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詩人と名乗ることを許すとき【エッセイ】

 六年前にnoteを始めてから詩をいくつか投稿するようになった。

 それ以前は、自分が詩を書く人であることを誰かに話すのは勇気のいることだった。わたしは知人の送別会の席で自作の詩を披露したことがあるが、そのときは突然居酒屋の個室で朗読して、周囲を戸惑わせた。詩を読む際は、読み手とそれを受け取る聴衆との間に、共通の周波数帯を用意してお互いの気持ちを合わせる必要がある。事前にアナウンスなどをして場を温めておくべきだった。そうでないと、ひどい温度差が生じてお互いに居心地の悪さを感じる結果になる。

 わたしは自作の小説を投稿する目的でnoteのアカウントをつくったが、noteには詩を創作する人がたくさん参加していることに気付いた。そして、その詩を読んでくれる人もたくさんいることを知った。書いた小説を読んでくれる人がいるように、ここには詩をきちんと読んでくれる人がいる。詩を受け入れる共通の周波数帯をすでに持っていて、noteに投稿された作品をキャッチしてくれる詩の好きな読者がいるのだった。

 もう躊躇わなくていい、とわたしは思った。昔つくった詩を一作だけ投稿したあとは、noteを発表の場と定めて新作をつくりはじめた。そうしてできたのは、モーツァルトのピアノ協奏曲第二十番 ニ短調 が登場する詩だった。自分が失恋したときの気持ちを乗せた詩だった。

◇◇

 時を遡って一九九五年の春。地下鉄サリン事件が起きて一ヶ月が経とうとしていた頃、詳しい経緯は省くが、わたしは渋谷にあるビルの会議室で自作の詩を披露していた。講座の課題だったのだ。参加者が順番に詩を披露し、わたしも一週間かけてつくった詩を朗読した。人前で詩を読むのは初めての体験だった。読み終えて席に着いたあと、講師の方が寸評をしてくれる。「これはポップスですね」と開口一番に講師の男性は言った。わたしは一瞬にして正鵠を射貫かれた気持ちだった。実は一時期、歌謡曲の作詞を趣味にしていたことがあり、今回は言葉数こそ揃えなかったが、歌詞をつくるような意識で現代詩をつくった。それを看破されて自分の未熟さを痛感せざるを得なかったのだ。わたしの目の前で淡々と講評を述べて下さっていたその講師こそ、現代詩の巨人、谷川俊太郎氏だった。実のところ、谷川俊太郎さんに詩を講評してもらえただけでもわたしには光栄なことだった。これが自分の現在の実力なのだと素直に認めた。どんな批評の言葉でもありがたかった。最後に谷川さんは、「この比喩はいいですね」と言って、わたしの作品の一行を読み上げて褒めて下さった。心臓が止まるほど嬉しかった。

 現代詩の巨星から直接言葉を頂ける、そんな瞬間が自分の人生にあるとは思っていなかった。わたしはいつも定まらない気持ちのまま、根拠のない自信だけで「何か」を書いていたが、このときの講座以来、こう考えるようになった。

 自分は詩のような何かを書いているけれど、詩人なのだろうか、いや、詩を書くけれども、決して詩人ではない、詩人と名乗れるほどの作品を自分が書けているとは思えない、素人だし誰かに認められたわけでもないし実績があるわけでもない、多くの詩をつくってさえいない、だが、詩を書く人は、誰しも詩人であろう、詩を書いているなら詩人を名乗るのに制約はないはずだ、わたしは自分が詩人であることを、ときどきは名乗ってもいいのではないか、いつもではない、驕るわけではなく、ただ、いい作品が書けたなと思ったときは、少しの間だけでも自分に詩人を名乗ることを許してもいいのでないか、またすぐに詩人ではない男に戻るけれども、と。

 谷川俊太郎氏に講評してもらうことがなかったら、わたしは今でもこんな風に吹っ切れた考えは持てなかっただろうと思う。

◇◇

 その講座のあと、好きな詩集にサインを頂いた。『モーツァルトを聴く人』というのがそれで、一番初めに載っている「そよかぜ 墓場 ダルシマー」という詩は、最初の一行から最後の一行までわたしを夢中にさせた。何度繰り返し読んでも飽きることがない詩だった。こんな人は珍しいかも知れないが、谷川俊太郎の詩の中で、わたしはこの作品を一番に推す。この作品には「モーツァルト」というフレーズが登場するが、わたしが新作としてnoteに初めて投稿した「ひつじ雲」という詩にモーツァルトの楽曲を登場させたのは、今思うと偶然ではないような気がする。わたしは間違いなく影響を受けている。いい詩が書けたと思ったとき、一瞬だけでも自分は詩人だと自惚れることを許すのは、あのときの比喩を褒められた嬉しさを覚えているからだ。

 生前、様々な場所に足を運び、多くの人と触れ合い、詩の魅力を伝えてきた谷川俊太郎氏は、こんな風に、これまでにも多くの「詩を書く人」に、自尊心を与えてきたのではないだろうか。

 最近のわたしは詩をつくっていないので、まったくもって詩人ではないし、詩人だと自惚れる機会もないのだが、詩集の『モーツァルトを聴く人』を開くとき、谷川さんへの感謝の気持ちは相変わらず自然と溢れてくる。谷川さんの顔を映像などで拝見し、明瞭で歯切れのいい声を聞くとき、わたしは今でもあの講座の時間を思い出す。たぶん、これからも。



『モーツァルトを聴く人』谷川俊太郎 小学館 (1995)







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