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【短編小説】 拝啓、花粉様
春の陽気が街を包み始めた3月中旬のある日、映像制作会社「スプリングフレーム」で働く白石陽子は、鼻をすすりながらモニターに向かっていた。
「白石さん、大丈夫?」
同僚の木村が心配そうに声をかける。
「ああ、この時期恒例の花粉症でね。でも問題ないわ」
陽子は軽く手を振って答えた。彼女は高校生向けの進路紹介番組で使われるインタビュー映像の編集を担当していた。締め切りは明後日。症状が悪化する前に仕上げなければ。
モニターには様々な職業人へのインタビュー映像が並んでいる。ディレクターからは「若者が将来に希望を持てるような明るい仕上がりに」と指示されていた。陽子はくしゃみを堪えながら編集を続けた。
次は花屋の店主・笹川美咲さんへのインタビュー。画面いっぱいに春の花々が映し出され、陽子は思わず目を細めた。だが、そのインタビューに集中するうち、彼女は少し息を呑んだ。
「花屋は季節ごとの喜びも悲しみも一緒に届ける仕事なんです。特に春は新しい始まりの季節。卒業や入学、就職のお祝いの花束を作りながら、お客様の新たな一歩に思いを馳せています」
美咲の言葉は優しく、花を扱う指先は繊細だった。だが、カメラが彼女の横顔を捉えた瞬間、一瞬だけ浮かんだ影のような表情を陽子は見逃さなかった。
編集作業を進めながら、陽子は何度もその瞬間の映像に戻った。それは確かに一瞬の陰りで、ほとんどの視聴者は気づきもしないだろう。ディレクターなら「その部分はカットして」と言うに違いない。明るく希望に満ちた番組作りが求められているのだから。
しかし、その表情がどうしても気になった陽子は、撮影時のメモを調べてみた。すると、美咲さんが高校生だった頃、花粉症の研究者になりたかったという記述を見つけた。その夢を叶えるため医学部を目指していたが、家庭の事情で断念し、花屋を継いだのだという。
「これか…」
陽子は花粉で赤くなった目を擦りながら、再び映像を見つめた。花に囲まれて微笑む美咲の表情の奥に、別の可能性への思いが垣間見えるようだった。自分も何かを諦めてきたのではないかという共感が陽子の中に広がった。
翌日、陽子は一つの決断をした。美咲さんのインタビューでは、夢を叶えられなかった経緯も含めて編集することにしたのだ。
「白石さん、この編集はちょっと暗くない?青春番組なんだから、もっとポジティブな内容にしてよ」
ディレクターの村上がモニターを指差す。
「はい、でも…これが本当の姿だと思うんです」陽子は目を合わせずに答えた。「夢を諦めたけど、それでも花と向き合って新しい喜びを見つけた。そういう生き方もあると伝えたいんです」
「若い子を混乱させるだけだよ」
村上は不満げに腕を組んだ。しかし、プロデューサーの山田が静かに口を開いた。
「いや、これでいこう。『夢』と『現実』、どちらも大切なことを教えてくれる内容になっている」
陽子は驚いて山田を見た。彼は微笑んでいた。
「私も若い頃は別の夢があったんだ。でも、今の仕事も好きになった。人生にはいろんな道があると、若い人に伝えたいね」
番組は予定通り放送された。美咲さんの話は「道は一つではない」というセグメントの中心となった。花粉症の研究者になりたかった彼女が、花屋として季節の変化と向き合いながら、別の形で花と共に生きる道を選んだこと。そして、それが必ずしも敗北ではないことが静かに描かれていた。
放送後、一人の女子高生から美咲さん宛ての手紙が届いた。「私も花粉症で苦しんでいます。でも、諦めずに研究者を目指したいと思います。同時に、花の美しさも大切にしたいです。別々の道のように見えて、実は繋がっているのかもしれませんね」
その手紙のコピーが陽子の元にも転送されてきた。添えられたメモには美咲からの言葉があった。「私の背景にある想いを大切に拾ってくれてありがとう」
陽子は窓の外を見た。春風に舞う花粉が夕日に照らされて、金色に輝いている。彼女はティッシュで鼻をかみながら、静かに微笑んだ。
人生には様々な可能性が漂っている。選んだ道も、選ばなかった道も、どちらも自分の背景として存在し続ける。それは花粉のように、時に苦しみをもたらすこともあるけれど、新しい命の始まりを告げる大切な存在でもある。
陽子は深呼吸した。くしゃみが出そうになったが、それすらも今は悪くない感覚だった。