ていて、実際、「東北の江ノ島」という呼ばれ方をされることもあるようだった。
私が行こうとしているのはそのH山島のてっぺんにある神社だった。しかし、島に渡って麓の鳥居をくぐり、いざ神社へお参りするために二百数十段もあるという急勾配の階段を目の当たりにすると、私の中で躊躇する気持ちが生まれてきた。階段のきつさもある。だがそれよりも、私は昔から囁かれている噂を思い出していたのだ。女性がこの島から身を投げて自ら命を絶ったという噂。先に、私はこの島をぐるりと一周できる遊歩道を歩いてみたのだが、島の大部分は緑に覆われているとはいえ、ところどころに玄武岩が剥き出しの切り立った岩肌が覗いていた。私の逞しい想像は、ここに来て、人間が落下する様子を何度か再現するにまで至っていた。本当にそんなことがあったという確証もないのに、自分で自分の心臓が冷たくなるような妄想を止められないでいた。
幸い、曇っていた空はすっかり晴れ、青空が見えていた。海にはクラゲが発生し、海水浴シーズンは終わっていたが、島内にある釣り堀はたくさんの客で賑わっていた。この明るい雰囲気なら、この長い階段を上っていける。さっと上って、神社で手を合わせて参拝すればよい。そしてすぐに下りてくるのだ。そうすれば、この観光はクリアできる。簡単なことだ。
私は松の枝が日陰をつくっている階段を上り始めた。二段飛ばしは踏み外すと危ないので、一段一段、確実に上っていくことにした。心なしかペースが上がっていることは自分でも気付いていた。不意に誰かの話し声が聞こえ、はっとして顔を上げると、参拝を終えたであろう二人の熟年女性が階段を下りてくるのがわかった。すれ違う際に、「ご苦労様」と声を掛けられたとき、私は心からほっとした気持ちになった。
しかし、この息苦しさは何だろう。標高が高くなるにつれて、階段からの見晴らしは格段に良くなっているというのに、私には風景を眺める余裕はなかった。ここは神社だ、神聖な場所だ、そう思っているのに、再び重苦しい気持ちに支配され、私は早く参拝を済ませて、一刻も早くこの場から立ち去りたかった。息も切れ切れになって辿り着いたお社の前で、二礼二拍手一礼をし、てっぺんから見える絶景には目もくれず、私は島の急な階段を転がるように下まで駆け下りたのだった。
◇◇
後日談がある。
失業手当の給付期間が終わり、その後、派遣会社に登録して仕事を得たことで、私の観光地巡りもひとまず区切りがついた。書いていた小説は完成を見ず、新人賞への応募も当然のことながら立ち消えになった。
たまたまだが、派遣先で知り合った二つ歳上の女性社員が、高校時代の同級生の姉だったことがわかり、親しく口を利くようになった。彼女、Nさんは「月刊ムー」を愛読する少女時代を過ごし、超古代文明やオーパーツに並々ならぬ関心を寄せ、かつてはタロット占い師として収入を得ていたこともあるという風変わりな経歴の持ち主だった。
私は昼の休憩時間の雑談で、H山島のてっぺんにある神社に行ったことをNさんに話した。以前の雑談のときに、彼女が霊感のようなものを持っていることを自分から話してくれたことがあり、そのことを覚えていた私は、神社の階段を上っていたときの何とも言えない息苦しさ、重苦しさを話して聞かせ、何か心霊にまつわるおどろおどろしい情報を彼女から聞けることを期待したのである。ところが、彼女の反応は意外なものだった。
「わたしもこの間、夕焼けを見にH山島に行ってきたよ。遊歩道でぼーっとしてきた」
「えっ、平気なんですか。あそこで写真を撮るとおかしなものが写り込むって聞いたことがあるけど」
「オーブならいっぱい写っていたことがあったなあ、前の写真だけど。今度見せてあげようか」
彼女が表情を変えず、何でもないことのように言ってのけるので、私は別の意味で焦りを感じた。
「Nさん、怖くないんですか。俺、正直言って、あそこの長い階段を上っているとき、ずっと誰かに胸を圧迫されているんじゃないかと思ったくらい苦しかったんですけど」
「それは君が急に階段を上ったせいだよ。オーバーペースで。最後の方はへとへとだったでしょう」
「もしかして、運動不足なだけだったんですかね、俺」
大袈裟に肩を落とす私を見て、彼女は軽やかに笑った。笑うとNさんは顔が幼く見える。私は以前からそんな彼女の可愛らしい笑顔を好ましく思っていた。
「H山島の前に、俺、T館山にも行ったんですよ。あそこに展望台が建ってますよね、白い円筒形の」
すっと彼女の表情が変わり、急に私の顔を覗き込むように見詰めてきた。私は戸惑いながらも言葉を続けた。
「あそこ、中が螺旋階段になっていて面白いですよね。途中の窓は汚かったけど、最上階の窓は意外と綺麗で、景色がばっちりでした。Nさんは行ったことありますか?」
「ひとりで行った?」
「はい、ひとりですよ」
彼女はますます私の顔を凝視するようになった。その視線は、私の顔ではなく、私の顔よりもっと後ろの方に向けられているようにも思えた。
「空が曇っていて海が真っ青に見えなかったことがちょっと残念だったんですよね。そういうわけでNさん、俺、リベンジしたいんで、良かったら今度一緒に行ってみませんか?」
「行かない」
私はこのときの彼女の様子が、ずっと後になっても気になった。デートに誘いたい気持ちがあったため、彼女に「行かない」とすげなく断られたのはショックだったが、何よりも、私の顔を見据えてくる彼女の目の印象が強く残っていた。彼女は私の中に何かを見たのだろうか。あのとき、昼休みが終わり、就業開始を告げるチャイムが鳴る中、彼女は「君には先入観が二つあったんだね。一つは知らなかった、もう一つは知っていた」と謎の言葉を残したのである。
私はその夜、自宅のインターネットでT館山とH山島を検索してみた。すると両方とも心霊スポットのコンテンツとして盛んに取り上げられていることがわかった。特にT館山の展望台は、心霊ファンには話題の場所らしく、様々な霊の目撃談に溢れていた。「ほんとにあった怖い話」というテレビドラマで放映された、螺旋階段で怪異が起こるストーリーは、この場所がモデルだとも言われていて、私はたくさんのサイトに目を通しながら背筋の寒気が止まらなかった。しかし、一方で、別のサイトではここが風光明媚な観光スポットとして有名なことが紹介されていた。T館山はブナの原生林と豊富な野花が楽しめるハイキングコースになっており、周囲を一望できる展望台は、そんなハイカーたちが休息をとる憩いの場所になっているという。H山島も同じだった。頂上にある神社は、海の安全と豊漁の祈願で地域の人々に古くから親しまれており、島を訪れた多くの観光客が階段を上っての参拝を楽しんでいる。遊歩道から望む日本海の美しい日没も人気だ。
Nさんが言っていたように、すべては先入観なのだ。私が先に怖い噂を知っていたら、きっと展望台のある塔に一人では上れなかっただろう。また、私が自殺者の話や写真に霊が写るというH山島の噂を知っていなかったら、徒に恐怖心を抱くことなく階段を上り、参拝後に景観を楽しめたかも知れないのだ。先入観は人の心を支配し、その人の行動を規定してしまう。思えば、以前訪ねた即神仏を安置するお寺では、拝観する前に住職からミイラについての講話があった。内臓を取り出して防腐処置を施す西洋のミイラと違い、即神仏は、入定する僧侶が通常の食事を絶って木の実だけを食し、経を唱えながら穴の中に籠もり、徐々に食事を制限して自らの肉体が腐らないように体質を変えていく長い過酷な修行の果てだという。そのことを先に知れば、乾燥した皮膚が骸骨に貼り付いた即神仏の容姿を、お化けを怖がるような気持ちで見ることなどとてもできない。そして、それは正確な知識を得た上で物事と対峙するという、正しい態度なのだ。
◇◇
さて、自分の二十代のときの思い出を元にして、このエッセイ風の体験談を私は書き終えたわけだが、それ以来、気掛かりなことが起こっている。
怖い体験を真面目な語り口で書くのをやめて、くだけた調子の文体で私は書き直したつもりだった。ところが、数日経ってこの原稿を取り出してみると、最初に書いていた真面目な語り口に戻っているのである。上書き保存をし忘れたのかと思ったが、そういうことでもない。もう一度、「だ・である調」から「です・ます調」に書き直し、ユーモアを取り入れようと、T館山に着いて夏草に乳白色の靄が立ち込めるシーンに、(このとき、私の頭の中に『金田一少年の事件簿』のドラマ版で事件が始まるときに必ず流れるあの音楽が鳴り出したのです……)と追加したはずだが、削除されている。H山島の急な階段を転がるように下まで駈け下りるシーンには、(さながら『カリオストロの城』でルパンが傾斜した屋根をジャンプするときのように駆け下りていました……)と書いたのだが、それも綺麗になくなっている。まるで優秀な編集者が原稿を添削してくれたみたいなのだ。確かに、思ったほど面白くないので削除されたことには同意するが、編集者など実際にいるわけないのだから気味が悪い。文体もいつの間にかシリアスな「だ・である調」に戻っている。考えてみれば、消えたのは誇張して書いた部分だけだ。原稿で削除されずに残っているのは、すべて本当にあったことだけなのだ。
誰か、この現象を説明して欲しい。私はNさんのことを思い出した。Nさんなら、何かわかるのではないだろうか。Nさんは結婚を機に退職してしまい、それ以来連絡を取っていなかった。久し振りにケータイに電話をしてみたが、番号の持ち主が変わっていて連絡が付かなかった。私はあのときの、じっと顔を覗き込んできたNさんの目のことが気になって仕方がない。あのとき、Nさんは私の顔の向こうに、何を見たのだろう。それとも、今も私は何かの先入観に囚われているのだろうか。
(了)
短編小説 四百字詰原稿用紙約17枚(6442字)
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