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お米

朝ごはんにお米を食べるという行為には、単に、好み云々でパンではなくお米を選んだということ以上の意味があると思う。

お米はとにかく世話が焼ける。
時間に追われ忙しく暮らす現代人には到底好かれない代物だ。

金色の米粒たわわの稲の穂が、互いにもたれ掛かりながら立つ頃に、人間は大忙しでそれらを収穫する。それから大変な行程を経て、やっと我々の家へやってくるのだが。

はい、じゃあそのままいただきます。とはいかない。

シャカシャカとお米を研ぐ。
一人暮らしの1合2合ならまだしも、5合炊きで日に何度もお米を炊くような家なら、これはかなりの重労働だ。
だから家庭を持つ者の腕は逞しくなる。

苦労してお米を研ぎ終えたら、水に浸して小一時間。
こうして炊飯器にセットして待っていると、お米を炊こうとしていたのも、腹が空いていたのもまるっと忘れてしまうんだよなあ。
聞き慣れたメロディーは炊き上がりのサイン。蒸気に乗って排出されたお米の香りが部屋中に漂う。

時は金なり。すぐにしゃもじでほぐし、またしばらく待つ。

当然、腹が空いたので米を炊こう、じゃあ間に合わない。

けれども、私はこの時間が好きだ。
朝ごはんにお米を食べるために、炊飯時間を逆算しながら朝の支度をする。
お米を中心に置くことで、ダラダラとした朝を過ごさないですむ。
米研ぎだって朝の運動だと思っていいはずだ。
冬、凍えそうになりながら冷たい水に手を浸けるのだって愛おしい。

お米の不便さが、私を自然の流れの中に連れ戻してくれる気がする。

こんなことを書いているうちに、お米の匂いがしてきた。
今日のお供はししとうの漬物にしよう。

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