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金井美恵子『道化師の恋』《砂に埋めた書架から》44冊目

 一度でも金井美恵子の小説を手にされたことがあるなら、その独特の文体に触れたときの、興奮もしくは戸惑いに、思わず嘆息を漏らした経験を少なからずお持ちだろう。

 数行を読んでみて、「これは自分には無理だ」と早々に降参する人、逆にその文体に魅了され、底なし沼に引きずり込まれるように小説世界にどっぷりと溺れてしまう人のいずれかに、読者は一瞬にして選別されてしまう感がある。

 この独特の文体を、自分のスタイルとして確立することに成功した類い希なる才能こそ、金井美恵子を天才と言わしめる所以なのだ。

 ある者には拒絶、ある者には虜にさせてしまう金井美恵子の文体は、最初の一行を読んで頂けるとわかるのだが、しかし、軽々しくその最初の一行を味わおうとすると痛い目に遭ってしまう。その最初の一行が、延々と何ページも続くかという勢いなのが、まさに金井美恵子なのだ。

 極端に句点が少ない、といっては身も蓋もないだろう。というより、句点を打たずに続く長大なセンテンスであるにも関わらず、明確に意味をとることができることがまず凄いのであり、さらには、会話文も地の文も登場人物の心理も、すべてその一文の中に放り込み、そこへ文学をベースにした教養と、映画をベースにした視覚効果のテクニックをもプラスして、極めてエレガンスに構築するという常人にはできない文章技術が、これでもかこれでもかと詰め込まれているのだ。

『道化師の恋』(1990)は、『文章教室』(1985)、『タマや』(1987)、『小春日和』(1988)、に続いて発表された、目白四部作と呼ばれる金井美恵子の代表的な作品の四作目に当たるものだ。

 母親のイトコにあたる美人女優、颯子と関係を持った青年善彦は、悲劇的な最期を遂げた彼女を追憶する意味で書いた小説で、図らずも新人の学生作家としてデビューしてしまう。その小説のタイトルが『道化師の恋』。彼を取り巻く家族の反応や周囲の芸術家や評論家、作家とその妻、そして、恋と情事と不倫などを、ユーモアとアイロニーで切り口鮮やかに描いた、見事な連作小説となっている。


書籍 『道化師の恋』金井美恵子 河出文庫

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■追記■

 この書評(というよりは紹介文)は、2000年11月に作成したものです。

 私はある時期、小説の創作教室に通っていたことがあり、そこで金井美恵子さんの講義を受けたことがあります。その頃の私は勉強不足なうえに金井美恵子さんの著作を一冊も読んだことがなく、名前は存じ上げてはいましたが、予備知識がほとんどゼロの状態で、初めてその教室でお目にかかることになったのです。本物の作家、金井美恵子さんは……それはもう迫力がありました。講義で語られる言葉の一言一言が、鋭かった印象があります。当時の文壇、小説家、批評家、出版社をめぐる小説の現状を、後になってみれば、金井美恵子さんのエッセイを読んだときに味わえる知的な毒の成分を含んだ言葉で、小気味よく述べられていたのを覚えています。ただ、私はそのとき知らなかったのです。知らないでお会いすると、目の前にいる作家はとても怖い人に見えるかも知れません。作家が話す鋭い言葉は、その場で講義を受ける私たち生徒にも、グサッと突き刺さるものでした。小説家になりたい、小説家になることに憧れている、などとそんな生半可な気持ちでここに座っているべきではないという気持ちになりました。私は作家の方にサインをもらえるチャンスがあるならもらいたいと思うミーハーな人間なのですが、このときは、金井美恵子さんの前に立つ勇気がありませんでした。今でも後悔しています。今ならとても欲しいです。金井美恵子さんの著作を読んだ今なら、是が非でもサインを頂きたかったと思うのです。

 講義のときに取ったメモを読み返してみますと、金井美恵子さんが語られた言葉は至言の宝庫でした。

「誰でも少し練習さえすれば書くことができる小説的な小説に対して、嫌悪感を持たなければならない」

 肝に銘じたい言葉だと感じます。


 さて、金井美恵子さんの特徴的な文体のことを私は最初の方で紹介していますが、具体的に知りたいと思われる方もいらっしゃるかと思いますので、このあと、私の好きな箇所を引用したいと思います。『恋愛太平記』の一巻の最初に出てくる文章です。『恋愛太平記』(1995)は1980年代を舞台に、四姉妹が登場する長編小説ですが、金井美恵子さんにしか出来ないであろうと思われる大胆な試みがなされている小説です。文の始まりから「。」(句点)まで一段落だけを引用しますが、非常に長文です。もちろん、ここで読まなくても大丈夫です。興味を持たれた方は、金井美恵子『恋愛太平記』全二巻(集英社/集英社文庫)を実際に手に取って確かめて頂けると幸いです。


 二番目の朝子は女子美に入学して最初は寮に入っていたのだが、三年生の時に、卒業制作展を見に行って会場で顔をあわせ、同級生に紹介された芸大の彫刻科を出たばかりの「コンセプチュアル・アーチスト」とその場ですっかり意気投合してしまい、同じ年度の卒業生と女子美の同級生の七人で一緒に居酒屋にくり込み、透明な薄黄色の薄甘酸っぱいホッピーというものを三杯飲み、神田で芸大の音楽科を卒業したジョン・ケージ信奉者の評論家が経営しているバーでは特製インド・カレー(丁字や肉桂の皮や月桂樹の葉がカレーそのものより、やたらに目立つので、鍋の底をさらってようやく一皿分をまかなったという感じの)と、「コンセプチュアル・アーチスト」の注文した冷奴の端のほうをつついて少し食べ、卒業生の一人で羽ぶりがいいというか、地方都市の医者の息子なので小遣いの豊かな男の「ボトル・キープ」しているニッカのブラックボトル(オーソン・ウェルズがTVコマーシャルをやっていたウイスキーで、みんながサントリー・オールドよりおいしいと言った)の水割りを三杯飲み、隣りに座ってぴったり身体をくっつけ、ふとももとふとももが、リーバイスのジーンズ(をはいていたのは「コンセプチュアル・アーチスト」)とカルバン・クラインの、ハイヒールにもぴったり合うセクシーなジーンズ(それをはいていたのは朝子)の二枚の布地ごしに熱い体温を伝えあい、二人は同時にデニムの厚い布地がひどく邪魔だと思い、塩瀬進という名前のやせ型で神経質そうに細く鼻筋のとおったきれいな顔立ちの、「コンセプチュアル・アーチスト」は「ぼくの部屋にこない?」と、朝子の眼をじっと見つめて酒に酔ったしわがれ声でささやき、朝子も進の眼をじっと見返しながら(切れ長の細い眼のなかで濡れて黒く輝く瞳)、うなずき、自分たちの飲み喰いした分の金は払わずに(多分、興奮のあまり、そんなことは念頭になかったのだろうし、二人がいなくなったことを誰もしばらくは気がつかない)店を出て、王子の塩瀬進のアパートにタクシーで行き、思ったよりも清潔な万年床で、想像していたような「激痛」をともなわない「初体験」をし、翌朝、朝子は進が手洗いに立った時、かけぶとんと毛布をそっとめくってシーツについた小さな薄桃色の血の汚点(しみ)を確かめ、ひどく困惑したのだったが——あんなに酔っ払っていなければ、女性週刊誌で中学生の頃読んだことのある、シーツの上に敷くべきバスタオルを出してくれ、と、進に頼むことも出来たろうに——考えてもしかたのないことなので気にしないことに決め、半間四方に小さな流し台と一口のガス・テーブルのある「台所」で進がお湯をわかしてベージュと茶色の横縞のマグ・カップとレモン色のマグ・カップにいれたインスタント・コーヒーを飲み、東野芳明はもう単なる芸術派で面白くなくて、今、注目すべきなのは、宮川淳だという話を彼がして、朝子は尊敬しているジョージア・オキーフの話をし、進はオキーフのスカーレット色の大小の陰唇は自分の趣味(アート上の)には反するけれど、意識的な「女流芸術家」がオキーフにひかれるのはわかるような気がする、と言い、昨夜、自分がわけ入ったばかりの陰唇のことを思い出し、同時にわけ入られた側の朝子も顔を赤らめながら思い出したので——もっとも彼女は自分のそれを見たことはなかったが——彼の「手」は自然にそこに導かれ、そのまま二人は同棲することになって、その結果七年になるが結婚式を挙げる気もなかったし、そんなこと考えてみたこともなかった。

金井美恵子『恋愛太平記 1 』第一部 三寒四温 p7~p9 より(集英社文庫).


 ワンセンテンスで、次女の朝子と塩瀬進の最初の出会いからその晩の初体験そしてそのまま同棲して七年経ったところまでを一気に書き切っています。

 80年代の経済、文化、風俗、ファッション、都市圏に生息する若者の生態を、時代の空気感ごとアイロニーとユーモアが混在した言葉で写し取っていると感じます。並の技倆で出来ることではありません。

 金井美恵子さんはこの『恋愛太平記』について、このように話していました。

「心理」を描写するにはモノではないので、暗喩に頼らざるを得ない。『恋愛太平記』においては、登場人物の表情、動作をきめ細かく描写することにより、暗喩に頼らない。

 そうなのです、金井美恵子さんがこの『恋愛太平記』で試みているのは、比喩を一切使わず、細部を徹底的に描写することで表現できる文学の可能性なのです。

 長大なセンテンスは、書く方も疲れるのだと金井美恵子さんが言っていたのを覚えています。それでも作品が書かれる限り、私は高い山を登るつもりでそれらの文章に食らいついていきたいと思うのです。



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